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シリーズ藩物語【長岡藩】 [2010年09月30日(Thu)]

長岡・河井継之助記念館の館長、稲川明雄さんの著書です。
シリーズ藩物語・第1段【長岡藩】



「三河以来〜」というキャッチフレーズがあるように、徳川家臣の古参であり、その藩風を誇りとして受け継ぐ長岡藩。
「常在戦場」の4文字に代表される、実際的で質実剛健な精神は、幕末の家老・河井継之助や、連合艦隊司令長官・山本五十六らの心にも刻まれていました。

長岡のお国自慢といえば「人材輩出」。
「特命全権米大使・斎藤博」「サムライの娘・杉本鉞子」「医界の喧嘩太郎・武見太郎」「妖怪博士・井上円了」等々・・・知って欲しい数々の偉人たちが並んでいます。
もちろん、その中に「ドクトルベランメー・長谷川泰」も肩を並べています。


大名の領地を「藩」と言い表すことは明治政府が定めたことであり、行政で使われたのは廃藩置県までの間3年数ヶ月の間でしかないそうです。
しかし、「藩」という概念は日本人の心に遺り、郷土愛や当時の地方自治意識を高めました。
「藩意識」を持った者が集まると、そこに生じるライバル心の競い合いによって優れた人材が育成されました。
地方分権が叫ばれる今、私たちの郷土に遺る「藩」の個性に再注目してみると面白いのではないでしょうか。

シリーズ藩物語【長岡藩】Amazon購入ページ
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はざがけ [2010年09月29日(Wed)]

先日、新組保育所前の水田の稲刈りが行なわれ、おおきな「はざかけ」が組まれました。
雨の中お疲れさまでした!



こちらは今年で4回目の「クリーン・エコ新組」の活動で行なわれるもので、新組小学校の生徒さんが「手で植え、鎌で収穫する」伝統農法を体験しました。
子どもたちの手作りの案山子が、今日も天日干しの美味しいお米を見守っています。
【泰先生メモ28】済生学舎と女学生 [2010年09月29日(Wed)]

新校舎へ移転し、学生の数も膨れ上がった済生学舎は、明治17年(1884)3月に「東京医学専門学校・済生学舎」と改称を行ないました。
開校当時バラック以下のボロボロな私塾だった学び舎は、専門学校として威風堂々の再スタートを切ったのです。

当時の学生数は500人弱、教員は16名。
開校当時は外国語の原書だった教科書は、22種類の翻訳書が用意されるまでになりました。
当時は希少であった顕微鏡も、大小各3台を購入。(明治24年には管制学校並みの50台を揃える)
済生学舎では日本初の「幻灯」(今で言うプロジェクターですね)を使った授業が行なわれていました。
--後の明治28年(1895)、レントゲン博士による「X線」発見の翌年には、「丸茂文良」が済生学舎講堂で世界医学界初のX線実験を成功させるなど、時代の先端を行く医学校となっていました。

こうして一躍有名校となった済生学舎の存在は、医療の道を志す女性の向学心にも火を点しました。
明治17年7月、専門学校へ改称を行なった直後に済生学舎の門を叩く女性が居ました。
女性は当時31歳の「高橋瑞子」。日本で3人目の女医となった彼女は、難物の長谷川泰校長を三日三晩かけて説得し、男子校であった済生学舎の門を見事こじ開けます。
翌明治18年に女学生の入学を正式に許可。こうして済生学舎は「男女共学」「女子教育」についても先端を行ったのでした。
以来、その当時の女医志願者のほとんどが済生学舎に入学し、そこから59名の女医を誕生。国内のみらなず海外で活躍する女医も現れました。

