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締め切り迫る [2011年02月28日(Mon)]

さて、漫画の締め切りが近づいてまいりました。
出版前のPRのために、2月は毎日の更新をしてきたこのブログですが、制作を優先して1週間ばかり更新をお休みいたします。



それでは皆様、引き続きの応援を宜しくお願いいたします!
古文書を読む [2011年02月27日(Sun)]

江戸時代の終りから、明治時代を生きた長谷川泰。
昭和の初期から今まで、何冊かの伝記や研究書が書かれてきましたが、埋もれている史料はまだまだあるはずなのです。
しかし、江戸時代の古文書は漢文で書かれていることが多く、明治に入って仮名が用いられるようになっても、筆の行書で書かれた文字は、素人には読解が困難です。

長谷川泰については、私信などは特にたいへん個性的な文字を書かれる方なので、読むにはますます訓練が必要です。



今日も耳取村の青鬣館について、古文書を閲覧させていただいたのですが・・・・・ブログ管理人ではお手上げでした。
これはもう、専門家に動いて頂かなければなりません。
今後も粘り強く活動して、情報を集めて行きたいと思います。

また、皆さんの周りでも、長谷川泰の古い史料についてお気づきのことがありましたら、情報をお持ちしております。

「長谷川泰を語る会」代表メールアドレス
taisennsei@me.com
伝記マンガの資料編2 [2011年02月26日(Sat)]

締め切りまであとわずか、漫画本編も佳境ですが、巻末の資料編の制作も進められております。
長谷川泰先生の学歴や功績、関係者の紹介を分かり易く記載します。



今回は、漫画のセリフも含めて、児童向けに全ての文章に読みがなを振る、「総ルビ」の仕様となっていますが・・・・・これが非常に手間のかかる作業なのです!
長谷川泰を語る会漫画班、土日も休まず稼働中。
新潟国際アニメ・マンガフェスティバル [2011年02月25日(Fri)]

「新潟国際アニメ・マンガフェスティバル」
明日から開催です。
<期間>2011年2月26日(土曜日)〜2011年2月27日(日曜日)

(県の公式観光サイトより)
数々の人気マンガ家を輩出している新潟市で開催されるアニメ・マンガの祭典。今まで別々に開催されていた「にいがたマンガ大賞」「新潟国際アニメ・マンガフェスティバル」「コスプレガタケット」。それぞれのイベントがパワーアップして同時に開催。新潟市の中心部、白山地区一体と古町商店街がアニメ・マンガ一色に染まる2日間です。

このように新潟市では、県の文化財産のアニメ・マンガを積極発信しています。

新潟県公式観光情報「にいがた観光ナビ」
http://www.niigata-kankou.or.jp/niigata-city/convention/event/IJ0089.html

県が力を注ぐイベントです!



新潟のJAM日本アニメ・マンガ専門学校卒業で、県内で執筆をされているカトウコトノさんのトークイベントも併せて開催されるのですが、とても興味深い!・・・・・・しかし、こちらの長谷川泰ものがたりの製作が佳境ですので、今回は残念ながら我慢です。
カトウコトノさんの『将国のアルタイル』はデビュー作ですが、重厚なストーリーと華麗な作画が人気を呼び大ヒット。ただいま8巻まで刊行中です。
(ブログ管理人は、商人の娘ニキがお気に入り。)
みなさん、御当地の人気作家を応援しましょう!

月刊少年シリウス(講談社)で連載中。
http://kc.kodansha.co.jp/magazine/index.php/14709

3月号は将国のアルタイルの美麗なイラストが表紙です。


女医吉岡弥生の手紙 [2011年02月24日(Thu)]

東京女子医科大学の祖、吉岡彌生。

遠江の土方村(現静岡県掛川市)に、漢方医の鷲山養斎の娘として生まれた吉岡彌生は、少女の頃から政治に関心を示すような自立心の強い娘で、封建的な男社会の中で医業での立身を志した女性でした。
先に済生学舎で学ぶ兄を頼って、明治22年4月に彌生がその門を叩いたのは、18歳の時です。
明治当時のバンカラの風潮の色濃い済生学舎では、粗暴な男どもに手を焼く彌生でしたが、「女医学生懇談会」という組合を立ち上げてそれに立ち向かうのでした。
明治25年(1892)彌生は日本で27人目の女医となり、その後は自らが多くの女医を育てる教育者となったのでした。



