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10月も終わり [2010年10月31日(Sun)]

今日で10月も終わり、来年の締切が見えてまいりました・・・・・史料収集を急ぐために今月は毎日のブログ更新を課しました。
おかげ様でアクセス数も順調に伸び、地域ブログとしてはなかなか多くの方に閲覧をしていただけています。
【泰先生メモ】はあと1回でひとまず終了。マンガ制作に関する史料作りも打ち止めとして、本格的に実制作に入って行きます。



マンガの進行報告や季節ネタ等のカテゴリの更新は続けて行きます。
泰先生の小話を集めた新カテゴリも投稿開始しますので、引き続き宜しくお願い致します!
<調査依頼中の案件の取材には駆けつけます!>


【泰先生メモ37】長谷川泰の晩年 [2010年10月31日(Sun)]

「専門学校令」の発布の後、長谷川泰は親友の石黒忠悳を3度訪ねて済生学舎の存続を相談しています。
開校の相談役でもあった石黒を相手に、大学としての存続を強く望む泰でしたが、しかし石黒の考えは廃校でした。
つまりは“済生学舎開校の明治初期は少ない西洋医の育成は急務であった、しかし今、西洋医は増え、官立医学校も整備された”ということです。
そして「君も済生学舎創立の初志を達したのだから、ここいらでひと休みしなさい。」と語りかけました。

--明治36年(1903)8月30日、東京日日新聞などの広告欄には、済生学舎廃校を告げる長文が掲載されていました。

繰り返し書きますが、長谷川泰と済生学舎は時流を逃しました。
しかし一方の事実として、当時の済生学舎から明治時代の医師の過半数が誕生し、帰郷して日本各地で開業医となったこと。
それが無ければ日本の医療は、多くの民衆を救うことができなかったはずなのです。
長谷川泰が良寛と河井継之助と佐藤尚中から受け継いだ、『済生救民』(広く民衆を救う)の大志は、確かにそこに結実していました。



済生学舎廃校を告げる新聞が発行されたその当日。
長谷川泰の姿は、故郷福井村に在りました。
愛する済生学舎の、その在校生700余命を路頭に迷わせてまで突然姿を消した長谷川泰校長の傷心は、はたしてどれほどのものだったでしょう。
東京では石黒忠悳や川上元治郎と、教師仲間たちが学生の救済に駆け回っています。
越後の泰は、長谷川家菩提寺の智徳寺で祖霊に帰郷を告げるとそこに滞在し、しばらくを故郷で過ごしました。

その晩年、禅と書に親しみ相変わらず多種多様大量の読書に耽る長谷川泰翁。
東京府本郷の自宅には、済生学舎が隆盛を見せたあの時とは変わり訪ねてくる人影もまばらでした。
そうした日々を重ねるうちに、老いと死の孤独を感じる長谷川泰でしたが、そこにひとつの救済が現れたのでした。
【泰先生メモ36】済生学舎の窮地 [2010年10月31日(Sun)]

明治23年(1890)森鴎外の私立医学校撲滅を訴える「日本医育論」に端を発した帝大エリートとの対立。
それは、長谷川泰の内務省衛生局長時代に激化しました。

1.明治31年(1898)、帝大出身のエリート以外の医師の権利も守るべく医師会を設立しようという「医師会法案」への抵抗運動と議会否決。赤門派閥の医師会法案反対同盟には、かつての同志が複数引き込まれており、泰を苦悩させました。

2.明治34年(1901)、医薬分業(現代まで争点となっている)を求める「薬律改正」、その議会での可決に長谷川泰は抵抗します。前任の後藤新平からの“薬剤師の養成に努める必要はあるが医薬分業は急いではならない”という指示もあっての行動でしたが、多数を敵に回す結果になり辞任に追い込まれます。
総務長官・山縣有朋は長谷川泰を呼びつけ、その日の内に辞表を出せと迫りました。

3.そして畳み掛けるように、明治36年(1903)突如として発布された「専門学校令」。
それは私立校に官立校並の設備環境の整備をわずか1年という火急さをもって迫り、それをクリアすれば専門学校として認可。駄目ならば廃校という厳しい内容であり、事実上は済生学舎など私立校への攻撃を意図したものでした・・・。
その時、長谷川泰校長は多忙の極地にあり、衛生局長として101法案を立法化する活躍を見せるものの、それと引き換えに我が子とばかりに愛した済生学舎の整備には手が回らない状態なのでした。
そこへ来て、局長辞任僅か5ヶ月後「突然の専門学校令発布」は、結果、済生学舎にとって致命傷となってしまったのです。

もとより長谷川泰校長には、済生学舎を「大学に昇格させたい」という目標があり、それに向けて必死の融資願いを続け、政治的に対立していた文部省にまでも懇願する姿勢を見せます、しかし残念ながらそれは実りませんでした。
長谷川泰が委員を務めた医術開業試験の管轄も、内務省から文部省へ移されてしまいます。

