新組地区大黒町に5月オープンが決定した「北越戊辰戦争伝承館」。
それへ向けての講演会が「新組地域であった144年前の戦争」と題されて3回に分けて開催されました。
第1回「戊辰戦争と新組地区の村」
講師/長岡市科学博物館学芸員 広井造氏
第2回「戊辰戦争の鉄砲」
講師/長岡歯車資料館館長 内山弘氏
第3回「戊辰戦争における新組地方の位相」
講師/河井継之助記念館館長 稲川明雄氏
今回は、3月20日に新組地区コミュニティセンターにて開催された「戊辰戦争における新組地方の位相」について報告いたします。
冒頭に稲川明雄先生(郷土史研究家・河井継之助記念館館長)は「戦争」を死語にせず注視しなければならない。とお話しされ、「北越戊辰戦争伝承館」というネーミングは、世に問題意識を投げ掛けるものだと評価されました。
では、北越戦争の激戦地、福井〜大黒の古戦場に伝承館ができる価値とは何んなのでしょうか?
●大湿地帯「八丁沖」
かつて新組地区の側に横たわった広大な湿地帯「八丁沖」は、長岡城奪還戦の舞台でした。この大作戦の成功は長岡藩士の誇りであったそうです。
長岡藩は、福島江の整備などで盛んに治水を行ないながら、この八丁沖を放置したのは、長岡の守りとして戦略的に残したのだと稲川先生は考えられます。(城から丑寅の鬼門の方向にもあたる)新組地区の史料によると、八丁沖の中心部には隠田(おんでん)があったと記録されており、それは干拓が可能であったということを示します。
「北越戊辰戦争伝承館」の2回テラスから見渡す美しい田園風景は、その八丁沖の名残です。
●「山縣有朋」苦難の地
戦後、元勲として明治政府に君臨した山縣有朋は「福井」(現長岡市福井町)の名を聞くのも嫌だったのではないか?
新政府軍の3ヵ月にも渡る苦戦は、戊辰戦史において他に例がありません。その激戦を現代に訴えかけるかのように、近年の農地整備まで古戦場には無数の弾丸と砲弾が散らばっていました。
北越戦争の指揮官山縣狂介(後に有朋)が、朝日山の戦いにおいて親友・時山直八を失った際に詠んだ『あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風』の詩は、福井村での苦戦に明治維新危うしとまで追い込まれた心情が反影されているのではないかと、稲川先生は考えられます。
その戦地福井村は長谷川泰の出身地です。宿敵河井継之助の影を纏い、官制の医療に対して民間の医療を猛然と押し進める泰の姿は、山縣有朋の目にどう映ったでしょう。泰には、帝国議会で山縣のことを「薩長閥の闇将軍」と野次ったという伝説があります。
●「北越戦争」の意義
なぜ長岡は明治維新に立ちはだかったか。稲川先生はそれが北越戦争の研究テーマだとされます。
戦争において、一方に絶対の正義があるわけでは無いと考えるのは自然です。時を経ての俯瞰した評価であればなおさら、手放しに「勝てば官軍」とは言い切れません。
討伐指定を受けなかった長岡藩があえて困難に向け舵を切ったのはなぜか。新政府に何を投げかけるべく戦略を練ったのか。
その決断により、多くの民衆が選択の余地も無いままに戦禍に呑まれたのはなぜなのか。
〜長岡の軍事総督河井継之助が結果として戦端を開いてしまった、あの「小千谷談判」の決裂は、そもそも長岡藩の情報不足だったとの指摘がありますがしかし、実際には長岡は諜報活動に重きをおいた藩だったそうです。〜
幸福にも私たちにとって現実では無くなろうとしている、しかし世界には依然として在る「戦争」と向かい合う場所に「北越戊辰戦争伝承館」はなるでしょうか。
以上、聴講したブログ管理人の個人的な解釈を交えての報告でした。
気になる展示の具体的な内容は、後日に分りましたら投稿します!