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稲川明雄先生ミニ講演 [2011年10月30日(Sun)]

 長谷川泰翁像の建立が推進される新組地区です。
 その報告会の席に、発起人の一人である稲川明雄先生に起こし頂き、素晴らしいミニ講演が開かれました。その中では新組地区にとって「俺たちの長谷川泰」だと誇りなさいとのエールを送って頂いています。



 稲川先生は河井継之助記念館の館長であられ、継之助への愛着は並々ならぬものです。その先生をして、全国的な知名度でいえば泰は師匠の継之助を超えるであろうと言わしめるのです。
 稲川先生が取材された頃、私立医学校出身の先生で長谷川泰の名を知らぬ方は居なかったそうです。それだけに、故郷長岡で顕彰が行なわれて来なかったのがおかしいのです。
 その長岡での知名度の低さは、対立した藩閥政治の影響から親族らを守るため、長谷川泰自ら故郷と絶縁したことが原因にあるとも言われます。

 --戊辰戦争最大の激戦、50日に渡る北越(越後)の戦いで西軍を率いたのは山縣有朋です。
 --友人時山直八を失うなど、激戦の最中で歌った句「あだ守る とりでのかかり火 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風」では予想だにせぬ苦戦の心情を吐露しました。
 --その北越戦争の中でも、西軍が最も攻めあぐねたのが福井村・大黒村の攻防、つまり長谷川泰の生地での戦いなのでした。

 長岡藩の軍医であった長谷川泰。山縣との戦中の交わりは不明です。
 しかし戦後、山縣を元勲とする明治政府に何かと楯突いてくる越後人の医者が居り。それがあの苦闘の地の出身であり、しかも難敵河井継之助の精神と面影を纏っているとあれば、それは心穏やかでは無かったであろうとの事でした。
 藩閥政治との対立は、北越戦争から始まる両者の信念を掛けた延長戦であったのかもしれません。その長谷川泰の存在を知らしめる事は、歴史の中の大事件になるとも、稲川先生先生は話されました。

 最後に稲川先生先生が話されたのは、長谷川泰の肩書きには学校長、政治家、官僚と色々あるが、最大の功績は「人命を救ったこと」だということです。医者というよりは医師を育てた医学者、それによって世直しをした『経世家』であり、ひたすら公益のために働いた人であったとのお考えでした。

 このたびの講演は、お願いしていた時間を大きく超える熱の入り方だったようです。
 参加者に後で感想を伺ってみると〜〜「聴きいってしまった、時間が足りなかった!」「面白かった、もっと大きな講演をやれば新組が盛り上がる!」と大反響。
 長谷川泰を語る会では、これからも郷土史の先生をお招きして講演活動を続けてまいります、お楽しみに!


【長谷川泰翁像建立計画のお報せ】

 星野伊佐夫新潟県議会議員を発起人代表とし、生地への銅像建立が進められています。
 ※関連記事「長谷川泰翁像の建立が発起」
 長谷川泰を語る会としても、地元新組地区の住人、長岡市民を始め、長谷川泰先生を慕う多くの皆さんから、建立資金の寄付のご協力をお願いしています。
 口数や額は定めておりません。どんなにささやかなものであっても、その温かいお気持ちをできるだけたくさん集めたいと願っています。

<主管>郷土の偉人長谷川泰を語る会
      新潟県長岡市新組町5331-1 電話0258-24-3123(愛輪商事内/事務局)

 【寄付金の振込口座】
 ゆうちょ銀行 00510-9-84951
 加入者名 長谷川泰を語る会
【銅像建立】日本医科大学へ取材 [2011年10月29日(Sat)]

 長谷川泰翁銅像建立を目指し、東京は日本医科大学へ取材に訪れました。
 読者の皆様には既に言わずと知れた、長谷川泰の「済生学舎」を起源とする私立医科大学の名門です。
 医学部のエントランスには、今年春に寄贈された長谷川泰先生と、OBを代表する野口英世博士の胸像が並んでお出迎えです。何度見ても胸躍るツーショットなのです。