次回【泰先生メモ】は長谷川泰の晩年です。
【泰先生メモ35】下水道法成立 [2010年10月30日(Sat)]

私たちのふるさと長岡に、上下水道整備の先進をもたらした長谷川泰の活躍。
長谷川泰の公衆衛生に向けたその執念は、多一と呼ばれた少年時代にさかのぼります。

「水腐組」と呼ばれた故郷福井村周辺では、洪水で溜まった汚れた水「腐り水」が疫病の温床となり、自身も4歳の頃の赤痢で死の恐怖を体験しました。
※当ブログ関連記事「腐り水との戦い」

15歳で学んだ長善館でも、かつて良寛が憎んだ「腐り水」の害を目の当たりにしました。
<長善館門下生たちは「大河津分水」建設による治水の確立に活躍しています。>
※当ブログ関連記事「信濃川の試練が育てた偉人たち」

26歳、北越戦争では負傷兵の多くが不衛生が元で傷からの病に倒れます。西洋の最先端の外科医術を持ちながら、恩人・河井継之助が死しても成す術を持たなかった自分に怒りました。
※当ブログ関連記事「北越戦争に従軍」

37歳、東京府病院長時代には、開国と西南戦争が招いたコレラの危機に立ち向かい、臨時の対策病院の院長も務めました。幼少期の故郷の光景がよぎったのではないでしょうか。
※当ブログ関連記事「済生学舎の発展」

46歳、大日本私立衛生会の席上で上下水道の整備を熱弁。同年、後藤新平との対談では政府の不見識への怒りをぶつけています。

50〜51歳、伝染病研究の世界的権威・北里柴三郎を助けるために各所で熱弁。後藤新平とも同調し、福沢諭吉らと共に北里柴三郎の恩人と称されました。
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<前編>」
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<後編>」

52歳、明治27年(1894)からの日清戦争にあたっては、親友・石黒忠悳、後藤新平と共に検疫の整備に力を尽くします。

等々・・・長谷川泰は生涯を通して伝染病と公衆衛生に向かい合って来ました。

そして明治30年、長谷川泰55歳、再び大日本私立衛生会の席上にて。
「公衆衛生の価値について」と題した1時間に渡る演説では、病人が減れば労働力が増し結果として社会に公益をもたらすと語ります。
この時長谷川泰が叫んだ『町の中の金山を掘れ』という強烈なキャッチフレーズは、後藤新平の脳裏に焼き付き、翌年の内務省衛生局長「勧誘」では殺し文句として表れたのではないでしょうか。
すなわち、「長谷川君、我が国の下水道は君が造れ!」と。

明治33年(1900)、内務省衛生局長・長谷川泰により日本初の下水道法が成立。
路上に排泄物を捨てるといった江戸時代から続く悪習が絶えない東京の街に、公衆衛生の光が差し込むことになりました。

--明治35年に下水道推進の第一人者であった長与専斎(初代衛生局長)が他界し、同年に長谷川泰が政治闘争から衛生局長を辞任すると、明治政府は下水道整備の指導者を失います。
そして明治27年の日露戦争が近づくと、軍事色を増した政府から公益事業は放棄され、上下水道整備は中断します。

東京の上下水道整備の完成は没後後世に託しますが、長谷川泰が生涯に渡り日本の公衆衛生に残した功績は大きく、忘れられないものです。
そして私たちのふるさと長岡へ与えた大きな影響は以前に書いた通りです。

※当ブログ関連記事
「長岡の下水道への影響(前) 」
「長岡の下水道への影響(後) 」


【泰先生メモ34】内務省衛生局長就任劇 [2010年10月29日(Fri)]

明治31年(1898)3月、長谷川泰57歳。
そもそも役人務めを好まない長谷川泰でしたが、なんと「内務省衛生局長」の重任を引き受けることになりました。

前任の後藤新平は台湾総督・児玉源太郎の依頼を受けて、急遽台湾民政局長に就任することとなり、後任として長谷川泰に熱烈(無理矢理)なアプローチを掛けたのでした。
渋る長谷川泰でしたが、内閣総理大臣・伊藤博文までが懇願してきては遂に覚悟を決めざるをえませんでした。
(この時、後藤、伊藤より貴族院入りの口約束があったともされます。泰には政治家として衛生・医療の発展に更なる野心があったでしょうか。)
泰に相談を受けた石黒忠悳はこの就任劇について「まことに困難であり、親友として気の毒で・・・誰が行なっても好くは言われぬ役目だ。」と溜め息をつきます。

後藤新平は8ヶ条の引継書を残しました。
『1.医師会法案 2.薬剤師の養成 3.河川汚濁予防法 4.飲食品の検査 5.薬用阿片 6.汽車・汽船に関する衛生制度 7.工業衛生 8.清潔法』
長谷川泰は、5年の任期中にこの引継書の内容を含む101もの法案を立法化しました。

