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新組地区の花火師たち [2011年07月31日(Sun)]

「長岡まつり公式サイト・長岡花火の歴史」
http://nagaokamatsuri.com/rekishi.html


 上記の長岡花火公式サイトの年表によると、明治12年(1879)千手町八幡の祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい350発の花火を打ち上げたのが、長岡花火の起源とされています。昭和の戦争から慰霊の意味合いが強まるまで、花火には芸者の名前が付けられるなどして、華やかな町人文化として賑わっていました。


福井町の西照寺に残る長岡煙火目録


 大正6年(1917)を見ると長岡で初めて「二尺玉」4発の打ち上げに成功した「田崎藤蔵」という花火師が記されています。この田崎は、現在の新組地区百束町の人なのです。当時、この技術は世界でも最先端にあったことでしょう。
(初の「正三尺玉」は大正15年、長岡の中川繁治によるものです。)
 百束村の田崎藤蔵は、花火師の多かった長岡北部で親分格の職人でした。
 田崎家の「煙火創業略歴」によれば、創業は古く江戸時代の嘉永4年(1851)で、先代から親子2代70年に渡って活躍しています。
 長岡や新潟だけではなく遠くは関西へも遠征し、大阪の花火大会では全国準優勝の実力者でした。(新組郷土誌より)

 長谷川泰先生の生まれた福井村にも、田崎の弟子と伝えられる小林松蔵と松五郎の親子が居り、福井町の八幡社近くに2箇所の煙火小屋がありました。
 明治中期に活躍した花火師なので、もしかすると泰先生も故郷の花火を観る機会があったのかもしれません。

 筒場(現在の新組町)の恩田與平次は東京の「鍵屋」で修行をした花火師でした。その息子の故・恩田長次さんは、長岡を代表する花火職人・嘉瀬誠次さんに三尺玉作りのアドバイスをした思い出を、長岡郷土史33号の「煙火の今昔」の中で書かれています。恩田長次の連星とそして「月」は他では真似られない名作だったそうです。

 同じく筒場の安藤寅吉もまた田崎の弟子で、昭和初期には大曲や諏訪の花火大会に出場し、1等を取るほどの腕の良い職人でした。
 安藤寅吉の子孫である安藤忠雄さんは、現在でも安藤煙火店として新組町で4代続けて営業されています。

 昭和6年の上越線開通を記念した博覧会の会期中には、長岡の町でなんと計17発もの三尺玉が打上げられました。その三尺玉を作った職人の中には新組地区から恩田與平次、安藤寅吉、隣村の下々条からは嘉瀬亀吉が、初の正三尺玉を成功させた中川繁治の2代目の名前もあります。

 このように、新組地区の花火の歴史はとても長く、昭和初期には長岡花火随一の、つまり全国有数の職人たちが集まる地域でした。大曲の競技大会の記録を見ても明らかです。
 この長岡花火を盛り立てた先人たちの存在を、ふるさとの貴重な歴史文化として伝え残していって欲しいと思います。

 安藤忠雄さんは長谷川泰を語る会のメンバーでもあり、昨年の長谷川泰翁杯親善少年野球大会ではプレイボールの花火を打ち上げていただきました。今でも見附や出雲崎の祭で花火を打上げられています。
 安藤さんは祖父(2代目寅吉)の代から職人の仕事を見て育たれていますが、長岡の花火玉には、我が子のように1つ1つ名前を付けられていたのだと話されました。




大小の玉が並ぶ安藤煙火店の工房


さて、今年も長岡に花火の季節がやってまいりました。
長岡まつりは明日開幕!水害の影響が心配される花火大会は、2日3日に開催されるでしょうか?
3日夜7時15分からの、メッセージ花火「長谷川泰ものがたり」にもご注目ください!

※当ブログ関連記事
「長谷川泰メッセージ花火」
第5回【泰先生に親しむ集い】 報告 [2011年07月31日(Sun)]

 第5回【泰先生に親しむ集い】7/24の稲川明雄さんの講義は長谷川泰についてでした。
 藩閥と対峙する中で故郷へ「絶縁状」を送った決意、泰の愛郷を知って欲しいとの内容。



 同郷人を多数含む「帝大赤門派閥」と長谷川泰との対立は、私たちにはなかなか言葉にし辛いことですが、稲川明雄さんは時代背景を含めて解釈を与えてくださいました。
 長谷川泰叩きには山縣有朋の隠然たる影響があるというのが定説です。戊辰戦争当時、奇兵隊の軍監山縣狂介は、激戦の長岡領大黒〜福井村での西軍陣営の苦戦を強烈に印象に残し、明治に入っても福井村出身でしかも「河井継之助シンパ」の長谷川泰を、長岡の象徴として敵視したのではということです。

 長谷川泰は、伝染病対策と公衆衛生の整備で病を絶やそうとした医者。順天堂の師・佐藤尚中の教えの元「医者なんぞ居なくなればいい」と考えていたと。
 故に一部既得権からこれほど叩かれた医者は居ないと、稲川明雄さんは長谷川泰研究者の唐沢信安先生からお聞きしたと話されました。郷土史的にはその思想の根幹を「良寛」の慈愛の心に求めます。