済生学舎が女子の受入れを止める直前に、長谷川泰校長はふらりと吉岡彌生を訪ねたと書かれています。
その時泰からはハッキリとした言葉は無かったようですが、後に彌生はその時の訪問の意図を察しました。
そうして明治33年(1900)、投げ出された女学生のために、日本で初めて女子医学校を開いたのでした。

明治4年に生まれ、昭和34年までの長寿を生きた吉岡彌生。
近年に近づくほど写真が多く残されていますし、また、その生涯の中で残された手紙の数々を読むと、自然と人物像が立ち上がってくるようです。
そうやって、丁寧に残された故人の記録を見ると、教え子の皆さんのたくさんの愛情を感じます。

東京女子医科大学の歴史。
封建社会の中で生きた女性の歴史。
くり返された戦争と、社会の変転の歴史。

社会の真ん中で生きた、女医吉岡彌生の手紙からは、近代日本の歴史も浮かび上がって来ます。
米百俵〜小林虎三郎物語〜 [2011年02月23日(Wed)]

米百俵〜小林虎三郎物語〜(長岡市米百俵財団発行)

明治初頭の長岡藩大参事・小林虎三郎の故事「米百俵」は、当時の小泉純一郎首相の発言から全国的に知られるようになりました。
そもそも、小林虎三郎とはどのような人物だったのか?知らない方も多いと思います。
この冊子は、児童向けの物語として、分かり易く小林虎三郎の生涯が書かれています。



幼い虎三郎は天然痘で左目を失明しますが、江戸で佐久間象山に学び、国士としての頭角を現しました。
しかし、ペリー艦隊の来航による開港場所を幕府の思惑と異なる神奈川にすべきと進言したために、長岡で蟄居することを命じられてしまいます。
(この時点で既に、小林虎三郎の政治感覚は藩を越え国政にあり、その国際感覚は友人の河井継之助を越えていたとも言われます。)
病弱の虎三郎は雌伏の中で病を患いますが、しかし外国の言いなりになろうとする幕府の様相を知る中で、為政者に教育が足りない、人材育成が必要だとの考えを深めて行きました。

まもなく明治維新の時代に入ると、長岡は北越戊辰戦争で焼かれてしまいます。
ようやく小林虎三郎が政治を任せられたのは、焦土と化した長岡の復興の時だったのです。
この時に病をおして取り組んだ人材教育の象徴が、あの「米百俵」ですが、その米を資金に作られた「国漢学校」の方針は、身分に関係無く才能のある者に教育を受けさせ、人材を育成するという進んだものでした。(藩校には武士の子しか通えなかったのです。)

国漢学校開校の翌年、病のために引退した小林虎三郎は、「病翁(へいおう)」と名乗り、東京で国の財務に関わっていた弟・雄七郎の元で療養生活を送りました。
その闘病の中で書かれたのが「小学国史」です。
これは、“初めて日本語で書かれた”日本史の教科書でした。(水戸光圀の大日本史は漢文)

「自らの祖先の歴史を学ぶことが、愛郷につながり、平和を考える人間に育つ」
小林虎三郎の日本を想う心は、果てしのないものだったのだと思います。
石黒忠悳という人 [2011年02月22日(Tue)]



石黒忠悳という人は、関連する書籍を探しても、自伝「懐旧九十年」くらいしか出て来ない。
石黒忠悳という人には、記念館も銅像も無い。
ですが、石黒忠悳という人ほど、明治時代の人物の間で顔が広い人も居ないようです。
特に衛生・医療周辺の偉人の傍らには、必ずと言っていいほど「石黒忠悳(いしぐろただのり)」が登場するのです。
石黒忠悳という人は、色んな人の葬儀で挨拶をし、色んな人の顕彰碑に揮毫を残します。

石黒忠悳は社交に長け、派閥の間を折衝して廻っていたようにも見えます。
その器用さに助けられたのが、直情で不器用な長谷川泰なのかもしれません。
越後に住む頃から家族同士の交流があり、十代から見知った親友・長谷川泰の性格を、よーく理解していたのでしょう。

