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新組小学校卒業式 [2012年03月23日(Fri)]

 今日3月23日は、新組小学校の卒業式です。
 長谷川泰を語る会の理事長もお招き頂きました。
 昨年に引き続き、長谷川泰先生のふるさと新組小学校の卒業生の皆さんには、漫画長谷川泰ものがたりがプレゼントされます。泰先生の成長物語が、新しい学校生活での勇気になってくれれば嬉しいです。
 皆さん、ご卒業おめでとうございました!

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 卒業生にも参加していただいた、長谷川泰ものがたりの感想文集ができあがっています。
 感動の内容はまたの更新にてお伝えいたします。
【講演】新組地域であった144年前の戦争 [2012年03月23日(Fri)]

 新組地区大黒町に5月オープンが決定した「北越戊辰戦争伝承館」。
 それへ向けての講演会が「新組地域であった144年前の戦争」と題されて3回に分けて開催されました。

 第1回「戊辰戦争と新組地区の村」
 講師/長岡市科学博物館学芸員 広井造氏

 第2回「戊辰戦争の鉄砲」
 講師/長岡歯車資料館館長 内山弘氏

 第3回「戊辰戦争における新組地方の位相」
 講師/河井継之助記念館館長 稲川明雄氏

 今回は、3月20日に新組地区コミュニティセンターにて開催された「戊辰戦争における新組地方の位相」について報告いたします。

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 冒頭に稲川明雄先生(郷土史研究家・河井継之助記念館館長)は「戦争」を死語にせず注視しなければならない。とお話しされ、「北越戊辰戦争伝承館」というネーミングは、世に問題意識を投げ掛けるものだと評価されました。

 では、北越戦争の激戦地、福井〜大黒の古戦場に伝承館ができる価値とは何んなのでしょうか?

●大湿地帯「八丁沖」
 かつて新組地区の側に横たわった広大な湿地帯「八丁沖」は、長岡城奪還戦の舞台でした。この大作戦の成功は長岡藩士の誇りであったそうです。 
 長岡藩は、福島江の整備などで盛んに治水を行ないながら、この八丁沖を放置したのは、長岡の守りとして戦略的に残したのだと稲川先生は考えられます。(城から丑寅の鬼門の方向にもあたる)新組地区の史料によると、八丁沖の中心部には隠田(おんでん)があったと記録されており、それは干拓が可能であったということを示します。
 「北越戊辰戦争伝承館」の2回テラスから見渡す美しい田園風景は、その八丁沖の名残です。

●「山縣有朋」苦難の地
 戦後、元勲として明治政府に君臨した山縣有朋は「福井」(現長岡市福井町)の名を聞くのも嫌だったのではないか?
 新政府軍の3ヵ月にも渡る苦戦は、戊辰戦史において他に例がありません。その激戦を現代に訴えかけるかのように、近年の農地整備まで古戦場には無数の弾丸と砲弾が散らばっていました。
 北越戦争の指揮官山縣狂介(後に有朋)が、朝日山の戦いにおいて親友・時山直八を失った際に詠んだ『あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風』の詩は、福井村での苦戦に明治維新危うしとまで追い込まれた心情が反影されているのではないかと、稲川先生は考えられます。
 その戦地福井村は長谷川泰の出身地です。宿敵河井継之助の影を纏い、官制の医療に対して民間の医療を猛然と押し進める泰の姿は、山縣有朋の目にどう映ったでしょう。泰には、帝国議会で山縣のことを「薩長閥の闇将軍」と野次ったという伝説があります。

●「北越戦争」の意義
 なぜ長岡は明治維新に立ちはだかったか。稲川先生はそれが北越戦争の研究テーマだとされます。
 戦争において、一方に絶対の正義があるわけでは無いと考えるのは自然です。時を経ての俯瞰した評価であればなおさら、手放しに「勝てば官軍」とは言い切れません。
 討伐指定を受けなかった長岡藩があえて困難に向け舵を切ったのはなぜか。新政府に何を投げかけるべく戦略を練ったのか。
 その決断により、多くの民衆が選択の余地も無いままに戦禍に呑まれたのはなぜなのか。
 〜長岡の軍事総督河井継之助が結果として戦端を開いてしまった、あの「小千谷談判」の決裂は、そもそも長岡藩の情報不足だったとの指摘がありますがしかし、実際には長岡は諜報活動に重きをおいた藩だったそうです。〜
 幸福にも私たちにとって現実では無くなろうとしている、しかし世界には依然として在る「戦争」と向かい合う場所に「北越戊辰戦争伝承館」はなるでしょうか。 


 以上、聴講したブログ管理人の個人的な解釈を交えての報告でした。
 気になる展示の具体的な内容は、後日に分りましたら投稿します!
 
【掲載情報】記念講演の様子/長岡新聞 [2012年03月22日(Thu)]

 地元誌長岡新聞の3月17日の1面と、22日に、大ボリュームで掲載して頂きました!
 いつも積極的な取材をして頂きありがとうございます。

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長谷川泰先生を語る交流会 [2012年03月12日(Mon)]

 3月11日の記念講演の後の交流会の様子です。
 この日、長谷川泰の100度目の命日は、東日本大震災から1年。会の開幕を前にまず黙祷が捧げられました。
 ※当ブログ関連記事【長谷川泰没後100年記念講演】

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長谷川泰を語る会の面々


 冒頭、長谷川泰翁銅像建立の発起人代表、星野伊佐夫県議(新潟県議会)が長谷川泰の偉業を賞賛され、生地への銅像建立の意義をお話しされました。全国の医療関係者と郷土越後から広く御寄付をお願いしたいこと、そしてなにより生地新組地区には「100円でもいいから!」と皆さんからの御寄付を呼びかけられていたのが心に残りました。

