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鵬斎の書〜蒼龍館/青鬣館 [2011年11月19日(Sat)]

 越後に数々の書を残す亀田鵬斎は、江戸時代の書家、儒学者です。
 以下の写真はいずれも鵬斎のものですが、長谷川泰ゆかりの家に残されていました。



 「蒼龍館」(そうりゅうかん)
 新組地区四ツ屋町の清水家は、この地で長く私塾を営んでいました。
 残された古文書から長谷川泰(幼名多一)が門下生であったのかは今のところ不明ですが、生地の福井村からはほんの間近、何の関わりも無いとは思えません。
 以前に記事にした「宝珠育児園」と長谷川泰との関わりは、清水家の史料から見つけて頂いたものです。
 ※当ブログ関連記事「宝珠育児園」



 「青鬣館」(せいりょうかん)
 「長谷川泰ものがたり」にも登場させて頂いた、長谷川泰と外山脩造の二大偉人を育てた徂徠学者・井上五蔵に学んだ私塾です。現見附市の耳取村にありました。
 こちらはその井上家に残された書です。文化6年と元号が記されていますが、これは亀田鵬斎が越後を旅した時期と一致します。
 ※当ブログ関連記事「青鬣館に学ぶ」


 亀田鵬斎は、文化6年から日光〜信州〜越後〜佐渡と旅をしています。3年間の旅費の多くは越後商人のスポンサーによるそうです。
 上記2軒の私塾は八丁沖を挟んだ隣村にありましたから、互いに連絡し合って鵬斎を持てなしたのではないでしょうか。
 (塾名の響きがちょっと似ていますね。どんな由来があるか調べてみたいところです、中国の故事や漢詩からの引用でしょうか?)

 鵬斎は越後の旅の中で出雲崎にて良寛と出会いましたが、大いに影響を受けて江戸に戻ると、その書が大人気を博し人々は競って揮毫を求めたと言われます。
 「鵬斎は越後がえりで字がくねり」と、良寛の大らかな筆致の影響を川柳に歌われてもいます。
【定例会】稲川明雄先生再び [2011年11月11日(Fri)]

 毎月、長谷川泰先生の月命日に行なわれる定例会にて、再び河井継之助記念館館長稲川明雄さんをお招きし、講義を頂きました。
 先日大好評だった新組地区コミュニティセンターでのミニ講演を聞き逃した方々、20名以上が集まりました。



 先日の新組地区コミュニティセンターでの講義内容に、新たに加えられたメッセージを書き起こしてみます。


 頻発する越後平野の洪水〜平地は排水が悪く溜まり水が腐り(腐り水)伝染病が流行る。この苦しみが越後の名医輩出の基盤であり、八丁沖近くの長谷川泰生地福井村もまさに同様の土地であった。

 長谷川泰の名声は偉業に反して長岡で低い。しかし現在も医学界では有名人、河井継之助よりも全国区だとのこと。
 ただし東京の国立大の先生には評判悪しと・・・生きて活躍された頃から公立校の先生との喧嘩が絶えませんでしたから、良い伝わり方はしていないかもしれませんねぇ。

 新組地区の歴史文化財産、戊辰戦争、四人の花火師、長谷川泰、いずれも全国区で語れるものであるので、新組地区大黒町にオープンする「北越戊辰戦争伝承館」(4月予定)でも、地域の関係資料として長谷川泰を展示すべき。価値観が激しく変容して行く現在の社会に合致したテーマを持った偉人だとのこと。

 そして稲川先生は結びにこうエールを贈られました。
 先祖の苦労は忘れたいというDNAが皆さんの中にあると思う。しかし、故郷を良くする為に頑張った先祖の姿を勉強して、次の時代に伝えてもらいたい。


 以上でした。
 稲川明雄先生、いつもありがとうございます。
新組地区作品展 [2011年11月11日(Fri)]

 昨年に引き続き新組地区コミュニティセンターで開催される地域の作品展に参加いたしました。
 今年も玄人はだしの作品が集まっております!

 11月12日(土)の朝9時〜午後3時まで開催中です。



 長谷川泰を語る会の展示は、御当地伝記マンガ長谷川泰ものがたりの作り方。原画を使って漫画の作業工程を簡単に説明しました。子どもたちも描いてくれると嬉しいなー。



 こちらは、日本自費出版文化賞の賞状です。やりました!と御報告。中山千夏理事のお名前に、年輩の皆さんが反応されます。



 この夏の長岡花火でメッセージ花火を打上げた、その記念で観光課から頂いたレプリカ玉も展示。地域の内外からほんとうにたくさんのご協力を頂きました。ありがとうございます。



 別室では郷土史の展示もあります。地元研究者の皆様が史跡MAPを作成、新組地区の名所がずらり並んでいますよ。必見です!
 河井継之助記念館と共同で開催された、八丁沖ウォークの写真も楽し気です。全国から集まったファンで、新組の田園に長い行列ができました。

宝珠育児園 [2011年11月07日(Mon)]

