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【講座】長岡の精神文化 [2011年09月30日(Fri)]

 8月に河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講座「常在戦場の精神を継承する」を受講しました。
 遅くなりましたが、その感想です。

 「常在戦場」
 藩主の牧野氏はその昔、愛知県の三河にあり「三河以来の」藩風と呼ばれるものが長岡藩にはありました。
 その軸となる精神が「常在戦場」です。この精神が長岡の歴史に根付き、河井継之助、三島億二郎、小林虎三郎の米百俵の精神にまで引き継がれて行きました。
 常在戦場とは、ひと言で表現すると「己を改革し続ける精神」「時代を生き抜く精神」であるということです。長岡藩が歴史的に教育に熱心であり、新しい価値観を取り入れる事を厭わず、幕末〜明治には敗戦の中にありながら数多くの人材の花々を咲かせたことには、 「常在戦場」の精神を元に新しい時代に備える姿勢があったからである様です。

 「常在戦場」とは決して古くなる事の無い価値観です。
 なぜならば、常に新しい時代に備える事が、その本意であるからです。
 長岡藩が300年を要して生んだと言われる「山本五十六」も、常在戦場の書を残しています。稲川先生は山本以来長岡には常在戦場を体現する人物が現れていないと話されましたが、これから先の新しい時代に人材を育てる事が、我々長岡の大人の仕事ですと結ばれましたのでした。

 講座の終りに稲川先生からサービスが。
 医者なのに医者の要らない世の中を目指した、長谷川泰などは常在戦場の体現そのものである。と、紹介して頂きました!
【入選】日本自費出版文化賞 [2011年09月29日(Thu)]

 第14回日本自費出版文化賞。
 『良い本が商業出版の中で取り上げられず、もしこの賞が無かったら大半は埋もれてしまう。』

 14年の実績の残すこの賞で、長岡市新組地区の「長谷川泰ものがたり」が入選作となりました!


 表彰式の入場券を頂きました。


 全国からの応募651咋中の62作の中に選ばれたわけですから、これは胸を張っても宜しいでしょう!
 今回の入選は、今後の活動にも大変に励みになります。これを自信に、「御当地伝記マンガ」と越後長岡の偉人「長谷川泰」を、どんどんPRして行きたいと思います。

【新組ホワイトソックス】米百俵杯 [2011年09月16日(Fri)]



 新組小学校を舞台に「米百俵杯」の予選第1試合が行なわれました。
 新組ホワイトソックスは1回戦を快勝。
 2回戦は塩沢のヤンキース、体格のいい選手が多数の見るからに強そうなチームです。
 1回表からヤンキースの強打を受け苦戦のホワイトソックスでしたが、その後は点を奪い合ういつにも増した好ゲームを展開。



 最終回裏は3点のビハインドながらも満塁のチャンスを作るホワイトソックス!そこはピッチャーの好投に合い残念ながらゲームセットとなりましたが、本当に良い試合を見せてくれました。
 ホワイトソックスは合同校の上通小学校が行事のために、主力のチームメイトを何人か欠いた中での大健闘!試合後の何人もの選手の涙がそれを表していましたし、監督、コーチも負けて納得の様子でした。

 6年生は残りの試合も僅か、全開で楽しもう!がんばろう!

長谷川泰を語る会例会 [2011年09月09日(Fri)]

 いつもは泰先生の月命日の11日に行なわれる定例会ですが、今月は都合で本日でした。新組地区では稲刈りも真っ盛りで、皆さん多忙な日々の中集まって頂きました。
 8月は長岡花火でのメッセージ花火打上げがあり、その話題で大盛り上がりでした、そして来月のウォーキング企画に向けて準備が始まります。
 長岡市のコミュニティ事業助成とは別枠で活動している、長谷川泰先生銅像建立の計画もしっかりと進めなければなりません。丁度今日、寄付への御礼状が印刷所から届いています。
【連載】ふるさと偉人伝 [2011年09月03日(Sat)]

 御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の作者による、エッセイ風の偉人マンガが連載開始です!
 
 『ふるさと偉人伝』
 地域出身の偉人というのは、その功績にかかわらず意外にもその地域の中で語り継がれにくいものです。
 しかし、漫画という表現を通すと、たくさんの皆さんから興味を持っていただけることを知りました。
 このたびの連載では、偉人たちの功績をちょっぴりコミカルに紹介することで、郷土史の盛り上がりの一助となることを目指しました。
 同郷の偉人は、私たちのふるさと自慢です!