しかし、特に重大な問題であった1.医師会法案 2.薬剤師の養成に関する事項を忠実に推し進めることで、長谷川泰は東大赤門派閥との間に決定的な対立を招きます。
石黒忠悳の予言は当たり、内務省衛生局長の任務は苦闘の連続となりました。
結局、明治36年(1903)の「済生学舎廃校」の要因を作ってしまうのですが、引き続きの【泰先生メモ】では「3.河川汚濁予防法」に関わる長谷川泰の業績「下水道法」成立について書きます。
日本医科大学医史学教育研究会 [2010年10月28日(Thu)]

燕市長善館史料館館長・吉田勝先生のご紹介で、日本医科大学医史学教育研究会委員・唐沢信安先生のご自宅へお招きいただきました。
唐沢先生は、東京で唐沢内科医院の名誉院長を務められています。

先生はこの日のために、学会発表の準備を中断されて資料集を作成してくださいました。
未発表史料であるために、先生の学会発表が済むまではお見せできないのが残念なのですが、それはもう立派な一冊なのです!
マンガ制作にとっての最高の助けになりました、大変有り難いことです。

それを用いて、先生とマンツーマンの「授業」が始まりました。ブログ管理人は大緊張しましたが、何とも贅沢な時間です。
唐沢先生が長年の研究の上で語られる長谷川泰のバックボーンと人物観は、いちいち得心の行くもので大変楽しい時間でした。
(しかし掘れば掘るほど掴みどころが無くなるというのが長谷川泰の魅力だと!)
考えてみれば、一人の過去の人物について、世代も環境も異にした初対面の者同士が長時間盛り上がるというのは、非常に面白い状態です・・・これが歴史語りの魅力ですね。

唐沢信安先生ご自身のお話も聞かせていただきました。
若かりし日の苦学の経験談は、済生学舎と長谷川泰自身を思わせるものがあり、大変心に迫るものです。先生の長谷川泰への強い愛着が頷けます。
唐沢先生の研究に見る長谷川泰のリアリティは、そんなところから来るのだと感じました。
そして、長谷川泰を語る会の活動についてのアドバイスとして、先人の文章そのままのコピーではいけない、マンガは作る者の言葉で描きなさいとのご指導をいただきました。
長谷川泰のふるさとの者ならではの顕彰が出来るよう、会の活動に活かして行きます。

長岡郷土史に連載をされていた頃の長谷川泰行さんや稲川明雄先生との思い出話をしつつ、午後からは、済生学舎を起源とする日本医科大学へ移動。
日本医科大学・橘桜会館の敷地は、文豪・夏目漱石の邸宅跡にあたり、あの有名な名前の無い猫がお出迎えです。



済生学舎で細菌学を深めた野口英世も、学内から尊敬を集めています。



橘桜会館の貴重な展示史料を、唐沢先生の頼もしい同志である日本医科大学中央図書館事務室長・殿崎正明先生からご説明いただきます。
また、特別にお計らいをいただき、図書館所蔵の一次史料を閲覧することができました。
webでの公開は控えさせていただきますが、それはもうたいへんな研究成果です。
史料のすべてが、唐沢先生が25年以上にわたり収集された物からの寄贈だそうです。



上の写真はロビーの展示史料です。嬉しいことに、良寛、河井継之助と長谷川泰との関わりも紹介されています。長岡の郷土史関係者には一度のお越しをお薦めします。
こうして学校のルーツを研究・顕彰することが、そこで学ぶ学生たちの誇りを支えているのだと強く実感しました。
実際に、学校紹介で起源が済生学舎だと明示したところ、受験者数が増加し学生の力も向上したと、唐沢先生は誇らし気にお話されていました。
--郷土史を顕彰し、郷土愛を育むことは、地域の教育にとっても同じ効果をもたらすのではないでしょうか。
--そして「済生救民」の校風を受け継ぐ医学生の皆さんにも、長谷川泰校長の故郷からメッセージを送れたら嬉しいと思います。



大学前で唐沢先生と記念撮影。
『since1876』とは、起源が済生学舎の開校にさかのぼる事を意味します。
唐沢信安先生、殿崎正明先生、そして唐沢先生の奥様、この度はお忙しい中をありがとうございました!
新事実も数々判明した、実り多い旅になりました。

日本医科大学同窓会
http://nmsa.jp/
長谷川家の墓前に再び挨拶 [2010年10月27日(Wed)]

新組地区もにわかに寒くなりました。
昨日今日と、冬のコートでなければ出歩けない寒さです。
今朝は冷たい雨の合間に、見附智徳寺にある長谷川家の墓所に挨拶へ行って来ました。

