弥彦山を背景にした生家跡にある顕彰碑
長岡市中之島町の杉之森公会堂2階には、幕末〜明治越後の要人「高橋竹之介」の史料が展示されています。高橋竹之介は外山脩造や長谷川泰と同じ天保13年(1842)生まれ、そして長善館では鈴木文臺の同門ということで、初めて見学に訪れました。
展示室自体は平成22年10月開館ということでまだ新しく、長岡市コミュニティ事業助成では長谷川泰の顕彰事業と同期というご縁もあります。
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天保13年(1842)高橋竹之介は杉之森の庄屋の次男として生まれました。
20歳の年に長善館に入門していますから、14〜16歳ころに在籍した長谷川泰とは時期がずれるようです。長善館には僅か1年程度の在籍で西国遊学に旅立ちますが、後に勤王の志士を輩出する2代目館長鈴木タ軒(てきけん)と交わり、既に世直しを志していたのかもしれません。
そう、高橋竹之介は越後の勤王組織「方義隊(後の居之隊)」の創設メンバーなのです。長谷川泰は河井継之助の抜擢で長岡藩軍医になりましたが、幕末の越後の人々は立場を二つに対立していたのでした。
北越戊辰戦争における高橋竹之介の戦功は目覚ましく、越後を自ら転戦し、地理に疎い西軍諸藩を先導しました。京都での会議では、大久保利通、大村益次郎らに北越での戦略を説くとそれが採用されています。その海路からの増援作戦が長岡城を陥落せしめたともいえるでしょう。
竹之介が戊辰戦争で携帯した越後の地図を拡大展示(写真奥)
戦後、明治新政府の東京遷都に強硬に反対した高橋竹之介は、不遇にも収監されてしまいます。
越後の勤王党は帝による治世の再現に向けて、真心をもって活動を行ないましたが、それは新政府の方針とは相容れぬものであったようです。
出獄後に高橋竹之介が行なったことは教育でした。長岡に開いた「誠意塾」では大竹貫一(国会議員)、武石貞松(漢学者)、堀口九萬一(外交官)ら、600名を超える師弟を教育しました。
戦争を経て焦土から復興した長岡で、竹之介が何を教育したのかには、大変に関心があるところです。
明治29年(1896)
「横田切れ」の大洪水で越後平野は大打撃を受けます。
中世、大津波で大半が水没していた越後平野の歴史は治水の歴史でもありました。江戸時代末期に良寛が子を売る農民の苦しみを詠い、さらに時は流れ、明治の文明開化が叫ばれる世の中にあっても、依然として人々は水害に苦しんでいたのでした。
その横田切れ翌年、高橋竹之介は立ち上がります。自ら考案した「北越治水策」を、時の権力者山縣有朋へ向かって建白したのです。帝国議会では教え子の大竹貫一が越後の治水を必死に説いていましたが、竹之介のこの尽力があってこそ、あの東洋に類を見なかった歴史的な大工事
『大河津分水』の建設が成されたのでした。
かつては北越戦争を先頭で指揮した山縣有朋です。そこで高橋竹之介の活躍を知り、大きく信頼を置いていたのでは無いでしょうか。
竹之介による大河津分水の構想図
越後を二つに裂いた戊辰戦争を、現在の私たちが知ることは苦さを伴うものです。しかし、高橋竹之介のように新政府への人脈を持つ人物が、自ら教育した越後の後輩を活躍の場へ送る要となっていたことは忘れられません。
同時に、敗者であった長谷川泰や外山脩造、梛野直らが(皆、天保13年生まれです)戦禍の中に立ち上がり新時代を創っていたことも知るべきなのです。
幕末越後の先人たちは強い人々でした。
この度は高橋竹之介顕彰会代表の山本さんにご案内を頂きました。ありがとうございました!
御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」では、長善館のシーンで多一の喧嘩相手に「竹之助」という少年が登場します。ストーリー上で高橋竹之介その人を指すものでは無いのですが、門人リストから同い年の人物を探して似たような名前をお借りしたという経緯があります。
実在の二人の関わりについては、今後の調査でまたご報告したいと思います。ブログ管理人は、必ず交わりがあったと考えております。