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暑さは続く [2010年08月31日(Tue)]

8月が終わります。
ですが・・・まだまだ暑いですね〜!



新組地区では家庭菜園を持っておられるお宅が多いですが、稲刈りが近いというのに夏の野菜がまだまだ穫れます。
今朝はゴーヤが3つも。
タイ・カップ打合せ [2010年08月30日(Mon)]

本日は【タイ・カップ】こと「長谷川泰翁杯親善少年野球大会」の打合せがありました。

参加記念品のタオルのデザインが決定。
そして、主催側用にスタッフTシャツも作ります。
Tシャツは予算が厳しかったために断念するかと思いきや、なんと係の方々から自費で購入するとの声が!

当日は、新組地区の花火屋さん安藤煙火店さんから、開会の花火の打上げも決定です。

今、長谷川泰を語る会が、燃えております。
新組地区の実り [2010年08月29日(Sun)]

福井町には「はざがけ」が現れました。
収穫の早い品種はもう稲刈りが進んでいますね。
こうして、天日で乾燥させると美味し〜いのです!



コミュニティセンターと、新組小学校の児童が毎年行なっている米作り体験の水田には、手づくりの案山子が登場。
この光景は新組保育所付近の水田で見られます。
案山子の一家が、ぷくぷくと膨らんで来たお米を、鳥たちのつまみ食いから守っています。



9月の中頃までには、子どもたちによる稲刈りと「はざかけ」も行なわれます。
キャラクター案「後藤新平」 [2010年08月28日(Sat)]

後藤新平と長谷川泰は、衛生への取り組みで強力しあう間柄でした。
北里柴三郎記念館では、共に細菌学・予防医学の巨人・北里の恩人として名を連ねています。
ある時、後藤が投獄の目にあうと泰は一策を案じ、監獄内の衛生状況調査という名目で慰問をするという友情も見せています。



明治31年(1898)内務省衛生局長であった「後藤新平」は、時の台湾総督の児玉源太郎の要請で台湾民政局長に就任となりました。
その為の後任として声が掛かったのが、長谷川泰です。
長谷川泰は、官吏という立場が肌に合わずその要請に辟易としていましたが、後藤新平は内閣総理大臣「伊藤博文」を通して更に懇願。
ついに難物長谷川泰を口説き落としたのでした。

親友の石黒忠悳も懸念した通り、内務省衛生局長の任務は困難を極めましたが、このことが国内初の「下水道法」の成立につながります。
【泰先生メモ22】済生学舎の開校 [2010年08月27日(Fri)]

明治8年(1875)2月。
東京に変えると間もなく、新居を構えた本郷元町1丁目に、長谷川泰は「済生学舎」を構えるための準備を始めたのでした。
その時、私塾経営の先輩である親友・石黒忠悳に相談をしています。

「済生救民」(広く民衆を済う)の志の元に、目指すところは「西洋医の早期育成」。
これは日本の医療を整備し民衆の健康を守るための急務であり、明治政府も西洋医の大量育成を叫びました。
一方で、明治7年発布の「医制」により医業への新規参入は「医術開業試験」通過の免許制と定められる〜そういった時代背景がありました。

その頃、長谷川泰に弱者救済の心を教え一足先に野に下っていた佐藤尚中は、明治浅草に「済衆舍」という西洋医学校を作っていました。師が目指すのも西洋医の早期育成・民衆の身近にある開業医の充実です。
その2年後、学校は軌道に乗り、湯島に新病院を開設したその翌日のことでした・・・・佐藤尚中は、突然の病に倒れます。

それは奇しくも、長谷川泰が「済生学舎」開校の申請を行なった直後、明治8年の4月のこと。
順天堂三代目の佐藤進がドイツ留学(医師として日本初のドイツ留学者)から駆け戻るほどの重病。
そして長谷川泰や佐倉順天堂の医師が看護に当たりましたが、尚中の健康は思う様に回復せず。

病床の佐藤尚中は、100名に及ぶの有能な弟子たちの中から、志の継承者として長谷川泰を選びます。
かつて、婿養子として順天堂を任せようとまで見込んだ長谷川泰。尚中先生の胸中にも熱い物があったことでしょう。
こうして、佐藤尚中の済生の志は、済衆舍の門下生ごと、弟子の長谷川泰へと引き継がれる事になりました。
翌明治9年(1876)4月9日、「済生学舎」は東京府の正式な認可を受け、ついに開校します。