 現在の新組地区百束町、宝珠院にはかつて親の戦死による孤児を育てる施設がありました。
 明治33年(1900)、宝珠院の住職となった土田義範(北谷村出身)が、日清戦争後貧しい時代に孤児を集め開園。私財を投げ打っての厳しい運営でしたが、やがて宮内省から下賜金が贈られる評価を受けました。
 大正2年(1913)に廃園になるまで、社会に送り出した児童の数は160余名。同地に私塾として開校した宝珠学園の生徒数は数百人に登りました。



 宝珠育児園では、薬の行商を社会へ出る児童の自立の手段としました。
 上の写真をご覧ください。行商で児童たちが扱う目薬を処方したとされるのが、元衛生局長(すでに退官後です)長谷川泰と記されています。



 また、歯磨き剤の処方は新潟県歯科医会長の石塚三郎。安田村出身で野口英世の親友、野口の母シカの写真を撮影した人物です。写真家としても有名で、明治の新組地区を訪れて撮影もしています。
【講演】北越戊辰戦争と八十里越 [2011年11月06日(Sun)]

 10月30日、三条市の諸橋轍次記念館で開催された、長岡河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講演「北越戊辰戦争と八十里越」に参加しました。八十里越の入口にほど近い下田という事もあり、今回のテーマに関心の深い方も多かったことと思われました、来場なんと100人の大盛況です。



 稲川明雄さんは、ご自身の足で2度八十里越の難路を歩かれ、詳しい取材を行なわれています。講演では、北越戦争終結後(長岡城落城後)の同盟軍と長岡藩軍の、八十里越での動向が解説されました。
 戦禍に巻かれて我が子を殺める母、略奪行為を恥じ自害する武士・・・当地の記録に残る戦争の悲劇は、普段の長岡郷土史の中ではなかなか触れられるものではありません。明治維新とは必ずしも正義の改革と言えたのか?その悲劇は、歴史を見直す糧とすべきと稲川さんは語られました。
 また、八十里越に比べればマシと、三島億二郎ら長岡藩士は復興までの苦難に耐える事ができたとも考えられています。

 長岡出身の人類学者・小金井良精の妻である小金井喜美子(森鴎外の妹)の書いた「戊辰戦争むかしがたり」によれば、9歳の良精も八十里を越えているそうです。(稲川さんの説によれば、軍医長谷川泰は八十里に同行してはいません。)

 長岡軍軍事総督であった河井継之助は、致命の重症を負いながら八十里(実際は八里ほどだがあまりに険しいため十倍に表現された)の峠を越えました。その道中で死を覚悟した継之助は、有名な「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の自嘲の句を詠みました。
 それに対して稲川さんは、只見に抜ける道中の継之助は再び生きる気を起こしたのだと想像されました。担架に横になりながら見上げた空を自由に流れる雲が、継之助を生きる気にさせたと表現されています。
 しかし間もなく只見の地で継之助は力尽きますが、「商人になれ」と外山脩造の未来を示した最後の薫陶などは、前向きな精神あってこそのものだと確かに思えます。

 講演後の質疑応答では、来場者の質問に答えた稲川明雄さんが河井継之助を「現実的、真面目、優しい人」などなどと褒めちぎる場面がありました。同時に、山田方谷に民衆主義を学びながら民を守るために戦争回避に踏み切る事のなかった事を、今も継之助に問い続けているのだとも話されてもいます。その様子を傍聴しながら、これは本物の愛情だと感動いたしました。

 越後郷土史における戊辰戦争の検証は、その後の政治などマクロに捉えるばかりでなく、地域ごとにミクロに深く探っていくべきだと締められました。その一つ一つの集合が歴史の本当の姿を形作るのでしょう。
 稲川明雄さんの講演は、その時々のテーマに限らず常に「越後人気質」「長岡藩風」探るものであり、郷土史の基本を押さえるのに最適なお話だと思っています。この度も、大変に勉強になる講演でした。



 幼い日に西遊記などの中国の物語に出会ったことが切っ掛けとなり、生涯を通じて漢学と儒学の研究に情熱を傾けた諸橋轍次は、下田村の生まれです。「大漢和辞典」の編纂は歴史的な偉業となりました。
 諸橋轍次は少年時代の長谷川泰も学んだ漢学塾・長善館を「越北の鴻都」と呼び讃えています。(中国が漢の時代、優秀な人材を集めた鴻都門という学問の一派がありました。)

 諸橋轍次記念館(三条市公式サイト)
圃場整備 [2011年11月05日(Sat)]



 10月28日、猿橋川右岸と新組地区の圃場整備竣工式典が行なわれました。
 猿橋川右岸地域を流れる大江用水は、江戸時代に長谷川利右衛門(長谷川泰の先祖・福井村の開祖)が中心となって掘られた水路です。また、それと同時代から長岡を広く潤す福島江は桑原久右衛門の仕事。どちらも新組地区ゆかりの偉人です。
 新組地区は古くから水との戦い、治水の努力が繰り返されて来たのですが、このたびの圃場整備は、その長い歴史の集大成ともいえるのではないでしょうか。ますます豊かに、四季の農作物が実る土地となることが期待されます。
 (工事に伴い、四ツ屋町近くの田園で大規模な中世の遺跡が発見され注目を集めました。)


 式典では森民夫長岡市長からのスピーチも。
 「長谷川泰ものがたり」を直接お渡ししてPRしました!

 
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