 ※当ブログ関連記事
 「日本医科大学に長谷川泰像」



 長岡在住彫刻家の峰村哲也さんに御一緒させて頂き、ブログ管理人は4度目の日医です。この度も、医史学教育研究会の唐沢先生、志村先生、殿崎先生に御案内頂きました。お会いする度に目からウロコなのですが、この日は彫刻家・峰村さんの目線から新たな長谷川泰像を引き出して頂けたと思います。



 上の写真は、日医同窓会の橘桜会館に展示させる長谷川泰晩年の漢詩の偶成です。読書に没頭して過ごす晩年の淋しい心情が表れており、峰村さんも大変に感じ入られている様子でした。
 長谷川泰の孤立は、医学史の中では癇癪を起こして投げ出したとされてきた済生学舎の「廃校」に起因するでしょう。しかし、その廃校がいかにして仕組まれたものであったか、校長長谷川泰の学校存続への努力はいかほどであったのか、日本医科大学医史学教育研究会の努力によりその事実は明らかになっています。

 橘桜会館には、開学の祖長谷川泰とその故郷越後との関わりが展示されていますが、同校出身の偉人が野口英世はもちろん多数顕彰されています。


小此木信六郎理事長


 日本医科大学の開学の精神は「克己殉公」。これは当時の理事長小此木信六郎がフーフェランドの「医戒」から引用されたものです。つまりこれは長谷川泰が佐藤尚中から受け継いだ「済生救民」と原典を同じくするものですが、小此木信六郎の当時済生学舎と日医との関係は明らかにされていません。〜二つの精神が偶然の一致により結びついていたこと、記録が失われても精神が受け継がれていた事実に強く感動します。
 現在では、「克己殉公」と「済生救民」は共に日本医科大学の開学の精神として並び顕されることになりました。


肥沼信次の展示


 ドイツのウリーツェンの伝染病医療センター初代所長、近代日医の偉大なOB肥沼信次の展示です。
 チフス・コレラなどの疾病対策に尽力する中で自身もチフスに罹い、1946年3月8日37歳で死去。死の直前に看護師に「桜が見たい」と言い残し、後にウリーツェンに日本から桜の木が贈られました。
 誰かに似ていませんか?・・・そう、野口英世です!肥沼信次の時代にも野口がOBとの意識はまだ無かったはずですが、精神とはこの様に受け継がれるものなのですね。

 肥沼信次の伝記絵本
amazon「ドイツ人に敬愛された医師・肥沼信次」

 なんと、肥沼信次を題材にしたコミックもあるんですね!
amazon「リーツェンの桜/舘澤 貢次 (著),かどた ひろし (イラスト) 」



 そして、上の写真は殿崎先生の最新の野口研究から。
 野口の論文が世界でいかに多数の引用を受けているかを示すデータなのですが、この数字を超える者はなんとアインシュタイン博士しか居ないそうです!
 私たちの知らない専門分野での野口の注目度には驚かされます。日本はまだまだ胸を張って野口英世博士を顕彰すべきですね。


 唐沢先生は言われます。
 「開学の祖は学校の目標となる人物、長谷川泰を校史に置いて先生が変わり生徒が変わった。学校に勢いが生まれた。郷土史の中の長谷川泰も同じ役割を果たすのではないか。」と。
 大学を後にすると、峰村さんとブログ管理人は谷中霊園にある長谷川家の墓に御挨拶をいたしました。素晴らしい銅像が造り出されると思っています。
 日本医科大学の皆様、取材にお付き合い頂きまして有り難うございました。


【長谷川泰翁像建立計画のお報せ】

 星野伊佐夫新潟県議会議員を発起人代表とし、生地への銅像建立が進められています。
 ※関連記事「長谷川泰翁像の建立が発起」
 長谷川泰を語る会としても、地元新組地区の住人、長岡市民を始め、長谷川泰先生を慕う多くの皆さんから、建立資金の寄付のご協力をお願いしています。
 口数や額は定めておりません。どんなにささやかなものであっても、その温かいお気持ちをできるだけたくさん集めたいと願っています。