この頃、維新後の明治の世は泰平ならず、翌年には西郷隆盛の起こした士族反乱「西南戦争」が勃発、長谷川泰の親友石黒直悳、順天堂の佐藤進も軍医として参戦しました。
西郷隆盛は破れ終戦を向かえると、戦地の西方で大流行したコレラを帰還兵が持ち帰り、その経路にも感染が蔓延することに。
皮肉なことですが、戦争という社会の情勢からも、日本は西洋医の外科技術を必要としていたのです。



--明治15年7月23日、佐藤尚中は闘病のすえ55歳で亡くなりました。
その年初めには、校舎の移転拡張と付属病院の蘇門病院併設が完成し、済生学舎は発展の一途にあります。
尚中先生は、志を受け継いだ愛弟子の成功に満足しながら息を引き取られたのではないでしょうか。
「マンガ王国」新潟 [2010年08月26日(Thu)]

新潟県は「マンガ王国」と呼ばれる土地です。

新潟市の古町には、ドカベンの銅像が並び。
市内を走るバスが、犬夜叉や、るろうに剣心で飾られていたり。
新潟市立中央図書館は、「ほんぽーとマンガ大学」を開校しました。

水島新司さん、魔夜峰央 さん、高橋留美子さんなどなど、新潟出身の人気マンガ家は昔からたいへん多く、今では人口あたりのプロマンガ家率が、なんと全国一にまでなりました!

今や世界が注目する日本の「マンガ」は、新潟県の誇る貴重な文化財産なのです。

その漫画文化を支えてきたのが、25周年の歴史をもつマンガ即売会「ガタケット」です。
ガタケットは、マンガ描きの良き交流の場になっています。
創った作品を誰かに読んでもらい、その反応を糧にするという場が新潟県には長く存在しており、創作活動が活発化する良き土壌となっているのです。
その他にも、「日本アニメ・マンガ専門学校」や「にいがたマンガ大賞」を通じて、多くの若者がプロデビューを果たしています。

ガタケットは「OKAケット」として長岡でも開催されています。
長岡造形大学でも、本年から「マンガコース」が開設されましたね。


交通と通信の発達により、現在では在県でプロの作家活動をされるマンガ家さんも居られます。
新潟県のマンガ文化振興に、これからも増々期待です!


「ガタケットwebsite」
http://gataket.com/index.html

<今週末8/29に新潟市産業振興センターにて「第111回ガタケット」が開催>
来年は、御当地伝記マンガ「長谷川泰物語(仮題)」も参加したいと思っています!

「にいがたマンガ大賞」
http://www.niigata-manga.com/

<第13回にいがたマンガ大賞作品募集中!>

「日本アニメ・マンガ専門学校」
http://www.web-jam.jp/index.html


「長岡造形大学」
http://www.nagaoka-id.ac.jp/
キャラクター案「順天堂の人々」 [2010年08月25日(Wed)]

キャラクター案、佐倉順天堂の人々です。



上から

順天堂創始者の佐藤泰然先生の実子である「松本良順」先生は、江戸にあった医学所での師です。西洋の外科手術をいち早く取り入れ、戊辰戦争では幕府軍最高の軍医・典医として長谷川泰と共に従軍しました。

長谷川泰は20歳で千葉の順天堂へ入門し、その頃から幼名の多一に替わり「泰一郎」と名乗るようになりました。その名は「佐藤泰然」先生から一字頂いたものです。

養子で順天堂2代目の「佐藤尚中」先生が、長谷川泰の直接の師になります。「済生」の心は尚中先生から受け継ぎました。泰が生涯敬愛する医学の最大の師です。


順天堂の人々が若き日の長谷川泰に西洋医学者としての基礎を伝授し、そして順天堂に関わる人々の縁が、その後の活躍の基盤となったのです。
佐倉順天堂で重んじられたドイツ人医師フーフェランドの「医戒」(医師の義務)。そのの一節を長谷川泰が訳した『済生救民』が、自身の終生のテーマとなりました。

※当ブログ関連記事
「佐倉順天堂の泰一郎」
「動乱の江戸に学ぶ」
長谷川泰を語る会納涼例会 [2010年08月24日(Tue)]

長谷川泰を語る会では、納涼会を兼ねた例会でした。
今回もまた新規の参加者にお越し頂き、どんどん仲間が広がって行くことを喜んでいます!