※当ブログ関連記事
「キャラクター案/石黒忠悳」
「西洋医学所での青春」
「押切開駅の碑」

長岡藩時代の石黒忠悳は、妖怪博士と呼ばれた井上円了の漢学の師でもあります。
ちなみに石黒忠悳、その時わずか13歳!
愛媛偉人まんが伝 [2011年02月21日(Mon)]

愛媛県松山市、河原デザイン・アート専門学校/漫画クリエーター科の学生で作っている漫画雑誌「LINK」
〜愛媛偉人まんが伝〜と題して、ご当地出身の歴史上の人物・偉人・著名人、7名の伝記漫画が収録されています。
読売新聞の記事からこの活動を知り、さっそく取り寄せして読ませていただきました。



では、内容をちょっぴり紹介。

・正岡子規
俳人・正岡子規の若き日の姿が、「ベースボール」を通して描かれています。
今も用いられる野球用語には、子規の和訳によるものが多数ありますが、自身が選手になるほど夢中だったとは驚きでした。
俳人と野球人とのギャップが素敵なノボさんですが、生きさせてあげたかったですね・・・。
(新潟出身の歌人・会津八一は子規に良寛の句を伝えました。)

・二宮忠八
日本の飛行技術は、ライト兄弟に先んじていたかもしれない?!
「飛行器」に懸けた夢とその挫折の儚さが描かれます。
挫折の物語ですが、読後感には清らかなものがありました。
若き先駆者たちの夢を、大人たちが支援することが大事だと教えられます。

・義農作兵衛
飢饉の際にも種麦を食べず、わずかなその種が大きく実る事を祈りながら亡くなって行った農夫の物語。
こういった、その土地ならではの偉人を伝え残すことこそ、御当地の伝記漫画の素晴らしさだと思います。
“(作兵衛の)娘目線で描くことによって、より強く子を思う親の暖かさや優しさが伝わってほしい”という作者の演出も素晴らしいです。

・鶴姫
ジャンヌダルクのごとき、戦国時代の戦姫。
鶴姫の大祝氏は、代々大山祇神社の神職ですが、領内に戦が迫るとそれに出向いたという神秘的な一族です。
軍を指揮して闘った女性(わずか18歳)の存在にも驚き、また健気ですが、それが悲恋につながる切なさにまたウルウルと・・・。

・種田山頭火
読みながら、良寛とそして木喰を思い出していました。
生きる苦しみに耐えかねて、世を捨て、しかし深い苦しみを知るが故に、人を癒す作品を作ることができる。
悲しみを愛嬌に昇華したストーリーは爽やかで、タッチも個性的で素敵でした。

・千葉茂
野球ファンにとって、背番号の継承というのは熱い話題ですよね。
千葉茂から長嶋茂雄へのドラマチックな「3番」継承ストーリーが描かれています。
最後の“送りバント”川上哲治との友情も熱い。
ジャイアンツファンのブログ管理人も、銀座「グリルスイス」の元祖カツカレーをいただいたことがあります。

・秋山兄弟
「坂の上の雲」の秋山兄弟ですね!
学士を目指していた真之が、海軍へと志を移す過程を描いた青春物語です。
若者が、自由にパワフルに生きていた時代が生き生きと表現されていました。
明治時代の国民病「脚気」は死に至る病だったんですよねぇ。


「LINK」とは、偉人と読者との繋がり、世代の繋がり、先輩後輩、読者と作家、色々な繋がりを意味して名付けられたそうです。
長谷川泰を語る会で取材を進める中でも、郷土史の延長上に自分が生きている事を実感しました。
また、取材で出会う先輩方との世代を越えた交流を生み出す、郷土史という題材の力にも感動しました。
愛媛の人たちに地元愛を伝えるこの活動に、大変共感しています!

今年の9月には、第2弾が刊行される予定です。
期待されますね!

