安政5年(1858)12月27日、河井継之助が2度目の遊学へ旅立った日。
平成18年(2006)の同日に河井継之助記念館が、生誕の屋敷跡に開館しました。
先日、長岡グランドホテルにて、開館の4周年記念の講演会が行なわれました。
講師は松本健一さん。麗澤大学教授・評論家、そして現内閣参与を務められています。
演題は「河井継之助と国際法」
戊辰戦争に際して河井継之助が主張した一藩独立は、当時の国際法である「万国公法」に基づく正当性があったというお話です。
「万国公法」といえば、坂本龍馬が「いろは丸事件」の解決に用いたことで有名。
内乱の最中にあって、国内の法といっても混沌としていたでしょうし、そこで先を見て広く世界で共有される法に基づこうというのは、いかにも河井継之助らしい気がします。
河井継之助が万国公法を手にしたという史料は、現在見つかっていませんが、松本さんは周辺の史実から判断するに、確信があると仰っていました。
万国公法が、いち早く長岡と河井継之助に届いたとすれば、勝海舟の腹心であった長岡藩士・鵜殿団次郎を通してであろうということです。
勝海舟は国際法への理解の必要を考え、万国公法の大量増刷を行なっていました。
面白いお話しがもう一つ。
松本さんは、長州の思想は、吉田松陰をひとつの中心として結束した同心円であるとされました。
対して長岡の思想の魅力は、河井継之助と小林虎三郎という、2つの中心を持った楕円がイメージできるということ。これが幅の広さ、奥行きの深さを生み出しているというのです。
幕末の継之助と虎三郎はライバルとして対極にあるようですが、そこに恭順論者の鵜殿団次郎の存在を置くことで、長岡にあった思想を一つのまとまりとして理解できるそうです。
実際に、天才鵜殿団次郎のことを二人は大変認めていました。
河井継之助の理想は実らず、北越戦争の開戦と敗戦で、長岡は完膚なきまでの破壊を受けましたが、直後からいちはやく教育と復興に着手できました。
戦後に世相が反転しても、それに対応できる幅広い人材、小林虎三郎や三島億二郎といった仲間が居たからですね。
(二人は継之助の同世代で幼馴染でもあります。鵜殿団次郎は明治元年に若くして亡くなったことが非常に残念です。)