• もっと見る

« 2010年10月 | Main | 2010年12月»
<< 2010年11月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
最新の記事
月別の記事一覧
日別の記事一覧
話題の分類
ふるさと長岡の人びと [2010年11月30日(Tue)]

「ふるさと長岡の人びと」
長岡駅前(大手口)にある史跡案内です。
幕末〜明治の偉人を見ると、河井継之助・小林虎三郎・三島億二郎・野元互尊翁・井上円了などなど、長岡にはこの案内板には収まり切らないくらい多くの偉人が居ます。



新組地区に北越戊辰戦争伝承館(仮称)が出来たあかつきには、もちろん案内地図には表示されるでしょうけれど、偉人一覧に長谷川泰先生が仲間入りできると良いなぁと思っております。
キャラクター案「外山寅太」 [2010年11月29日(Mon)]

同い年の多一と一緒に耳取村の青鬣館(せいりょうかん)で学んでいた頃の寅太。7歳くらいでしょうか。
軽雲外山翁伝によれば、口数少なくたいへん真面目に勉強する子でした。
一方、長谷川泰翁小伝によると、その頃の多一は腕白でガキ大将だったそうですから、二人はとても対照的です。



青鬣館を出ると、寅太は河井継之助との運命的な出会いを果たし押掛け書生となりました。
多一と継之助を会わせたのも寅太でした。

その後の寅太(外山脩造)は、河井継之助から「武士の世の中は終わる、寅は商人になれ」という有名な遺言を受け、大阪で実業家として成功し、阪神電鉄やアサヒビールの創始者になります。
外山脩造もまた、長岡藩の心を持って活躍した人でした。

※当ブログ関連記事
「多一と寅太」
【泰先生メモ38】長谷川泰の望郷 [2010年11月28日(Sun)]

戊辰戦争の後、長谷川泰が東京に活躍の場を求めると、福井村の長谷川家は親戚に託されていました。
そこに生まれた孫養子で、長谷川家の13代目にあたる「亀之助」を、晩年の長谷川泰はとても可愛がっています。
東京から学資の仕送りを頻繁に行い、その報告の手紙の多くは、幼い亀之助本人に宛てられていました。
そこには「お母さんを大事にしなさい」などと、我が孫に向けたかのような言いつけ書かれています。
明治42年頃の手紙で亀之助から長谷川泰に「春から坂之上小学校へやってもらいます」と伝えていますから、亀之助は済生学舎廃校の直後に生まれたのでしょう。廃校当日の突然の帰郷の際に、産まれたばかりの亀之助をその手に抱いていたでしょうか?
長谷川泰には1男4女が居り、もう孫も産まれていたであろう年齢ですが、生まれ故郷に住む幼子というのはまた別の可愛さがあったのかもしれません。
そうして祖父の想いを受けた亀之助は、成人すると故郷で長岡中央病院の院長を務め、皆から慕われる医師となりました。

ふるさと福井村に得た「後継者」。
我が子のように手塩にかけた済生学舎を失い、同志たちとも距離を置き、孤独の底にあった長谷川泰の心に、亀之助が再び光を差し込みました。

最晩年に、長谷川泰は愛しい福井村を詩に詠んでいます。

縞袂相逢呼是仙 平生水竹有深緑
將疎尚密漸経雨 以暗還明遠在烟
薄瞑山家松樹下 嫩寒江店杏花前
秦人若解当時種 不引漁郎入洞天

〜唐沢信安先生の著書「済生学舎と長谷川泰」のあとがきにある解釈より。
“泰は、郷里長岡市郊外の静かな村、福井の里を「桃源郷」に見立て、仙人の住む所と考え、仙人達に会う為には、今日迄の一切の怨念を忘れ、子供の様な心境で理想郷の福井村に帰りたいと、詩文の中で書き残している。”

ここには清らかな望郷の心が表れています。

「同郷人の団結」と題して北越の済生学舎卒業生を前に語ったように、もとより長谷川泰の郷土への愛情には大変に深いものがありました。
ー長岡領福井村に生まれ、同郷の偉人たちと共に成長した多一少年。
ー故郷を焦土と化した戦争に怒り、瓦礫の中から立ち上がった長谷川泰一郎。
ー共に学んだ仲間たちと創った済生学舎で、民衆の命を救った長谷川泰校長。
今も残るその遺書には、冒頭に良寛の詩が引用され、上杉謙信と、良寛と、河井継之助への尊敬の念が記されているそうです。

明治45年(1912)3月11日、明治時代の終わるその年に、明治医学界の傑物・長谷川泰は70歳で永眠します。
常に長岡人として生き、嵐のごとき激しい人生の内に日本を動かすほどの大仕事を成し遂げると、故郷を想いながらようやく静かな休息を得ました。
葬儀では、故人を慕う済生学舎の卒業生、教師陣ら、千名を超す参列者が湯島天神の坂を谷中霊園へ向けて下って行きました。
それは、静かな雨の日でした。

“話のタネ”01/泰先生の風貌 [2010年11月27日(Sat)]

