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よいお年を! [2010年12月31日(Fri)]

さてさて、2010年も最後になりました。



今年の3月に「郷土の偉人 長谷川泰を語る会」が発足。
町内だけではなく、県の内外から沢山の好意的なご協力を得て、語る会は活動してまいりました。
長谷川泰先生を知る人、新たに関心を持っていただけた人、大勢の方々にお会いすることができた事に、会員一同とてもとても感激しております。

2010年は、新組地区の長谷川泰ゼロ年。
来年を長谷川泰元年として、同郷の偉人を通してふるさとへの愛着を育てるために、頑張って顕彰活動を続けて行きます!

2011年も、一層のご注目をよろしくお願いいたします。
河井継之助のことば [2010年12月30日(Thu)]

長岡の河井継之助記念館館長・稲川明雄先生の新刊「河井継之助のことば」(新潟日報事業社刊)が発売されています。
本の中では、吉田松陰や高杉晋作のような天才ではなく、河井継之助は努力の人であると、稲川先生は語られています。
その継之助の言葉は、戦後長岡の復興にどのような力を与えたのか?そして、現代の私たちが得るものとは?
市内書店や、スーパーマーケット等、各所で販売されていますので、是非お正月にお読みください。

ブログ管理人は、河井継之助に直接の影響を受けた一人である長谷川泰からの目線で読み、感じたところを意訳しながら書き出してみました。(原文の素晴らしさは、どうぞ本でお確かめを!)



一つ
常に弱い者の味方、それも無条件で助ける。強い者にはたとえ道理があっても当たっていじめる。
この性格は実に、長谷川泰と似ています。
同じページで、継之助の特技ロウソク越しの「にらめくらべ」が紹介されていましたが、長谷川泰との初顔合わせの夜にも、これで遊びながら長話を聴かせていたのではないかと想像しました。

二つ
継之助29歳、藩主の前で講釈する栄誉を断ってしまい、出世の道が閉ざされたと嘆く詩の中で、良寛禅師・上杉謙信・酒呑童子を英雄だと書いているそうです。
長谷川泰は、遺書で良寛・上杉謙信・河井継之助を尊敬すると書いています。

三つ
「民は国の本 吏は民の雇」(原文のとおり)
これは、江戸時代に民主主義を予言していたということですね。
長谷川泰は、明治の自由民権運動に参加し、帝国議会議員になると官吏を相手に大暴れをしました。

四つ
「人間はどんなに偉くとも、人情に通ぜず、血と涙が無くては駄目だ」(原文のとおり)
役人に向けて、法が人の心を忘れたものでは、民衆の心が政治から離れてしまうと語っています。
そこで、浄瑠璃本のような人情話も読めと薦めているのでした。
現在の世の中に、大変に当てはまるような気がします・・・。
長谷川泰は、高い学識を持ちながら一方で、善くも悪くも情に突っ走るような人でした。



などなど。
たいへん興味深く読ませていただきました。


稲川明雄先生の新刊は、もう一冊発売されています。
読ませていただいたら、また感想を書きます。
「風と雲の武士―河井継之助の士魂商才」(恒文社刊)
<楽天ブックス/商品ページ>


「河井継之助と国際法」 [2010年12月29日(Wed)]

安政5年(1858)12月27日、河井継之助が2度目の遊学へ旅立った日。
平成18年(2006)の同日に河井継之助記念館が、生誕の屋敷跡に開館しました。

先日、長岡グランドホテルにて、開館の4周年記念の講演会が行なわれました。
講師は松本健一さん。麗澤大学教授・評論家、そして現内閣参与を務められています。



演題は「河井継之助と国際法」

戊辰戦争に際して河井継之助が主張した一藩独立は、当時の国際法である「万国公法」に基づく正当性があったというお話です。
「万国公法」といえば、坂本龍馬が「いろは丸事件」の解決に用いたことで有名。
内乱の最中にあって、国内の法といっても混沌としていたでしょうし、そこで先を見て広く世界で共有される法に基づこうというのは、いかにも河井継之助らしい気がします。
河井継之助が万国公法を手にしたという史料は、現在見つかっていませんが、松本さんは周辺の史実から判断するに、確信があると仰っていました。

万国公法が、いち早く長岡と河井継之助に届いたとすれば、勝海舟の腹心であった長岡藩士・鵜殿団次郎を通してであろうということです。
勝海舟は国際法への理解の必要を考え、万国公法の大量増刷を行なっていました。