 媒体は『暮らしの通信』、長岡市、見附市、小千谷市などで無料配布中の情報誌です。
 「暮らしの通信」WEBサイト
 ↑PDF版のダウンロードもできます。



 さて、9月3日号掲載の第1回目は、東の渋沢栄一と並び立つ明治関西経済界の重鎮「外山脩造」です。
 当ブログにお付合い頂いている皆さんにはお馴染みですが、長谷川泰と同年生まれの幼馴染です。
 読み切りで1作ずつ掲載されますので、次号もお楽しみに!
長谷川泰と小林虎三郎 [2011年09月02日(Fri)]

 明治17年10月出版「百科全書」下巻に、長谷川泰による訳文『骨相学』が掲載されています。



 長谷川泰の父・宗済は長岡随一の漢方の名医と呼ばれ、若き日の虎三郎も掛かり付けであったと言われます。
 虎三郎の甥・小金井良精は、長谷川泰の手引きにより東京の大学で医学を学ぶ機会を得ました。



 『骨相学』の文末には、校正者として『小林病翁』の名前があります。
 若い頃から病気がちであった晩年の虎三郎は、東京に居た弟の雄七郎を頼ると自ら『病翁(へいおう)』と名乗り静かに余生を過ごしていました。
 病翁とは、病に老いた者という意味でしょうが、どこか自嘲的なのは長岡人らしいような気がします。小林虎三郎の故事『米百俵』は、今や全国で知られるものですし、同郷人の人材育成の功績は顕彰され子どもたちに伝え遺されるものとなりましたが、本人にはまだまだ志半ばという悔しさもあったのではないでしょうか。

 今まで長谷川泰と小林虎三郎の直接のかかわりを示す史料を目にしたことがありませんでしたが、これで東京での交流が明らかになりました。弟・小林雄七郎と長谷川泰は帝国議会で肩を並べるなど、大変に親しかったと言われています。

 この度の史料は、日本歯科大学新潟歯学部・医の博物館の樋口輝雄先生のご紹介によるものでした。有り難うございます。
越後の済生学舎出身医 [2011年09月01日(Thu)]

 昨年の伝記漫画作りの取材中から、また今年3月の出版をきっかけに、近隣のご子孫や郷土史研究者の皆さんから済生学舎出身医師の情報が寄せられています。
 こうして情報が寄せられる事が、済生学舎が地方の医師不足を補ったことの証しとなります。

 現在資料が手に入ったのは以下の4名です。

・浅野虎三郎_安政6年(1859)生まれ
 現見附市今町(釈迦塚)生まれ。同郷の入沢達吉の医院に勤務。後に栃木医学校附属病院の内科医として招かれるが、その時校長であった長谷川順次郎(泰の弟)との縁であったと言われる。

・高橋辰五郎_文久4年〜元治1年(1864)生まれ、入学1885〜開業試験合格1886年
 現新発田市(加治村大字茗荷谷)生まれ。1895年に新潟市に高橋産婦人科医院を開業、1898に年私立新潟産婆学校を設立、1900年に創立された新潟女子工芸学校(現新潟青陵高等学校)の創立者の1人です。漫画家の高橋留美子さんは高橋辰五郎の曾孫にあたります。

・織田冬一_明治7年(1874)生まれ
 北越戦争に軍医として参加した織田斎の息子。今の下々条に開業。名物医者として住民から親しまれた。医院跡には「牧野國助」という人物作の長谷川泰石膏像と遺影、泰からの書簡(挨拶状)が遺されていた。

・成見久米_明治8年(1875)生まれ、開業試験合格1898年
 長岡坂之上に開業。済生学舎の卒業証書、医術開業試験の合格証書等多数の一次史料が現存。石黒忠悳の書が遺り、親交の跡がある。




 日本歯科大学新潟歯学部・医の博物館の樋口輝雄先生から頂いた資料「明治期発行の医師録に掲載された新潟県内の医師・歯科医師人名」には、上記の医師を始め長谷川泰周辺の医師の名前が多数確認できました。
 取材の助けとなる大変に貴重な資料です。樋口先生、ご協力を頂きまして有り難うございました。

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