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星野伊佐夫県議


 続いては、画家の吉田直治先生(長岡市在住)の作品のお披露目の模様です。
 晩年の長谷川泰は漢詩の中で故郷を桃源郷と喩えたとされます。このたび吉田先生はその心情を墨絵に表してしてくださいました。幅2メートルの大作には、長谷川泰が恋い焦がれたであろう穏やかな農村の雪景色が描かれています。

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桃源郷の絵お披露目


 この日、東京からは来賓として日本医科大学関係者をお招きしています。日本医科大学中央図書館事務室長殿崎正明先生、OBで放射線科の医師であられる山本鼎先生です。ブログ管理人は、この前日にお二方と県内の史跡巡りを御一緒させて頂いています。
 殿崎先生からは力強い応援のスピーチを頂きました。

 その内容は、長谷川泰は民による医学教育の先駆であり官制医学の批判者だったが、国内2校目の官立大学である京大(関西帝大)創始の起案者であることは忘れられない、というものでした。
 喧嘩はするが派閥争いに捕らわれず、国民の健康と医療の発展を第一に置いた長谷川泰の偉さを物語るエピソードです。
 また殿崎先生は、長谷川泰の教え子である日本医科大学、そして同郷である長岡の人たち、一番の当事者の私たちからまず長谷川泰の偉業を全国へ向けて讃えて行きたいと、熱く訴えかけられていました。

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日本医科大学中央図書館殿崎先生


 長谷川泰翁銅像を制作中の峰村哲也先生(長岡市在住)も壇上で紹介されています。峰村先生はこれまで、良寛像、河井継之助像を創られています。その両者無くしては長谷川泰の活躍は無かったといわれますから、この度の銅像をお任せするのに峰村先生こそが又とない彫刻家なのです。
 稲川明雄先生の講演や殿崎先生のスピーチから、長谷川泰の偉大さを再確認されたと話されていました。

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彫刻家峰村哲也先生


【長谷川泰翁像建立のお報せ】

 星野伊佐夫新潟県議会議員を発起人代表とし、生地への銅像建立が進められています。
 長谷川泰を語る会としても、地元新組地区の住人、長岡市民を始め、長谷川泰先生を慕う多くの皆さんから、建立資金の寄付のご協力をお願いしています。
 口数や額は定めておりません。どんなにささやかなものであっても、その温かいお気持ちをできるだけたくさん集めたいと願っています。

   発起人代表 新潟県議会議員 星野伊佐夫
   発起人 長岡商工会議所会頭 丸山智
   発起人 長岡医師会々長 太田裕
   発起人 中央綜合病院々長 吉川明
   発起人 長岡管工事組合長 室橋一司
   発起人 郷土史研究家 稲川明雄
   発起人 燕市長善館研究家 吉田勝
   発起人 新潟県生活衛生同業組合連合会々長 小林弘昌
   発起人 長谷川泰を語る会代表 恩田利平太

<主管>郷土の偉人長谷川泰を語る会
      新潟県長岡市新組町5331-1 電話0258-24-3123(愛輪商事内/事務局)

 【寄付金の振込口座】
 ゆうちょ銀行 00510-9-84951
 加入者名 長谷川泰を語る会
長谷川泰没後100年記念講演 [2012年03月11日(Sun)]

 平成24年3月11日は、長谷川泰先生の100度目の命日です。
 生地長岡では、それを記念しての講演会が開催されましたので、その模様を報告いたします。
 
 講師は郷土史ファンにはおなじみの、河井継之助記念館館長稲川明雄先生です。

 稲川明雄先生には長谷川泰の活躍をユーモアたっぷりにお話頂きました。
 泰にはニヤリとする逸話が多く、その面白さを伝えるのは講釈上手でなければなかなかできません。

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会場には140人ほどは集まっておられたでしょうか。
壁に掛けられた墨書『済生救民』とは長谷川泰の生涯のテーマ。「広く民衆を救う」という意味があります。東日本大震災1年後の3月11日に、あえてイベントを催すにはこのテーマを考えることが必要でした。

 以下、稲川先生の講演より趣意を拾い上げて抜粋しました。(お話を聴いたブログ管理人の主観も混じるかもしれません。)

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●泰は八十里越えに同行せず逃げたのではないか。
 戦争は終ったならば、武士に同行するよりも残された村人を助けたいと。
●泰は自分が医者なのに医者がいらない世の中を作ろうとした。
 感染源対策や公衆衛生への先覚は、民衆を病気にさせない為にあった。
●泰が居なければ野口英世は千円札にならなかった。
 野口は泰校長の済生学舎で医師の資格を得た。
●政治と文化は相反しない。
 泰は役人嫌いなのに官僚になったが、政治を用いて世の中を変えるためだった。
 良寛や河井継之助から学んだ精神は、政治に活かすことができる。

 そして以下の内容は、来賓でありました元北里大学準教授川村賢司先生のご御挨拶の内容からです。

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 北里柴三郎が恩師とする人物は3人。
 ・細菌学の師、コッホ博士。
 ・帰国後の北里冷遇の中、猛然と支持論を展開した長谷川泰。
 ・北里伝染病研究所の設立を援助した福沢諭吉。
 泰と北里は似た者同士とも話されました。どこか反大成の気があって、信念を曲げず気が短い辺りのことでしょうか。

 講演の最後には、長岡市教育委員会に「長谷川泰ものがたり」の読書感想文集を寄贈させて頂きました。27名の小学生が書いてくれた、感動が詰まった1冊です!

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