<主管>郷土の偉人長谷川泰を語る会
      新潟県長岡市新組町5331-1 電話0258-24-3123(愛輪商事内/事務局)

 【寄付金の振込口座】
 ゆうちょ銀行 00510-9-84951
 加入者名 長谷川泰を語る会
【表彰式】日本自費出版文化賞 [2011年10月22日(Sat)]

 10月22日、東京市ヶ谷で第14回日本自費出版文化賞の表彰式が行なわれました。
 「長谷川泰ものがたり」は見事入選、長谷川泰を語る会から漫画の取材編集担当がお招きに与ったのでした。



 表彰の前には、NPO法人日本自費出版ネットワーク理事、作家の中山千夏さんから御挨拶がありました。(中山さんは往年のアイドルであり、ブログ管理人の母もよーく知っていました。)
 入賞作はもちろんのこと、入選作の著者の皆さんも何十年という取材をされたベテラン、または著名人・文化人がお揃いです。
 その中で私たちの『長谷川泰ものがたり』が選ばれた意味を、非常に重く感じた漫画担当は大変に緊張しながら、壇上で表彰を受けたのでした。一番の功労者である漫画の作者が、都合で同席出来なかったことは大変に残念です。(1人で参加した為に表彰の場面の写真がありません!)

 受賞者のお言葉で印象的なものがあります。
 「こんな分厚い本(自らの著書)は僕なら読みたく無いけど、分厚くなるまで徹底的にこだわれるのが自費出版の良さ。」
 多方面の意図を汲む必要がある商業出版では表現しきれないものが、自費出版では本として残せるのです。



 この度は印刷業界からの挨拶においても、電子書籍への関心が語られていました。
 その可能性に着目した日本自費出版文化賞では、第11回からデジタルデータの応募も受け付けるそうです。出版はより身近なものになる様です。
酒呑童子とは何者だ? [2011年10月16日(Sun)]

 10/16、燕市の道の駅久賀美にて第7回になる「酒呑童子行列」が開催されました。
 良寛の五合庵があったことで有名な国上山、その中腹に今もある名刹国上寺で修行をした美しい稚児「外道丸」。後の彼が日本で最も有名な鬼「酒呑童子」なのです。
 その酒呑童子の伝説をイメージした、鬼たちの仮装行列が「酒呑童子行列」です。

 昼の部では、「酒呑童子は何者だ?」と題して高橋郁丸さんのトークイベントが開催。
 高橋さんは良寛の漫画や妖怪の研究など、県の郷土史から民俗学まで幅広く御活躍されています。
 ブログ管理人が前々からお会いしたかった高橋郁丸さん。長岡での木喰上人の講演を逃して以来の念願が叶いました。



 トークで非常に興味深かったのは、天狗や山姥などの化け物を仕立て上げるのは、時の権力者なのかも?という点。出る杭は打つ・・・でしょうか?
 最も定番化した伝説では、源頼光、坂田金時(金太郎!)、陰陽師の安倍晴明らの有名人が、よってたかって酒呑童子を退治に掛かりました。
 しかし、酒呑童子が潜んだ鬼ケ城があったとされる京都の大江町では、薬酒を醸造して民から親しまれれていたという言い伝えが残るそうです。そこからさらに高橋さんが話されたのは、寺で修行をした酒呑童子ですが仏教では酒は禁忌、一方で神道では神事に酒が使用されますから、酒呑童子は日本の古神道に傾倒し、それが仏教徒から疎まれたのではとの内容。
  うーん、凄いロマンですね!国上山中の稚児道を歩き弥彦神社への使いを勤めるうちに感化されたのでしょうか?