 歴史の影響か、長谷川泰は済生学舎を起源と定める日本医科大学・東京医科大学、そして順天堂大学、北里大学など私立医大では功績を重く評価されます。それと公立では、関西に帝大を置くと泰が発案したのが起源の京大医学部です。
 かつての「帝大赤門」東大医学部、そして新潟大学医学部の教授と稲川明雄さんが交流された中で、近年長谷川泰への注目は起きているとのことでした。今年春に開催された国立科学博物館企画展「歴史で見る・日本の医師のつくり方」での展示でも、長谷川泰の再顕彰は始まっているように思われました。

 さて、稲川明雄さんナビゲートで長岡ケーブルテレビNCT制作の「稲川明雄のふるさと発見」長谷川泰特集の制作裏話です。
 番組では故郷福井町の野原で異彩を放つ、セイヨウナデシコがインサートされました。ロケの中で目を惹かれたその異彩と「西洋」ナデシコであることが、明治西洋医の奇傑・長谷川泰を象徴するに相応しいと感じられたそうです。(奇しくも、放送の翌日に「なでしこジャパン」の優勝に日本が湧きました。)
 奇傑ぶりは「蝶飛」と号したことにも表れ、その雅号は三国志の張飛に由来するわけですが、関羽でも、まして劉備でもなく、荒くれた武将の張飛であることがいかにも長谷川泰である。ロケでは福井町で一緒懸命に蝶々を探したが、いっこうに見つからなかったと苦労話を披露されました。


 講義の最後で稲川明雄さんには、長谷川泰の活躍は間違い無く長岡と福井村の特色から出たものだから、そうぞ皆さんでその事績を讃えるべきですとのメッセージを送って頂きました。
 稲川明雄先生、いつもご協力を頂き有り難うございます。


 
水害の日 [2011年07月30日(Sat)]

 平成23年7月30日、新潟〜福島は大雨による土砂崩れ、洪水の被害を受けています。
 上流、長野県の千曲川から越後平野〜日本海まで流れ込む信濃川は、今では堅牢な堤防で固められている様に見えましたが、この度の被害で完全な対策など有り得ないということが明らかに・・・大河津分水の遥か以前から繰り返される、越後平野の治水の歴史を思わせました。

 新組地区周辺でも、7年前の7.13水害の記憶を元に皆さんが雨量水量を警戒されていました。
 信濃川の支流が複雑に交差する私たちの地域では、決壊の危険箇所が複数に及びます。
 1箇所では地元消防団による土嚢積みが行なわれましたが、天候の回復に救われて幸い大きな決壊は起こらず、穏やかな夜を迎えることができています。



 降水量が気になったら、住民自らが警戒箇所を監視して防災に務める必要があります。
 写真の刈谷田川にも、近隣の多くの方が集まっていました。
 毎回、災害とその対応の中で命を落とす方が相次ぎます。大切な生命を守るために、それ以前の「防災」に私たちは励むべきです。


 7月30日。長谷川泰の生きた時代、新組地区は洪水と「腐り水」に悩まされた地域であったことを、改めて思い起こす様な一日になりました。 
長谷川泰メッセージ花火 [2011年07月28日(Thu)]

長岡花火大会で長谷川泰メッセージ花火を打上げます!
8月3日の冒頭、夜7時15分頃から、打上げ前の会場アナウンスにもご注目ください。



今回の花火のPRのために、長谷川泰の功績を簡単に説明したパンフレットを手作りしました。
(1冊1冊手折りしてホチキス留めしました。)
当日までにご近所と関係者に配布いたします。
新組地区には、かつて4人の腕利きの花火師が居たことを当ブログでも何度か書きましたが、その紹介もしています。

このメッセージ花火の打上げには、新組地区の企業親交会と住民の皆様、そして地域の外からもたくさんのご寄付を頂きました。
皆様のお名前はパンフレットに記載させて頂いております。関係者一同から、厚く御礼申し上げます。

では、8月3日、夜7時15分
新組地区と協賛者の皆様で贈る「長谷川泰ものがたり」
10号10発、打上げ開始でございます!
第5回【泰先生に親しむ集い】 [2011年07月23日(Sat)]

 第5回「泰先生に親しむ集い」
 河井継之助記念館館長の稲川明雄さんを新組地区にお招きししてお話を頂きます。
 急遽決まったイベントで小さな講義になりますが、河井継之助と長岡の歴史に絡めた面白い考察を頂戴できるのではないでしょうか。



・日時/平成23年7月24日
・会場/長谷川泰を語る会事務局(新組地区、恩田方)

※会場が狭く席に限りがありますので、この度は地域の方から順に個別にお声掛けさせて頂いています。
「稲川明雄のふるさと発見」 [2011年07月23日(Sat)]