済生学舎の卒業生で忘れてはならない「吉岡彌生」(当時の姓は鷲山)は、明治22年(1889)に入学し、明治25年には医術開業試験に合格し卒業しています。
前期と後期に分かれていた試験の、当時の合格率は前期が30%、後期が20%と言われる程の狭き門でした。
入学が許されたとはいえ、社会的な女性差別意識の強い当時のこと、粗野な者も多い男子学生の中で学問を続けることは容易ではありませんでしたが、勝ち気な彌生は頑張り抜きました。
彌生は、女学生にちょっかいを出す者に対して「女医学生懇談会」を組織して活動するリーダー的存在でもありました。

--明治36年(1903)、突然の「専門学校令」発布。
済生学舎を個別に攻撃するかのような内容だともされるこの法令の準備が水面下で進む中でした。
明治34年(1901)長谷川泰校長は“全ての女学生に退学を命じて”しまいます。
「専門学校令」がもたらす影響からどのような理由でそうせねばならなかったのか?当ブログでは調査中ですが、表向きには男女共学の風紀上の理由とされています。
いずれにせよ女学生たちを守りきれなかった長谷川泰校長の対応を、吉岡彌生は痛烈に批判していますが、すぐさま「東京女医学校」(現在の東京女子医科大学)を設立し、済生学舎の女学生を済ったのも彌生でした。



※当ブログ関連記事
「キャラクター案 吉岡彌生」

(共学が全て悪かったかというとしかし、中には校内で恋に落ちて結婚するカップルもあったということを付け加えておきます。)
さくらさくら [2010年09月29日(Wed)]

この新書は、吉岡彌生をモデルとしたドラマ1977年放送の「さくらさくら」のストーリーを書籍化したものです。
明治時代、根強かった男女差別に対峙し、女性として、医学者として強く成長して行く弥生の生涯が描かれています。



主人公の名前は「土方弥生」、結婚して「山岡弥生」であり、史実をベースにしたドラマ向けの創作であることが分かります。
実在の吉岡彌生の旧姓は鷲山といいます。

この物語の舞台としての済生学舎は、粗野な男社会の象徴の様な形で誇張されながら描かれています。
ですが実在の吉岡彌生の後年の言葉を読むと、風紀の教育が行き届いていなかった学内での女学生の苦労は、紛れも無い事実であったようです。

そして「済生学舎の長谷川泰校長」が実名で登場するのですが、ヒロインの「弥生」に出会い頭にこう言い放ちます。
「規則規則で医者になりたきゃ帝国大学へ行きたまえ」
これはいかにも泰先生の口から出そうな台詞です・・・。

(長谷川泰の同郷人としては、先生の名誉のためにもこの物語と併せて他の書籍も読まれることをお願い致します・・・。)
米百俵まつり [2010年09月29日(Wed)]

今週末は、今や長岡の秋の定番イベント第9回「米百俵まつり」が開催されます。

会場/長岡駅前大手通周辺
日時/平成22年10月2日(土)11:30〜18:00(交通規制は11:00〜18:30)

近年、全国的に注目を集めた、明治維新期の長岡藩大参事・小林虎三郎の「米百俵の精神」をテーマに、秋の収穫祭と併せて誕生したお祭りです。



YouTubeから動画をお借りしました。
河井継之助役の男性は、先頃の外山脩造特番で「松蔵」を演じられました。

<長岡市公式ページより>
今からおよそ140年前の北越戊辰戦争で、旧幕府軍側の最前線で勇猛果敢に戦い抜いた長岡藩。その激戦で多くの命を奪われ、まちを焼き尽くされ、さらには「賊軍」の汚名を着せられながらも、長岡の先人たちは灰燼の中から着実な復興を成し遂げました。
まちの再建の大きな礎となったのは「質朴剛健」の長岡人の気質であり、当時の長岡藩大参事・小林虎三郎が人材育成の重要性を説いた「米百俵の精神」です。今日まで長岡の地に深く根付くこの「精神」を、次世代を担っていく子どもたちへ、さらには日本全国、世界各国のみなさんへと伝える米百俵まつりへ、どうぞ揃ってお出かけください。

今回は、大河ドラマ「天地人」では個性的な徳川家康を怪演した松方弘樹さんがゲストでいらっしゃるそうです!