 ところで長岡藩家老の河井継之助は、この酒呑童子を尊敬した変わり者です。トークの後でそのことを高橋郁丸さんに質問すると、その時代に酒呑童子を尊敬するのは異例とのことでした。
 哀愁漂うヒールの酒呑童子と河井継之助。思い浮かぶことろは多々ありますが、もしかすると西国遊学の際に訪れた京都で酒呑童子伝説の真実に近づいていたのかもしれませんね。


「ケンオー・ドットコム」酒呑童子行列の記事
二虎 [2011年10月11日(Tue)]

 長岡の歴史を題材にした御菓子を作る米百俵本舗の『二虎』です。



 <以下、公式サイトより>
 「長岡藩の大参事であった小林虎三郎は佐久間象山の優秀な門下生であった頃、吉田松陰(幼名,寅次郎)と共に「象門の二虎」と称され、佐久間象山に「我が子の学問を任せるのは小林虎三郎」と言われた程の優れた人でした。そのいわれから、このお菓子を“二虎”と名付けました。」

 どら焼きならぬ「とら焼き」の二虎(にこ)なのです。生地の表面には虎縞の様な焼き模様が入っています。
 バター餡味は、餡の甘みにバターのコクが加わってとっても美味ですよ!

「米百俵本舗」WEBサイト

 いつか長谷川泰先生にちなんだ御菓子も出来るといいなー。
【イベント報告】郷土史探訪ウォーク [2011年10月09日(Sun)]

 長谷川泰のふるさと新組地区と、その幼馴染の外山脩造のふるさと栃尾小貫をつなぐ郷土史探訪ウォーク。10月9日に開催致しました。
 「長谷川泰ものがたり」の冒頭シーンの様な、少年時代の2人が耳取の塾へ通った景色を行き、史跡では郷土史研究家の深滝純一さんから解説を頂きました!
 
 栃尾の郷土史、伝説にお詳しい深滝さんは、現在長谷川泰と外山脩造そして共通の師である井上五蔵をテーマに本を執筆中。その完成を前に各地で精力的に講演をして回られています。
 <見附市ふぁみりあ企画による、山本五十六と山本帯刀の史跡ツアーも開催>

<行程>歩行距離約10km
福井町神社集合〜徒歩〜耳取町着
<泰と脩造の師・井上五蔵石碑/深滝さん解説>
バス移動〜小貫着
<外山脩造石碑/深滝さん解説>
休憩/昼食(小貫公民館)
バス移動〜椿沢着
徒歩〜八丁沖<長谷川泰を語る会・井上道弘さん解説>〜福井町神社着


八丁沖の田園を行く語る会の勇姿



耳取町、泰と脩造の師・井上五蔵の碑の前で



羽黒神社、大河「義経」放送時に静御前の墓所の手掛かりとなった石碑



長岡の偉人随一と思われる、巨大な外山脩造の碑



八丁沖古戦場、写真の端と端を砲弾が飛び交った

(左が西軍陣地の大黒町、右が東軍陣地の福井町)


 帰路の八丁沖では「梯子橋」「八丁沖橋」の上で、長谷川泰を語る会の井上道弘さんによる解説を受けました。かつての八丁沖の地形、広大な沼地の治水をどのように行なったのか。そして2ヵ月に渡り戦線となった戊辰戦争最大の激戦地、新組地区の戦いが語られたのでした。
--そうそう、新組地区大黒町の『北越戊辰戦争伝承館(仮名)』の建物も大分形になってきました!


参考地図「Googleマップ/長谷川泰先生と新組地区」
米百俵まつり [2011年10月08日(Sat)]

<以下、長岡市公式サイトより>
 長岡が誇る「米百俵の精神」をテーマに、秋の収穫祭と併せて誕生したお祭りです。
 今からおよそ140年前の北越戊辰戦争で、旧幕府軍側の最前線で勇猛果敢に戦い抜いた長岡藩。その激戦で多くの命を奪われ、まちを焼き尽くされ、さらには「賊軍」の汚名を着せられながらも、長岡の先人たちは灰燼の中から着実な復興を成し遂げました。
 まちの再建の大きな礎となったのは「質朴剛健」の長岡人の気質であり、当時の長岡藩大参事・小林虎三郎が人材育成の重要性を説いた「米百俵の精神」です。今日まで長岡の地に深く根付くこの「精神」を、次世代を担っていく子どもたちへ、さらには日本全国、世界各国のみなさんへと伝える米百俵まつりへ、どうぞ揃ってお出かけください。