墓所にはいつのものか、花が供えられていました。
また地元の方がお参りに来られたようです。
今まで長谷川泰先生のお母さんの名前が分からなかったのですが、墓石の戒名を読むと「輝大姉」とありますから、「テル」さんだったのかもしれません。
長谷川家の墓所敷地には歴代のお墓があり、宗済先生、泰先生、そして亀之助先生までのお墓にそれぞれ奥様も入られていますが、さかのぼって初代の利右衛門さんのお墓もあることと思います。

今回は活動の経過を報告させていただきました。




雨が上がると、新組から見える守門岳の上半分が白く染まっていました。
越佐の墨芳 [2010年10月26日(Tue)]

新潟日報事業社発行「越佐の墨芳」
新潟県ゆかりの人物の書を集めたこの本に、長谷川泰の書が2点、書簡が4点掲載されています。

書簡の宛先が大変興味深く、「河井継之助伝」の著者・郷土史家の今泉鐸次郎宛に2点、長善館の2代目館主・鈴木タ軒(てきけん)と長岡藩大参事・三島億二郎に1点ずつになります。

今泉鐸次郎宛の書簡は「河井継之助伝」(初版明治43年)の取材に応える内容と思われるもので、あの小千谷談判の同席者が岩村精一郎であった事の確認を本人に取ったとの内容がありました。
河井継之助伝冒頭の協力者一覧に、岩村精一郎に続き上から2番目に長谷川泰の名があることからも、伝記の執筆に深く関与していた事が伺えます。

鈴木タ軒宛の書簡は明治17年の物で、タ軒の息子・鹿之助(後に長善館教師・鈴木柿園(しえん))を紹介された御礼の内容です。
北越戦争では両陣営に別れて戦った二人ですが、文中でタ軒の幼名の健蔵と呼びかけている事からも、戦後の関係が良好だったことを思わせます。

三島億二郎宛の物は、東京の泰を三島が訪ねて来た時の不在を詫びることから始まっています。
三島は泰に何やら調べものを頼んでいたらしく、それに答えるべく石黒忠悳に確認したが分からなかった、というような内容です。


柳塘の号で「虚心坦懐」と題され扇に書かれた書には、「大正戊午の夏歴遊中」と記されています。
これを大正7年(干支の戊午=つちのえうま)と読むならば、長谷川泰の没後ということになりますが、何か別の解釈の仕方があるのでしょうか?
サムライの娘 [2010年10月25日(Mon)]

お馴染み新潟市の考古堂書店さんから発行されている絵本「サムライの娘」です。
長岡藩士の娘「杉本鉞子」の生涯が、美麗なイラストに描かれています。



明治5年(1872)長岡藩筆頭家老・稲垣平助の6女として生まれた杉本鉞子。
米国で美術雑貨商を営む日本人青年へ嫁ぐため渡米。
そこで日本の文化や生活習慣などを紹介するために書いたのが、自伝的小説“A Daughter of the Samurai”でした。
雑誌「ASIA」に連載された際には、明治初頭の長岡の風景写真が掲載されています。
やがて単行本化されベストセラーになると、欧米各国で出版された“A Daughter of the Samurai”。
そこに描かれ世界に発信された武家の姿は、在りし日の長岡藩の空気をまとっています。
日本でも「武士の娘」として発行されました。

杉本鉞子は異国にあっても着物姿を通し、民間の交流から日本文化を伝えました。

Amazon購入ページ「サムライの娘」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4874995780


Amazon購入ページ「武士の娘」(サムライの娘の原作)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480027823
【タイ・カップ】順延日程 [2010年10月24日(Sun)]

【タイカップ】第1回長谷川泰翁杯親善少年野球大会
天候に恵まれず2度延期になっておりましたが、日程が決まりました。
予備日無しの今年のラストチャンス、どうか晴れますように!



日時:平成22年11月13日(土)
    9:00開会〜16:00閉会予定
会場:長岡市立新組小学校グラウンド

参加チームの各地域の皆様、子どもたちの応援を宜しくお願いします!
そして、偉人たちを通して、新潟県のそれぞれの地域の特色ある歴史文化を話す切っ掛けにしましょう。



【開催趣旨より】
本少年野球大会では、長谷川泰と交流のあった偉人ゆかりの地域の少年野球チームで、長谷川泰翁杯を争います。
長谷川泰は、同郷の偉人たちと少年時代から交流を深めることで成長した人物です。 そのことに倣い、現在の子どもたちには野球を通して地域間の交流を重ね、見聞を広げる機会を持っていただきたいと思います。
そして、この郷土の先人たちの名を冠した野球大会を回を重ねて行く事により、親と子にその功績を永く伝え遺します。
やがて、先人を誇りとし、彼らと歴史で繋がる郷土と自己への愛着を育んだ子どもたちが、未来の社会で大いに活躍してくれることを願っています。
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