「ひめコミ」WEBサイト
http://himekomi.web.fc2.com/


ところで。
愛媛県、伊予松山藩といえば、長谷川泰関係で思い出すのは「柳子婦人」です。
柳子さんは、松山藩の砲術師範・小林小四郎(儀行)の娘です。
兄の小太郎(儀秀)は、福沢諭吉の慶応義塾を経て、文部官僚になった人。
今まで松山藩士の娘と長谷川泰との間に、どのような繋がりがあったのか分かりませんでしたが、慶応義塾の同門として、小林小太郎が泰と柳子さんをつないだのではないか?なんて想像しています。

明治政府、特に文部省とは散々やりあった長谷川泰ですが、晩年まで微妙なバランスを保ったのには、陸軍軍医・石黒忠悳らと同様に、義兄・小林小太郎が仲介となったのではないでしょうか。

済生学舎とエンジン01 [2011年02月20日(Sun)]

2月19日、エンジン01/文化戦略会議の会場、長岡造形大学は老若男女の人ごみ。
入楽(学)料は、1クラスわずか500円。
多彩な講師陣から、授業を自由に選択できます。
県外からもたくさんの方が参加され、活気に溢れていました。

う〜ん。
なんだか、長谷川泰校長の済生学舎を思い出しますねー。

※当ブログ関連記事
「済生学舎」
エンジン01/造形大学での授業 [2011年02月19日(Sat)]

「エンジン01/文化戦略会議」
開催2日目です。長岡造形大学を会場に有名人講師による授業が行われました。

長谷川泰を語る会・漫画班は、原稿製作の時間をなんとか調整して、2つのコマに参加。
漫画家・わたせせいぞうさんがリードする「もしも漫画が描けたなら」
作家・井沢元彦さんがリードする「ラストサムライ〜河井継之助論」
いずれも、御当地伝記マンガに関する授業を選びました。



「もしも漫画が描けたなら」
わたせせいぞうさんは、音楽を聴きながら瞑想のようにイメージを広げる方法。
そして、参加者から選ばれたモデルから、特徴を拾い出してキャラクターを作る実技の授業でした。
選ばれた男性から、皆さん人柄や職業を想像して思い思いのキャラクターを作り出して行きます。
ブログ管理人も好き勝手に描かせていただいたのですが・・・、後で商工会議所の前会頭と分かり、大変に恐縮してしまいました。

わたせせいぞうさんの漫画創りの重要事項は、
1番にアイデア、2番にストーリー、3番にキャラクター、4番に、キャラを描くに適切な画力、とのお話しでした。


「ラストサムライ〜河井継之助論」
井沢元彦さんの授業には、長岡市長と会津若松市長も参加。
友藩の首長が並んで、幕末と河井継之助を語るという、大変に熱い展開です。
会津市長の郷土愛の熱さは大変なものと感じました。会津若松市は「サムライシティ」という名称を商標登録し、世界に観光をPRするという力の入れようです。

「会津若松市・菅家市長のブログ」
http://local.election.ne.jp/kanke/11338.html


講師の皆さんが共通して頷いておられたのは、河井継之助と坂本龍馬は似ているということ。
2人は士分の身で、幕末にデモクラシーを視野に入れていたのが凄いそうです。
講師の白川文造さんのお話しでは、2人の違いは継之助がヨーロッパ流(フランス)の近代思想、龍馬はアメリカ流であったという印象とのこと。優れた国際感覚を有しながら、志半ばに後の世を見ず倒れたことも共通点だともされました。また、2人が東西に分かれて存在していた事が残念だそうです。

授業の結論『誰がラストサムライなのか?』
井沢元彦さん「西南戦争の薩摩武士」特権階級の責任を自覚した、古くからの侍はここで滅んだ。
片山杜秀さん「西南戦争の薩摩武士」今でもサムライ的な覚悟を持つ人は居る。
白川文造さん「河井継之助、西郷隆盛ら」大義の為に命を惜しまない覚悟の人たち。
菅家会津市長「松平容保」会津藩主として、本当の勤王の忠義。
森長岡市長「山本五十六」長岡一の勇士・山本帯刀の家を継いだ自覚。長岡藩風の継承者。
それぞれの歴史観と立場からの意見が、大変に興味深いですね。

忘れてはならないのが、今回も共有されたのが、官軍・賊軍という呼称は止めにしましょうということ。
どちらが悪いとは決められない、よって、歴史研究でも西軍・東軍と呼ぶのが妥当だということです。


以上、長谷川泰を語る会的に偏ったエンジン01の報告でした。
茂木健一郎さんや、布袋寅泰さんの話題がなくて申し訳ありません。
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