面白いお話しがもう一つ。
松本さんは、長州の思想は、吉田松陰をひとつの中心として結束した同心円であるとされました。
対して長岡の思想の魅力は、河井継之助と小林虎三郎という、2つの中心を持った楕円がイメージできるということ。これが幅の広さ、奥行きの深さを生み出しているというのです。
幕末の継之助と虎三郎はライバルとして対極にあるようですが、そこに恭順論者の鵜殿団次郎の存在を置くことで、長岡にあった思想を一つのまとまりとして理解できるそうです。
実際に、天才鵜殿団次郎のことを二人は大変認めていました。

河井継之助の理想は実らず、北越戦争の開戦と敗戦で、長岡は完膚なきまでの破壊を受けましたが、直後からいちはやく教育と復興に着手できました。
戦後に世相が反転しても、それに対応できる幅広い人材、小林虎三郎や三島億二郎といった仲間が居たからですね。
(二人は継之助の同世代で幼馴染でもあります。鵜殿団次郎は明治元年に若くして亡くなったことが非常に残念です。)
長岡の雪景色 [2010年12月27日(Mon)]

雪が降り続く長岡です。
この年末年始は、雪マークが目立つ予報ですね。
写真は、長岡市長町の河井継之助記念館(河井継之助の屋敷跡)の庭園の雪景色です。



司馬遼太郎の「峠」では、河井継之助が雪深い三国峠を越え、関東の青空に感嘆する場面が印象的です。
タイトルの峠とは物語終盤の「八十里越」を指すのでしょうが、越後人にとってはこの冬の三国峠越えにも大変に共感するものがあります。

今日は河井継之助が2度目の遊学で長岡を後にした日にあたります。安政6年(1859)の12月27日でした。
せっかちな彼は、藩の許可が降りると春を待たずその日に飛び出して行きました。吹雪の日だったと言われています。
明けて元日、継之助は旅路で33歳の誕生日を迎えます。たいへんな老書生ですが、藩政改革に活かそうという学問への熱意の表れですね。
その後、経世済民の実学を求め、江戸から更に備中松山の山田方谷を訪ねています。

翌年、継之助がその遊学から帰ると、外山寅太の紹介で長谷川多一と初めて顔を合わせたのでした。
そして後年、西洋医を志した多一も三国峠を越えて関東へ旅立ちました。その時はさすがに冬ではなかったでしょうけれども。
以降、越後で医者を志す若者たちは、池田謙斎・長谷川泰・石黒忠悳らの医の先輩にあやかって、皆が三国峠のルートを選んだというのは、入沢達吉の言葉です。




これは雪国の風物「雪吊り」です。
“話のタネ”05/出入禁止 [2010年12月27日(Mon)]

 長谷川泰先生が大学東校の教師時代のお話。

 美濃出身の土岐頼徳という人物がおりました。後に陸軍軍医総監になる方です。
 泰先生のひとつ歳下で、松本良順の幕府西洋医学所の同門であり、大学東校でも寄宿舎を共にしている仲間でした。
 この頃の土岐頼徳は実に酒癖が悪く、それと並び立つのが長谷川泰先生だったそうなのです。

 時に料理屋で暴れ、遂には行きつけの店を出入り禁止になってしまったのです・・・
 そこで一策を講じた悪友連。
 兼ねてから紳士的で素行が好く、裕福で評判の良い石黒忠悳を先兵としました。
 まず石黒が飲み屋の一室に上がり、その石黒に泰先生たちが面会を求めるという体をとったのでした。
 これには店主も降参したそうです。

 まだ、皆が20代半ばの頃のお話でした。
“話のタネ”04/西洋医学所での青春 [2010年12月27日(Mon)]

 長谷川泰一郎、25歳。
 佐倉順天堂でお嬢さんに失恋し、その傷心からかどうなのか江戸へ出て学んでいました。
 学び舎は、当時松本良順が所長を務める幕府西洋医学所です。
 泰一郎は、ここで石黒恒太郎(忠悳)と再会し、共に教師の助手も任せられていました。

 学生寮には東南北と3棟あり、泰一郎は北寮長。
 石黒は15歳くらいの年少の学生が入る南寮長。南寮には森林太郎(鴎外)や福原有信(資生堂創始者)が居たそうです。

 寮生は相撲を取ってみたり、芝居の真似をしてみたり、雪が積もれば雪合戦をして遊んでいました。
 寮に面した往来を女性が通ろうものなら、それをはやし立てて大変な大騒ぎだったと、医学所の先輩の池田謙斎の回顧録にも書かれています。
 寮長は遅くまで勉強をしている学生に夜食の菓子を出したそうですが、泰一郎はお金のない苦学の最中でしたから、それも大変だったでしょう。