新組地区の数ある町内、あちこちから人が集まって交流する。
新組地区は、河川に隔てられたり飛び地があったりする面積の広い地域なのですが、そんな中でとても良い交流の機会になっていると実感しています。
また、会話の中で先輩から郷土史の話題が持ち上がり、地域の皆に共有のルーツへの愛着が深められるというのは、同郷の偉人をテーマに集まるコミュニティならではの長所だと思いました。

そして、参加者には世代も性別も選びません。
歴史上の人物は、今を生きている全ての人たちの共通の先輩ですから。
分け隔てなく、楽しく語って行きましょう!


さて、会の議題は、9/20の「長谷川泰翁杯親善少年野球大会」【愛称/タイ-カップ】に集中しました。

※当ブログ関連記事
「長谷川泰翁杯親善少年野球大会」

日時:平成22年9月20日(祝)<予備日23日(祝)>
    8:00開会〜15:00閉会予定
会場:長岡市立新組小学校グラウンド

語る会会員の皆さんから告知が開始されると思いますので、当日は各地区少年野球チームの応援を宜しくお願いいたします!
キャラクター案「鈴木文台・良寛」 [2010年08月23日(Mon)]

御当地偉人マンガ「長谷川泰物語(仮題)」の、キャラクター案が上がってきました。
鈴木文台と良寛は、マンガに登場する中でも最も年代が古い人物。写真などは残っていませんから、肖像画を頼りに創作して行きます。

ちなみに、多一(泰先生)と寅太(外山脩造)が7歳頃に学んだ、耳取の青鬣館(せいりょうかん)の「井上五蔵」先生は、肖像画も見つかっていません。只今調査中なのです。



泰先生の師、長善館の鈴木文台先生と、良寛さんです。
良寛〜文台〜泰と受け継がれた越後の心のリレーは、当ブログの過去記事を読んでみてくださいね。

※当ブログ関連記事
「受け継がれる良寛の心」
福井町八幡社の夏祭り [2010年08月22日(Sun)]

長谷川泰先生の故郷、長岡市福井町では今日が夏祭り。
ブログ管理人は、お昼からの奉納舞を楽しませていただきました。
福井町の鎮守、八幡社は今月改築したて、ピカピカの本堂で初めて行なわれる奉納舞です。

※当ブログ関連記事
「八幡社の本殿遷宮遷座祭」
「福井町八幡社の上棟式(建舞)」
「福島町八幡神社の春祭り」(←福井町の奉納舞は、その昔福島町から伝わりました)
「筒場諏訪神社の春祭」(←ブログ管理人は新組町筒場諏訪神社の舞に参加)

八幡社の前では、待ちきれない男の子たちが出店で買った煙玉で遊んでいました。
きっと昔ながらの光景です。



本殿遷宮遷座祭に引き続き、本堂は今回もたくさんの地元の皆さんに囲まれていました。盛況です!
とても感心したのは、福井町八幡社の奉納舞には若い方の参加が多い事。
一人で何役もこなし、舞う出番でなくても笛を吹いています。
明治の中頃に起こり、戦争で若者が徴兵を受けた間も大切に守られた地元文化が、先輩から後輩へと受け継がれていることが感じられます。

奉納舞終盤の花形は「盆舞」。
両手にお盆を乗せて、軽快に飛び跳ねます。
手のひらからお盆が落ちない様に、前転、そして後転も!身軽でなければできない技です。
舞の最中にも観客から拍手喝采!
今年の演者は、ご婦人方の記念撮影攻めに合うほどの大人気です。



子どもたちのお楽しみは、やっぱりオカメとヒョットコ。
コミカルな演技もさることながら、その手から撒かれる縁起物のお菓子がお目当て。
本堂の四方へ向けて両手いっぱいのお菓子が撒かれて、奉納舞はフィナーレです。



最後は演者の皆さんと記念撮影。
改築に合わせて遠くから久しぶりに帰郷した方たちも、一緒に写真におさまって行かれました。
福井町八幡社の夏祭りは、集まったお客さんとの距離がとっても近い、和やかなお祭りだと思いました。
県外でこのブログをご覧の皆さんも、お祭りなどの際には、懐かしい新組地区へ是非お越しください。



以上、福井町の夏の風物のレポートでした。


さて、新組地区は大きく分けて「福井町」「百束町」「四ツ屋町」「大黒町」「福島町」「七軒町」「新組町」と別れています。
今日は、その中の四ツ屋町の天満宮でも夏祭りがありました。



お邪魔した時間には、本堂に氏子の皆さんが集まり、神主から祈祷を受けていました。
境内では町内会でバーベキューをしたり、射的のイベントがあったりで、親子連れがたくさん集まっています。
四ツ屋町の天満宮も、和やかな雰囲気の素敵なお祭りの様子でした。
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