山縣有朋を、帝国議会で「薩長閥の闇将軍!」と野次ったのは長谷川泰でした。
彼が奇兵隊の隊長・山縣狂介であり、長岡を攻めた北越戦争から続く因縁。
朝日山の戦闘において、立見鑑三郎率いる桑名の雷神隊の猛攻により、親友時山直八を失ったことは山縣の心を痛めて続けていたでしょうか。
それとも、戦端が開かれる前に、自らが慈眼寺で河井継之助と相対すべきであったと悔いていたでしょうか。
明治政府内で力を振るった薩長閥にとって、長谷川泰は難敵でした。
板垣退助の自由民権運動に賛同した長谷川泰は、自らが衆議院議員となると、官尊民卑の政府方針に異を唱え続けています。
そして反撃が起こります。明治23年(1890)医学誌上で森鴎外がその文才を駆使して行なった、辛辣な済生学舎批判。それに端を発して、長谷川泰は組織的な攻撃に晒され続けています。
中でも長谷川泰が心を痛めたのは、同郷の後輩たちとの対立であったでしょう。
泰の書生であった川上元治郎、泰に進路を頼った小金井良精。そして特に、済生学舎の講師であった入沢達吉からの批判は痛烈でした。
長谷川泰の伝記を追って行くと、親密であったはずの同郷の後輩たちとの対立には違和感を覚えずにはいられません。医事行政を巡り専門家同士互いに譲れない立場があったとしても、釈然としないものがありました。
(泰の死のわずか5日後の葬儀も終わらぬうちに、入沢達吉は「長谷川泰論」なる批判文を公表しましたが、賢人である入沢の行為であるとは信じられないようです。)
ここに山縣有朋の隠然たる影響力があったとするのは、それほど空想的でもないようです。
歴史に名を残す人物たちには、それぞれ強い信念と立場があり、どちらを一概に悪いとするものではありませんが、長谷川泰の今後の研究対象として大変に関心があるのが山縣有朋です。
同時に、泰の親友にして山縣の盟友であった「石黒忠悳」もキーパーソンだと思っています。