 後に生涯の親友と認め合う石黒との交友は、この頃に深まったようです。
 泰一郎は越後の長善館で学んだ得意の漢詩を作りためていましたが、「俺の様な者が詩なぞ作れるか」と知らんふり。しかし石黒だけには良く見せていたそうです。

 ある時、寮生で辞書を盗んだ者が出ました。
 泰一郎はそれを縛り上げて放置し、反省をさせた後に、「馬鹿者!なにゆえに死ななかった!?」と怒鳴りつけました。
 そうすると石黒が、その縄を静かに解いてあげたということです。
 後年の長谷川泰と石黒忠悳の連係が、ここに見られたようなエピソードですね。

<家田三郎先生著/ドクトル・ベランメー、池田謙斎著/回顧録、等より>
ペン入れ(テスト) [2010年12月19日(Sun)]

御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」は、長谷川泰を語る会と地元郷土史協力者の皆さんからのチェックに入ります。(郷土史の専門用語など)
平行してに下書きも進めている様子を紹介しましたが、それに「ペン入れ」のテストをしたものをちょっと見せちゃいます。
絵は仮のものですが、本番様の漫画用原稿用紙でタッチの確認などをしています。



場面は、長善館で学ぶ長谷川多一です。カッコいいですね〜。
うん!だんだん漫画になってきた!
(色はブログ管理人が勝手に付けてしまいました・・・漫画本編はカラーではありません。)
キャラクター案「長谷川柳子」 [2010年12月18日(Sat)]

長谷川泰校長の済生学舎を経営面から支えた柳子婦人。
行動が大胆で直情的な泰先生に成り代わり、シビアな台所事情を裏方として管理していました。
実質的には柳子婦人が経営者ではなかったかとも言われています。



済生学舎が解散し、夫に先立たれた後も、母と慕った卒業生たちが婦人のもとを訪ねていたそうです。
済生学舎の在りし日には、自宅にご飯を無心に来る学生が居たり、行灯を点し学舎を夜中に一人で見回る婦人の姿が見られました。
そんなエピソードは、医学校というよりも相撲部屋の女将さんのような姿も想像させます。

※当ブログ関連記事
「柳子婦人」
キャラクター案「鵜殿団次郎」 [2010年12月17日(Fri)]

鵜殿団次郎(号を春風)。
長岡藩士、慶応3年(1867)には、江戸幕府目付役まで登り詰めた俊英。
瞳の中にもうひとつの瞳を持つ、「重瞳」であったと伝わります。

鵜殿団次郎は西郷隆盛との親交があり、新政府に対しては勝海舟と共に恭順論を唱えていました。
江戸城の無血開城の際には、勝海舟の副使として交渉に当たっています。
今泉鐸次郎著「鵜殿春風」によれば、勤王の思想を持っていたそうです。
友人である河井継之助と同じく長岡藩を導くべき人物でしたが、しかし明治を迎えるとすぐに病死しています。
わずか37歳、戦後の復興へ鵜殿の才能が貢献しただろうと想うと、大変に惜しまれます。

鵜殿団次郎の義弟・白峰駿馬は脱藩し、坂本龍馬のもと海援隊に属しているのも興味深いところです。



江戸などに遊学し、蘭学・英学・数学・天文学・航海学・測量と、様々な学問を修め帰藩した際には、長谷川多一に語学を指導しています。
マンガの作中では、多一を佐倉順天堂へ推薦する役所です。

たいへん史料の少ない人物ですが、当ブログ管理人は今後の郷土史研究を期待しています。
今は悠久山公園のひっそりとした遊歩道の脇に、顕彰碑が建てられていました。
その碑は、白峰駿馬の依頼で石黒忠悳が取りまとめを行ない建造されました。東京築地での発起集会に、駿馬は団次郎ゆかりの人物十数名を集めましたが、その中に長谷川泰の姿もあります。(新潟日報連載「駿馬伝」より)


※当ブログ関連記事
「継之助との出会い」
「龍馬と生きた長岡藩士」
初雪 [2010年12月16日(Thu)]

昨日からの雪が平野部にも積もりました。
新組地区の初雪です。
ここは四ツ屋町のはずれ。
田畑と町がひとたび雪に覆われると、昔も今も同じ光景なのかもしれません。



手前に横たわるの山影は耳取山。穏やかな里山です。
多一がその麓の青鬣館(せいりょうかん)までは、四ツ屋から八丁沖を迂回して通ったと思われます。
右手奥の、高く白い山は守門岳です。春には大雪庇が登山者を楽しませます。
寅太はその手前にある栃尾から、幾つかの山を越えて通いました。
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