戊辰戦争の激戦、長岡城奪還線の舞台となった「八丁沖」。
平成6年の米百俵まつりでは、そのルートでウォーキングイベントも開催されました。
23年度には、八丁沖見渡す大黒古戦場パーク内に「北越戊辰戦争伝承館」の開館をひかえる新組地区、そこを舞台に再度の八丁沖ウォーキングも期待されます!


「長岡市観光課・米百俵まつり」
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/event/kome_matsuri.html


※当ブログ関連記事
「八丁沖」
「大黒古戦場から福井町を望む」
【泰先生メモ27】済生学舎の発展 [2010年09月28日(Tue)]

済生学舎の長谷川泰校長は、学舎の外においても数々の官職に就いて、超過密スケジュールで公私にわたる社会貢献を行ないました。

開校当時の代表的なものは「東京府病院長」への就任です。
「東京府病院」は、長谷川泰にとって順天堂時代からの師である佐藤尚中が大学東校校長時代に声を上げたことから始まります。それは、官立の東校病院が民衆に対して開かれていないことを問題視し、新たな病院の開設を宮内省に提案するものでした。
長谷川泰はその東京府病院の3代目校長として「区医師制度」(区ごとに医師を置き細やかに対応)を開始し、さらに貧しい人たちには無料の治療も行ないました。
(その時の無料診察券の図案は、なんと泰自らのデザインです!)
この医療による「貧困者救済」は、病に倒れていた佐藤尚中との師弟にとっての念願だったのです。
この時、泰が医師たちに呼びかけた「済恤(さいじゅつ)の心」とは、あわれみの心。ここにもまさに良寛の思想が表れています。

開国と西南戦争に起因する明治12年の全国的なコレラの大流行が起こり、死を怖れた民衆に呪術祈祷が蔓延する社会不安の時代には、「避病院長」(「ひびょういん」とは伝染病専門の臨時対策病院です)として奮闘。
明治天皇が脚気に悩んだ際には「脚気病院事務長」として活躍しています。

校外での活動が多忙な中、しかし長谷川泰校長が何よりも情熱を傾けていたのが、他でもない愛する済生学舎での医学教育であり、自ら受け持つ講義を休むことは無かったそうです。
そして長谷川泰が活躍の場を大きく広げると共に、その評判を受けて済生学舎も増々人気を集めて行きました。

明治15年(1882)1月、済生学舎は本郷から湯島へ移転、約1千坪の土地で施設を大幅に拡張しています。
長谷川夫妻もその敷地内に住居を構え、明治18年には待望の一子「保定」を授かると、そこで家族の生活が始まります。
済生学舎の付属病院として「蘇門病院」も新設され、山崎元脩と弟・長谷川順次郎が院長を務めました。
(この病院名は、越後山脈を代表する山「守門岳」から名付けられたものです。会津と長岡の狭間にそびえる山頂からは、かつて河井継之助が追っ手を逃れた八十里越を見下ろすことができます。「蘇門」とは長谷川泰が用いた号の一つでもあります。)

済生学舎発展の最中のことです。
移転の同年7月、長谷川泰の最大の師である佐藤尚中が、病からの復帰ならず55歳で亡くなりました。
自らも掲げた「済生」の志を受け継ぐ愛弟子と、次々と世に西洋医を生み出す済生学舎とを、頼もしく見守りながらの最期だったのではないでしょうか。


【泰先生メモ26】済生学舎の火災 [2010年09月27日(Mon)]

済生学舎では、朝の5時から晩の8時まで引っ切りなしの講義が開かれていました。
越後に比べて温暖な東京とはいえ、冬などは朝晩の冷えが厳しかったようです。
バラック以下と言われた開校当初の建物は、窓は割れ隙間風は酷く、ことさらに寒かったことでしょう。
あんまり寒いので、股の間に火鉢を置いての講義。しかし火鉢が与えられるのは先生方のみであって、生徒たちはどてらを羽織って授業でした。