 市の案内文にある質実剛健の長岡人気質を、藩士たちや後の偉人に植え付けたのが『常在戦場』の精神です。『常在戦場』は年末公開の映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』でも根幹のテーマになると思われます。
 ※当ブログ関連記事
 「長岡の精神文化」


 さて、当日の大手通を練り歩いた華やかな歴史行列の様子をお伝えします。


 先ずは中世、小国の「以仁王」の伝説から、完全無欠の英雄・長尾景虎(上杉謙信)へと、武者の行列が現れました。大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続は愛の前立も凛々しく、勇猛な与板衆を率いて出陣です。


 戦国の英雄の後に歴代長岡藩主が続き、幕末に入ると、勝海舟、坂本龍馬(写真)の姿が。
 何故?と思われることでしょうが、その後に続いたのは「白峰駿馬」。龍馬と友に勝海舟に学び、脱藩して海援隊入りした人物です。
 その義兄の鵜殿春風(団次郎)は長岡随一の秀才と呼ばれ、勝海舟と共に恭順論を説き、混乱する江戸幕府の目付役に就いたのでした。
 この辺りの人物関係で1冊の物語が描かれても十分な魅力があるでしょう。

〜合間に北越戦争の火ぶたとなった「小千谷談判」の寸劇が入り、河井継之助の無念が語られますます。


 山本帯刀、三間市之進、花輪求馬らが率いる幕末長岡の精鋭と、軍事総督河井継之助が行くと、遂に姿を現したのは、あの「錦旗」を掲げた西軍の部隊です。
 長州の白、薩摩の黒、土佐の赤の「シャグマ」が、えも言われぬ威圧感を放ちます。この感覚は長岡人としての生理的なものなのでしょうか?
 率いるは、小千谷談判の相手・岩村精一郎(土佐)、黒田了介(薩摩)、そして長岡人にとって因縁深き彼の山縣狂介/有朋(写真)です。山縣は不敵にも指鉄砲で観衆を挑発!(名演技です!)ここは皆でブーイングを返すのが作法なのではないでしょうか??
 (西軍を演じたのは中越高校の先生と生徒の皆さん、大変な役所を熱演でした!)
 

 さて、前後しますが米百俵まつりにとってはお馴染みの演者さんの「河井継之助」です。
 観衆の声援にも親し気に応えられていました。馬上でにこやかに笑う継之助、現在の長岡の平和を思わずには居られません。
 役者が揃うと両軍の合戦風景が演じられました。先祖伝来の甲冑を纏い西軍に挑んだ槍の老兵「伊東道右衛門」の討死のシーンには観衆も涙。道右衛門の勇猛を讃える碑は今も福島江のほとりにあります。
 そして、終戦。行列は小林虎三郎の米百俵の寸劇を以て幕となりました。


 最後に紹介するのは、「米百俵の精神が生んだ、郷土の先人の紹介」の中から「山本五十六」。
 (今回16人が抜粋された偉人たちは、それぞれ地元の名士の皆さんが演じます。)
 山本五十六は、年末の映画公開を控えて最注目の長岡人です!演者さんのこの佇まい、とっても雰囲気が出ていますよねー。
 ブログ管理人としては、長岡中央綜合病院形成外科の先生演ずる「小金井良精」の完成度に驚きました。河井継之助記念館館長・稲川明雄さんは、自ら伝記を書かれ出版王「大橋佐平」役です。
 ここに、外山脩造、そして長谷川泰を並べたい!(居ないのがおかしいくらいです)今後の目標が出来ました。
 

 そのような感じで今年の米百俵まつり、実は郷土史2年生のブログ管理人は初参加でしたが、歴史好きには大興奮のイベントでした。
  会津や米沢といった長岡に縁が深い土地から参加される、飲食や物産・観光PRの出展も賑やかで、全年齢で楽しめる『米百俵まつり』毎年楽しみです。
 