“話のタネ”では長谷川泰先生の逸話や、これホント?という伝説、事件などを紹介します。
多くは、このたび製作中の漫画には納まらない内容ですので、話のタネとしてお読み下さい。泰先生の人柄を感じる助けにはなると思われます。

<泰先生の風貌>

 「北越詩話」(1918年/阪口仁一郎・著)には、その風貌が“乱頭粗服”と表現され、「長谷川泰先生小伝」(1935年/山口梧郎・著)では、代議士時代の先生について“薄汚れた着物に袴、懐手、それに鳥打帽とステッキ”と、具体的な服装が記されいます。

 私費の留学での貧しい苦学生だった泰先生ですから、若い頃に薄汚れた格好であったのは致し方の無いこと。
 しかし、後に済生学舎の校長になり役人になり、どんなに偉くなっても先生の着物は粗末なままでした。
 とにかく、泰先生は身なりにまつわる伝説がとても多い方なのです。

 長谷川泰先生は内務省衛生局長時代に、役所の衛士から「壮士」と間違えられて誰何されています。
 壮士とは、自由民権運動から生まれた、熱烈な職業的政治活動家です。その時も、紋付袴にお気に入りの鳥打帽とステッキだったと伝えられています。

 泰先生が少年時代に学んだ長岡領の長善館では、毎日清潔な袴に着替えて身なりを整えた後に授業が始まりました。そこでは神童と呼ばれるほどの優等生だったというのですから、大人になっての無頓着さを鈴木文台先生などが見たら苦笑されたことでしょう。

 長善館は「良寛さん」の教えをもとにつくられた学校です。良寛さんといえば“破れ衣と粗末な五合庵”です。
 長谷川泰先生は良寛さんの“あわれみの心”の教えを守って庶民の味方をしていますから、その格好は尊敬する先人を真似たと言えない事もありませんね。
秋山騎兵団の記録 [2010年11月26日(Fri)]

NHKドラマ「坂の上の雲」の第二部の放送が間もなくです。

長岡市の新潟県立歴史博物館では、秋山騎兵団の若き副官・山内保次が、日露戦争の戦場で描いたスケッチ展が開催されています。
山内保次は新潟市出身の陸軍軍人。少年時代から絵に親しんでいます。
中国・モンゴル・ロシアへの行軍記録を描いた山内のスケッチは、モノクロの写真よりも雄弁に軍内の空気を伝えているように見えました。
しかし、大陸の牧歌的な風景からは、そこで厳しい戦闘が繰り返されたことなど想像がつかない様でもあります。



「秋山騎兵団の記録」
会場/新潟県立歴史博物館
期間/11月13日〜11月28日

新潟県立歴史博物館
http://www.nbz.or.jp/jp/index.html



明治37年(1904)の日露戦争では、脚気患者の25万人という大量発生と、軍医の不足により甚大な被害が出ています。
白米食の偏重に由来する脚気の大量発生。
その療法は食文化の異なる西洋にはありませんでしたから、西洋医学を取り入れた後の日本では、細菌説が主流になるなどして、食事療法という正しい対処法が見つけられないままだったのです。
(長年に渡る脚気対策の送れについては、長谷川泰の親友・石黒忠悳に軍医総監としての責任求める声もありました。)
軍医の不足については、開戦前年の「済生学舎」の廃校が明治政府にとって痛恨だったことでしょう。済生学舎は日本随一の西洋医の速成校でしたが、明治政府自らが廃校に追いやったような経緯があります。
もっとも、長谷川泰校長が生徒を戦地に送り出すことを喜ぶとは思われませんが・・・・・。
JIN-仁-最終回 村上もとか [2010年11月24日(Wed)]

本日発売の集英社スーパージャンプで、村上もとか先生の「JIN-仁-」が最終回をむかえました。
ネタバレになってしまうので作品の内容には触れませんが、物語当時頃の長谷川泰先生の動向は以下の通り。

明治7年、結婚。東京医学校から長崎医学校長へ転任。
〜〜この転任は対抗派閥からの失脚策であり、長崎の校舎は軍用の病院に転用され、間もなく廃校。
〜〜泰の反撃、長崎の医療設備の一切合切を、心血を注いだ東京医学校に寄贈する。
明治8年、東京府本郷の順天堂医院の間近に新居を構える。「済生学舎」開業願が東京府から受理。
明治9年、順天堂の師・佐藤尚中の志を継ぎ、本郷に私立医学校「済生学舎」を開校。

いかがでしょうか??
興味がおありの方は、どうぞJIN-仁-と読み比べてみて下さい。
ちなみに、物語の舞台「仁友堂」は、佐藤尚中と松本良順の「順天堂」をモデルにしています。
長谷川泰は幕末に佐倉順天堂で学びました。

※当ブログ関連記事
「佐倉順天堂の泰一郎」
「長崎“栄転”」
長谷川泰先生のカラー画 [2010年11月24日(Wed)]

カラーイラストが1点できあがりました!
帝国議会で代議士を務め、済生学舎は円熟期を迎えた頃の長谷川泰校長です。
普段は着古した着物だったようですが、広報用に正装して頂きました。



吉岡彌生や野口英世が在学した頃が、丁度このような雰囲気だったのだと思います。
伝染病研究で世界的な名声を得て帰国した北里柴三郎に、東京での活躍の場を用意しようと奮闘したのもこの頃です。
第4回「泰先生に親しむ集い」報告 [2010年11月23日(Tue)]

11月21日に新組小学校で開催されました、第4回「長谷川泰先生に親しむ集い」
秋晴れの行楽日和の中、70名ほどの方にお越しいただき感謝です!

