11月21日に新組小学校で開催されました、第4回「長谷川泰先生に親しむ集い」
秋晴れの行楽日和の中、70名ほどの方にお越しいただき感謝です!
今回の講師、野口英世記念館学芸員の小桧山六郎さんは全国で講演活動をされています。
野口英世の今まで聞いた事が無いようなエピソードが飛び出すのは、専門家ならでは。大変興味深いお話を頂きました。
会津と長岡は歴史上の友藩、そういった意味でも嬉しいことです。
小桧山さん、ありがとうございました。
<小桧山六郎さんのお話からまとめて>
“志得らざれば再びこの地を踏まず”と決意の言葉を生家の柱に刻み、東京の「済生学舎」で学んだ19歳の野口清作(後の英世)。それは、早朝5時から夜7時までの猛勉強でした。
清作が猛勉強を苦にしなかったのは、医師になるという目的を実現させるには必要な努力だと知っていたから。
それに、家が貧しく援助を受けながら勉強する清作には、月謝の安い済生学舎とはいえ何年も在学を続けることは、出資者に申し訳がありませんでした。
医師になることは、貧しい両親に報いるためでもあります。愛する母親・シカさんのために必死で学び続けました。
そうして僅か1年程度で「医術開業試験」(国家試験)に合格、スピード卒業をして行きます。
既存の多くの伝記では独学の人だったと称される野口英世ですが、済生学舎での1年は事実上唯一の学歴であり、済生学舎が世界の野口英世の大きなステップアップとなりました。
(清作は故郷にいる頃から細菌学に関心を持っていました。そこに済生学舎のドイツ製最新顕微鏡の設備は魅力であり、さらに細菌学の権威・坪井次郎(京都大学初代学長)が講師を務めていたのは細菌学者・野口英世を育てた大きな要因のはずです。)
在学中の清作は、猪苗代小学校の恩師へ向けた手紙で、長谷川泰校長についてこう評価しています。
“天下の趨勢を洞察して勇断をもって官を去り、自らの力を発揮しようとしています。済生学舎はその一つであります。”
続けて済生学舎の生徒には盟友とすべき人物が見当たらない、自分は孤独だと、やや「上目線で」嘆いていますが、その辺の強気な性格が長谷川泰校長と似ているのではないかと小桧山さんはお話されていました。
そういった強気は、戊辰戦争でのいわゆる賊藩から上を目指そうとする者共通の、自らを鼓舞するための態度であったかもしれませんね。
〜今回聴講した小学生の共感を得た(?)くだりを一つ。
昔は家に帰って勉強をすると、親に怒られました。
家では農作業の手伝いをしなければならないからです。
野口英世博士は、座って勉強しながらできる水路の番をするなど、一生懸命知恵を絞って勉強を続けました。
皆さんは家で勉強すると褒められて幸せですね?
今回もお集り頂いた地域の皆さん、雨の中をありがとうございました。
他校PTAの皆様のご参加にも感謝いたします。今後も新組地区の活動にご注目ください。
来賓には、第1回講師の西片正栄さん、3回講師の吉田勝さんにお越しいただきました、ありがとうございました。
講師の小桧山六郎さんには、お忙しい中を猪苗代から日帰りでお越し頂きました。今度ともご協力を宜しくお願いいたします。
そして、毎回協力をいただいている新組小学校と地元の関係各位に感謝!
新潟日報には、この会の記事が掲載されましたので、そうぞご一読ください。
※当ブログ関連記事
「新潟日報に掲載」