後の新校舎になってからではありますが、済生学舎の講師を手伝っていた入沢達吉が、冬の早朝の授業など寝間着に外套を羽織り「股火鉢」で講義を行なったと言っています。

新校舎への大移転(明治15年)までの間に、済生学舎では火災がありました。
明治12年(1879)、やはり寒さの厳しい年の瀬の夜に、済生学舎の宿舎から火の手が上がりました。
その時、道を挟んで向かいの自宅で読書をしていた泰ですが、延焼は無いと判断すると再び黙々と読書を続けたそうで、後に駆けつけた見舞客を呆れさせました。
この失火により、宿舎の建物は全焼してしまいますが、長谷川泰校長はすぐさま自宅隣の住宅を購入し、そこを「外塾」(そとじゅく)と名付けて講義を再開したのでした。

この年は6月に東京でコレラが大流行し、全国で死亡者数が105, 786人に上った大変な年です。
(細菌学の北里柴三郎・野口英世が世に出るのも、長谷川泰の下水道法成立もまだ先の事、世の中には伝染病を防ぐ予防医学がありませんでした。)
火災や疫病の流行など、度々の事件に見舞われながらも、明治初期の済生学舎は発展の一途を辿って行くのでした。


追記

「外塾」には、長谷川泰の同郷人で、栃尾の庄屋の息子の川上元治郎も住みました。
少年時代の川上元治郎は長谷川家の書生としてそこで暮らし、帝大医学部(現東大医学部)へ別科生(医師の促成コースでしょうか?)として通っていたのでした。
川上元治郎は成人して同じく同郷の入沢達吉らと「東大赤門派閥」に属すると、長谷川泰とは対立してしまいますが、恩人に対してかなり辛い立場にあったと思われます。
しかし川上は、明治36年(1903)済生学舎廃校の際に友人の山根正次に懇願して、残された学生の救済を依頼します。
--その時に開校された「私立日本医学校」の現在の姿が「日本医科大学」です。
近年になり、同校出身の唐沢信安先生を中心とした日本医科大学医史学研究会による熱心な研究の成果により、日本医科大学は長谷川泰の「済生学舎」を源流とすることが正式な校史となりました。
イタリアンの共演 [2010年09月27日(Mon)]


左がみかづき、右がフレンド

先週末の東京新潟県人会大交流会では、新潟市の出店を中心とする「みかづき」と長岡市の出店を中心とする「フレンド」のブースが並んで出展されていました。
そして、異なる2種類の『イタリアン』をセットで販売するというビックリ企画が展開されていたのでした!
皆さん食べ比べを楽しんでおられましたが、御当地の味は地元民の舌に焼き付いているもの。それがソウルフードでしょう。
どっちが美味しい?なんてのは野暮なのです。

ソースを互いに取替えたイタリアンもありましたが、お味のほどはいかに?
東京新潟県人会大交流会 [2010年09月26日(Sun)]

東京新潟県人会100周年を記念して、朱鷺メッセで『東京新潟県人会大交流会』を開催されました。
新潟駅の新幹線改札では、新潟の伝統芸能の万代太鼓が威勢良くお出迎えです。
到着した県人の皆さんからは「さすが新潟!」と声援が飛んでいました。



会場内には新潟県の企業・物産が集合して大盛況です。



県内の御当地キャラも大集合!
キャラクター選手権2010準優勝の「トッキッキ」、向こうには長岡市の「なっちゃん」の天地人バージョン「愛なっちゃん」姿も。
集まった子どもたちは、おおはしゃぎです。



長岡市、燕市の広報ブースでは「長谷川泰を語る会」としてご挨拶させていただきました。
燕市の広報担当者さんは長谷川泰のことをご存知で驚かされましたが、粟生津の長善館のPRのためにたとても頑張って取材をされているそうです。
将来、長岡市と燕市で協力した催しができると嬉しいですねと、お話させて頂きました。



東京新潟県人会は、上の写真の人物、新発田出身の大倉喜八郎男爵の声掛けにより、明治43年に発足されました。
大倉喜八郎は幕末に立身し、渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場を設立した事でも有名です。
また、サッポロビールの創始者でもあり、このブログでも紹介している外山脩造(栃尾出身)のアサヒビールと共に、日本を代表するビールメーカーの2つが新潟県出身者によって創業されています。


神戸で阪神タイガースや高校野球大会のグッズを製作されているシャープ産業株式会社のブースで、こんなものを発見!