今回の講師、野口英世記念館学芸員の小桧山六郎さんは全国で講演活動をされています。
野口英世の今まで聞いた事が無いようなエピソードが飛び出すのは、専門家ならでは。大変興味深いお話を頂きました。
会津と長岡は歴史上の友藩、そういった意味でも嬉しいことです。
小桧山さん、ありがとうございました。



<小桧山六郎さんのお話からまとめて>
“志得らざれば再びこの地を踏まず”と決意の言葉を生家の柱に刻み、東京の「済生学舎」で学んだ19歳の野口清作(後の英世)。それは、早朝5時から夜7時までの猛勉強でした。
清作が猛勉強を苦にしなかったのは、医師になるという目的を実現させるには必要な努力だと知っていたから。
それに、家が貧しく援助を受けながら勉強する清作には、月謝の安い済生学舎とはいえ何年も在学を続けることは、出資者に申し訳がありませんでした。
医師になることは、貧しい両親に報いるためでもあります。愛する母親・シカさんのために必死で学び続けました。
そうして僅か1年程度で「医術開業試験」(国家試験)に合格、スピード卒業をして行きます。
既存の多くの伝記では独学の人だったと称される野口英世ですが、済生学舎での1年は事実上唯一の学歴であり、済生学舎が世界の野口英世の大きなステップアップとなりました。

(清作は故郷にいる頃から細菌学に関心を持っていました。そこに済生学舎のドイツ製最新顕微鏡の設備は魅力であり、さらに細菌学の権威・坪井次郎(京都大学初代学長)が講師を務めていたのは細菌学者・野口英世を育てた大きな要因のはずです。)

在学中の清作は、猪苗代小学校の恩師へ向けた手紙で、長谷川泰校長についてこう評価しています。
“天下の趨勢を洞察して勇断をもって官を去り、自らの力を発揮しようとしています。済生学舎はその一つであります。”
続けて済生学舎の生徒には盟友とすべき人物が見当たらない、自分は孤独だと、やや「上目線で」嘆いていますが、その辺の強気な性格が長谷川泰校長と似ているのではないかと小桧山さんはお話されていました。
そういった強気は、戊辰戦争でのいわゆる賊藩から上を目指そうとする者共通の、自らを鼓舞するための態度であったかもしれませんね。

〜今回聴講した小学生の共感を得た(?)くだりを一つ。
昔は家に帰って勉強をすると、親に怒られました。
家では農作業の手伝いをしなければならないからです。
野口英世博士は、座って勉強しながらできる水路の番をするなど、一生懸命知恵を絞って勉強を続けました。
皆さんは家で勉強すると褒められて幸せですね?



今回もお集り頂いた地域の皆さん、雨の中をありがとうございました。
他校PTAの皆様のご参加にも感謝いたします。今後も新組地区の活動にご注目ください。
来賓には、第1回講師の西片正栄さん、3回講師の吉田勝さんにお越しいただきました、ありがとうございました。
講師の小桧山六郎さんには、お忙しい中を猪苗代から日帰りでお越し頂きました。今度ともご協力を宜しくお願いいたします。
そして、毎回協力をいただいている新組小学校と地元の関係各位に感謝!

新潟日報には、この会の記事が掲載されましたので、そうぞご一読ください。
※当ブログ関連記事
「新潟日報に掲載」
新潟日報に掲載 [2010年11月23日(Tue)]

本日11月23日の新潟日報朝刊に記事が掲載されました。
第4回「長谷川泰先生に親しむ集い」での、野口英世記念館学芸員・小桧山六郎さんの講演について。長谷川泰先生の出身地で、地域住民主導の顕彰活動が行なわれていることに注目して頂きました。



新潟日報さんには、福井町八幡社のお祭など新組地区のコミュニティ活動の記事を何度も書いていただいています。
今回も取材に大感謝です!

※当ブログ関連記事
第4回「泰先生に親しむ集い」報告
取材の中間報告書 [2010年11月22日(Mon)]

約1年、長谷川泰を語る会の取材班は、資料の収集や聞き取りを頑張ってまいりました。
先頃の日本医科大学への訪問や、この度の講演「野口英世と長谷川泰」の内容を加えて、取材の中間報告書がようやく出来上がりました。
長谷川泰を語る会の会員の皆さんには配布しましたので、取材でお世話になった方々にも順次発送いたします。
取材を通して、長岡の郷土史の中に長谷川泰がどのように存在しているのかが見えてきました。

昨日の講演の報告記事も、近日エントリーします。
行楽日和の休日にもかかわらず、多くの皆さんのご聴講を頂きました。
今回もありがとうございました!
| 次へ
Google

Web全体
このブログの中
http://www.pecope.com

ジオターゲティング