八丁沖ウォーク [2011年10月04日(Tue)]

 10月2日、北越戊辰戦争における「長岡城奪還戦」で鮮やかな奇襲を成功させた八丁沖渡河作戦。
 その舞台となった地を歩くイベントが、河井継之助記念館の主催と新組地区有志の協力で開催されました。
 なんと参加者80名!河井継之助の人気と、八丁沖の歴史上の注目価値がよく分ります。
 新潟日報(4日朝刊)の記事の写真は新組地区百束町での様子です。



 新組地区の大黒古戦場パークには、平成24年春に『北越戊辰戦争伝承館(仮称)』がオープン。
 長岡郷土史の中でのみならず、幕末、明治維新、戊辰戦争の日本史の分野としても注目が集まります。

 
 長谷川泰を語る会でも、ウォーキングイベントを開催!
 10月9日(日)、長谷川泰の故郷の福井町と、幼馴染の外山脩造の史跡を繋ぎます。
 ※当ブログ関連記事
 「郷土史探訪ウォーク」
【イベント】郷土史探訪ウォーク [2011年10月03日(Mon)]


八丁沖から長谷川泰の故郷を望む


 長谷川泰のふるさと新組地区と、その幼馴染の外山脩造のふるさと栃尾小貫をつなぐ郷土史探訪ウォーク。
 「長谷川泰ものがたり」の冒頭シーンの様な、少年時代の2人が耳取の塾へ通った景色を行きます。
 史跡では郷土史研究家の深滝純一さんから解説を頂けることになりました!

 新組地区の外からの参加も歓迎です。以下のメールまでお申し込みください!
 taisensei@me.com


↑こんなのぼりを掲げて歩きます!



告知用チラシ


●日時_10月9日(日)福井町神社集合/朝9時発〜14時着予定【雨天中止】
●募集人数_30名まで
●参加費_500円/保険料込<小中学生無料、保護者同伴でお願いします>
※飲み物、昼食は持参でお願い致します。

<日程>
福井町神社集合〜徒歩〜耳取町着
<泰と脩造の師・井上五蔵石碑/深滝さん解説>
バス移動〜小貫着
<外山脩造石碑/深滝さん解説>
休憩/昼食(小貫公民館)
バス移動〜椿沢着〜徒歩出発〜八丁沖〜福井町神社着

参考地図「Googleマップ/長谷川泰先生と新組地区」
【連載】ふるさと偉人伝2 [2011年10月01日(Sat)]

 御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の作者による、エッセイ風の偉人マンガが連載中です!
 
 『ふるさと偉人伝』
 地域出身の偉人というのは、その功績にかかわらず意外にもその地域の中で語り継がれにくいものです。
 しかし、漫画という表現を通すと、たくさんの皆さんから興味を持っていただけることを知りました。
 このたびの連載では、偉人たちの功績をちょっぴりコミカルに紹介することで、郷土史の盛り上がりの一助となることを目指しました。
 同郷の偉人は、私たちのふるさと自慢です!

 媒体は『暮らしの通信』、長岡市、見附市、小千谷市などで無料配布中の情報誌です。
 「暮らしの通信」WEBサイト
 ↑PDF版のダウンロードもできます。



 10月3日号掲載の第2回目は、哲学者であり東洋大学の創設者「井上円了」です。
 初めて「妖怪」という言葉を生み出し、それを現象として定義し、明治文明開化の中で国民から迷信を取り除こうと努めました。円了は『妖怪博士』とも呼ばれましたが、「妖怪」の中にはどうやら科学では定義しきれない存在があったようなのです・・・・・・・・・。

 10月はNHKでも井上円了が放送!
 「歴史秘話ヒストリア」
 颯爽登場!明治ゴーストバスター〜“妖怪博士”井上円了の不思議な世界〜
 平成23年10月12日(水)22:00〜22:43 NHK総合
 

 さてさて、次号掲載は満を持しての「長谷川泰」です。そうぞお楽しみに!
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