 河井継之助記念館の稲川明雄館長が、長岡と三条地域の歴史や寺院、人物史などをお伝えする「稲川明雄のふるさと発見」長岡ケーブルテレビNCTで放送中です。
 この番組でなんと、「長谷川泰」を題材に作っていただきました!
 7/23(土)24(日)は、16時から放送です。



 長谷川泰ゆかりの地を巡る30分。
 史跡や史料と共に、御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の場面も紹介していただいています。
 先日購入した古書「柳塘遺影」「長谷川泰先生全集」もフルに活用いただき、稲川明雄さんのナレーションが相まって大変に重厚な番組になっています。
 伝記漫画では語られなかった、同郷の後輩との不本意な対立を巡る長谷川泰の悲哀にも注目です。
 詳しくは、是非本編をご覧ください!7月中は繰り返し再放送がされています。



NCT(長岡ケーブルテレビ)
http://www.nct9.co.jp/




 今月は「マイ・スキップ」「としょかんくん」「NCT」「新潟日報」と、たくさんの地元媒体で長谷川泰先生をご紹介いただいています。感謝!
柳塘遺影 [2011年07月20日(Wed)]

 長谷川泰先生の事績を記す史料として、新たに3冊の古書を入手しました。
 以前も当ブログで紹介した「長谷川泰先生全集」「長谷川泰先生小伝」と、遺影写真集の「柳塘遺影」です。



※当ブログ関連記事
「長谷川泰先生全集/小伝」

 「柳塘遺影」は近隣の図書館などにも置かれていない貴重な史料です。
 このたび長岡市のケーブルテレビ局NCTと、郷土史研究家の稲川明雄先生によって制作された「ふるさと探訪」の長谷川泰編では、この柳塘遺影の写真が活かされています。
 この1冊は、昭和9年長谷川泰の長男である保定氏によって編纂されました。長谷川保定氏は当時の先端技術を持った写真家であり、私たちが最も目にする泰先生の晩年の写真を撮影しています。





 下の写真は柳塘遺影の中にある1枚で、大正5年湯島天神での長谷川泰翁像除幕式の光景です。
 面影を偲ぶべく、大勢の方が境内に集まっています。泰先生の偉業を感じることが出来る1枚ですね。



 後付けにある印刷所が「山縣」姓なのには、何か因縁を感じないでもありません。



 これらの古書を購入したのは東京都武蔵野の泰成堂書店さんです。医学史の史料を専門に扱われています。
新潟日報夕刊に掲載 [2011年07月19日(Tue)]

 長谷川泰を語る会に暖かくご注目いただいている新潟日報さんから、再び記事を書いて頂きました。本日7月19日の夕刊に掲載です。
 「漫画と郷土史の融合 期待」



 新潟県を代表する文化である「漫画」の力を用いて、子どもたちへ郷土の歴史の楽しさを伝えるという「御当地伝記マンガ」の趣意を的確に捉えて頂きました。いつも長話に付き合ってくださる長岡支社の大西さんに感謝!
 偉人ゆかりの地の住人が自身の取材と絵で作品を創ることには、大変な学びがあると私たちは実感しています。そして、マンガは子どもたちからお年寄りまで世代を越えた交流を生み出します。
 皆さんの町でも是非、御当地伝記マンガを!
 
【注目】長岡花火で長谷川泰 [2011年07月18日(Mon)]

 長岡花火の目録が配布されました!
 今年もいよいよ長岡の祭が始まりますね。
 長岡花火は戦後本来の主旨である空襲慰霊と共に、中越地震以降は災害復興の願いも込められるようになりました。
 それを象徴するフェニックスは、平原綾香さんの名曲「ジュピター」と共に、全国の被災地で打上げられて来ました。本年は特に東日本大震災への復興祈願の意味が込められます、8月2日のフェニックスは花火大会冒頭の黙祷に引き続き7時半の打上げです。ご注目ください。(3日は例年通りのトリを飾ります。)



 さて、目録14ページの単発花火の欄をご覧ください。
 10号10発「長谷川泰ものがたり」と掲載されていますね。
 8月3日の7時15分頃から始まるメッセージ花火の枠で、長谷川泰花火協賛者の皆さんの暖かいご理解と長谷川泰を語る会による花火が打ち上がります!心を込めた10号10発、どうぞお楽しみに。




越後長岡「神田囃子」 [2011年07月17日(Sun)]

 神田の町を伝統の「舟形屋台」が流れて行きました。
 2階建ての屋台では賑やかな祭囃子が奏でられます。

 「神田囃子」は、三河から移った牧野家が開府した元和4年(1618)当時が起源であり、長岡の長い歴史と共にあると言えます。
 昭和の初期頃まで継承されていたものが、その後衰退。しかし町内の青年たちの手により昭和53年頃から復活、現在は神田1丁目の少彦名神社の祭礼に奉納され、毎年7月の第2土曜日曜に執り行われています。



 神田の町では、引き続きこの伝統の継承者を募集中です。
 新組地区からも楽器に覚えのある方が、毎年神田囃子の「シャギリ」に参加されています。

「越後長岡 神田囃子」
http://www.soiga.com/kandabayashi/index.html
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