アサヒビール創業と共に阪神電鉄創業者であり、「阪神タイガースの生みの親」とも呼ばれる外山脩造のTシャツです。
今も昔も庶民の足として地元の生活を助ける阪神電鉄。その創業者、長岡市栃尾出身の外山脩造は、熱狂的な虎党にも愛されています。
外山脩造は阪神電鉄の社長業を無報酬で引き受けて、鉄道の整備発展に尽力したそうです。

シャープ産業の小林会長は、現在外山脩造に関する書籍を執筆されているそうです。
脩造は、伝記の類が非常に少ないと言われる偉人ですから、このたびの出版がたいへん楽しみです!

※当ブログ関連記事
(当ブログの主人公・長谷川泰と外山脩造は幼馴染みだとご記憶ください!)
「多一と寅太」
郷土史カルチャー教室 [2010年09月25日(Sat)]

先頃の「越後・維新の物語 河井継之助と外山脩造」の放送を受けて開催されたカルチャー教室に参加してきました。
会場は、新潟テレビ21UXレクスンスタジオです。
新潟県民には何やら毎日お昼頃に見覚えがありますね〜。



冒頭では興味深いドラマのメイキング映像が上映されました。後の外山脩造・寅太役の地元只見の小学生、とっても可愛かったです。
会場には戊辰戦争で負傷した継之助を、八十里越を抜けて只見運んだとされる即製の「戸板籠」も展示されていました。
これは再現ドラマの撮影で使用されたものです。そうとう重いらしく、さらに70kgもある継之助役の役者さんを乗せて山道を行く撮影には苦戦したそうです。



戸板籠や藩士の装束は只見町在住の郷土史研究家の方が描かれた設定画から作られました。
その設定画を資料として公開いただいたのですが、それはもう見事なもの、私たちのマンガ制作のためにも大変勉強になりました。

番組でも触れられましたが、現在の甲子園球場脇にあった外山脩造の銅像は昭和19年、戦争の武器生産の為に召し上げられたそうです。
同郷で同年生まれの学友、東京・湯島天神にあった長谷川泰像と同じ運命を辿ったのでした。
この時代、歴史に名を遺すべき多くの偉人のモニュメントが、全国で同じ様な運命を辿ったのだと思うと無念な気持ちが沸き上がります。



今回のカルチャー教室では、長岡市の河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講演を拝聴することができました。

稲川さんの研究から史実に基づいて肉付けされる河井継之助と外山脩造の人物像は、たいへん人間臭くリアリティが溢れ、同郷人としての親しみがふつふつと湧いてくるものでした。
参加した長谷川泰を語る会のメンバーに向けてお心遣いを頂けたのか、戊辰戦争と河井継之助の関連から長谷川泰についても触れていただき、大感謝しております。

今回たいへん印象深いのは、河井継之助の名前を「つぎのすけ」「つぐのすけ」どちらで読むかという話題。
番組ディレクターから急遽提示されたこのテーマだけで、取材エピソードを交えた興味深いお話がなんと30分!
稲川館長のその研究の密度には圧巻です。

さて「つぎのすけ」なのか「つぐのすけ」か?その結論は稲川明雄館長の新刊をお読みください。
河井継之助本の「決定版」を只今執筆中、年内発売とのことです!
同時に外山脩造の新刊も執筆されているとのこと、郷土史ファンには思わぬビックニュースとなりました!
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