• もっと見る

« 2010年06月 | Main | 2010年08月»
<< 2010年07月 >>
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の記事
月別の記事一覧
日別の記事一覧
話題の分類
新組ホワイトソックス勝利! [2010年07月31日(Sat)]

本日は悠久山球場で、第27回ライオンズクラブ旗争奪長岡市少年野球大会<A大会>として、少年野球チーム「新組ホワイトソックス」の試合がありました。





悠久山球場は、新潟アルビレックスBCや、ジャイアンツも試合をする球場です。
選手たちは広いスタジアムの中、伸び伸びはつらつとしたプレーを見せてくれました。





新組ホワイトソックスが、終始優勢に試合を進めつつも、点の取り合いの気の抜けない内容。
しかし、粘ったホワイトソックスは最終回の守備、ホームでのクロスプレーでゲームセット!
第1試合を勝利しました。

9月開催の「長谷川泰翁杯」に向けて、チームは好調です!





※長岡の偉人縁の地域のチームが、長谷川泰先生の顕彰記念カップを巡って競う「長谷川泰翁杯野球大会(仮称)」の詳細は近日発表です。
 地元開催の予定ですので、新組地区の皆さん、また参加チームの周辺住民皆さん、どうぞ応援に駆けつけてくださいね。
映画「米百俵」 [2010年07月30日(Fri)]

映画「米百俵」小林虎三郎の天命



米百俵の逸話を題材にした映画が、中之島文化センターにて上映されます。
長谷川泰先生が生きた時代と重なるこのドラマ、泰の登場はありませんが、当時の様子を想像しながら鑑賞されてはいかがでしょうか。

病身を抱えて活躍した小林虎三郎は、長岡藩指折りの漢方の名医である長谷川宗済(泰の父)との交流がありました。
虎三郎の弟、小林雄七郎と長谷川泰は友人であり、東京でも交流を続けています。
即戦力の医師育成を目指し「済生学舎」で教育に力を入れた長谷川泰と、故郷長岡で教育を重視した政治を行なった小林虎三郎の姿勢には、共通点があるとも思われますね。

当ブログでは、この辺りのエピソードに重なります。
【泰先生メモ16】北越戦争に従軍【泰先生メモ18】故郷に決別

中之島文化センター(マナビィプラザなかのしま)にて
8/1(日) 9:30会場 10:00開演
入場無料、全席自由




中之島文化センターのイベント情報
http://www.shiteikanrisha.jp/nakanoshima-bunka/05.html
【泰先生メモ20】長崎「栄転」 [2010年07月29日(Thu)]

当時の医の枢軸にあった大学東校(東大医学部の基礎)時代の長谷川泰は、石黒忠悳と共に校長の相良知安を支えて良く働きました。相良は順天堂の先輩でもあります。
その時、学内の英学派閥と独学派閥の対立があり、ドイツ人教師の採用を推す相良の指揮の元で強硬に戦っています。
授業妨害が起こるなど学内は大変混乱しましたが、薩長出身者が推したイギリス人教師ウィリス(戊辰戦争では新政府軍軍医として東北まで従軍)の処断に西郷隆盛の理解協力もあり、この事があってから、以降日本はドイツ式の医療に傾いたのでした。
医療に化学的な検証を取り入れたドイツの医学は、世界の最先端にありました。


やがて、佐倉順天堂時代の師である佐藤尚中が校長に就任すると、生涯の師と尊敬する人物の元で教鞭を振るうことに、長谷川泰の喜びはひとしおだったのでは無いでしょうか。

しかし、明治5年(1872)佐藤尚中は、政府から派遣されたミュレル、ホフマンなる2人のドイツ人医師たちと授業制度をめぐって対立し、校長を辞任してしまいます。
対立の理由は、尚中が望んだドイツの大学の自由主義教育が実施されなかったことです。
軍医であるドイツ人医師たちは、科目の選択を許さない軍隊式の厳格な教育を採用しました。
さらに、不足する西洋医の早期育成に心血を注いでいた尚中に対して、ドイツ人医師たちは年数を掛けたエリート教育を導入しようというのでした。

野に下る尚中が後事を託したのは、娘婿にしようとまでに気に入っていた長谷川泰でした。
こうして、一時的にではありますが、長谷川泰は30歳にして校長の要職に就くことになります。(佐藤尚中と相良知安の代役の1ヶ月間)

<注釈>
この頃の学校制度は安定しておらず、短期に何度も解体再編制が繰り返されており、大学東校(相良知安校長)は、東校(佐藤尚中校長)、第一大学区医学校(長谷川泰校長)、東京医学校(長与専斎校長)と、次々に再編成・改称されて行きました。

さらに波乱は、長谷川泰自身にも及びます。
文部省との対立が元で投獄されていた相良知安(冤罪であったとされます)は、校長に復任した後も、その激しい性格から再び政府と対立します。
相良知安の補佐役として腕を振るっていた長谷川泰も、同じく真っ直ぐ過ぎる程の性格でしたから、相手には大変畏れられていたことでしょう。味方に付けると頼もしく敵に回すと厄介という典型の様な人物です。
この時、相手方の大将つまり文部卿は、なんと「維新三傑」の桂小五郎、改め木戸孝允でした。

そして長谷川泰に突如の辞令が下ります。
当時の台湾進軍の際、陸軍戦時病院にあてるために「既に廃校が決まっている」長崎医学校の校長に昇任されたのでした。
再び校長職に就いたわけですが、これは仕組まれた失脚策です。次期校長には既に順天堂の人脈では無い長与専斎(適塾出身)の任命が決まっていました。

(後年、長谷川泰は長与専斎の下水道推進に同調し、大日本私立衛生会では同志として活動します。長与専斎は日本公衆衛生の先覚者であり、「衛生」という言葉は彼が考え出したと言われています。)

腹を立てた泰は、それでも転んでも只では起きません。
廃校まで放っておけば軍備に回収される長崎医学校の最新設備を、校長権限とばかりに洗いざらい愛着ある古巣・東京医東校に寄贈し、仲間の教師たちから喝采を受けています。
上杉謙信の故事「敵に塩を送る」・・・でしょうか?敵方の長与専斎もこれには喜んだことでしょう。
この事は医学教育の発展について私心の無い事の現れであると、「長谷川泰先生小伝」でも評価されています。

明治7(1874)8月27日に長崎医学校学校長に任命され、同年10月19日にあっという間の解任。
長谷川泰は全ての公職を返上すると、結婚間もない柳子婦人と西国巡りの新婚旅行を楽しみながら、悠々と東京へ向かったのでした。
生涯ただ1度の、夫婦水入らずでの旅行だったといいます。


翌年春、東京に戻った長谷川泰は、本郷に居を構えました。
すると、ゆっくりする間もなく学校設立の準備に取り掛かります。
野人と呼ばれた熱血の教育者が野に放たれた時、日本初、私立による西洋医師の速成校『済生学舎』の息吹は上がっていたのです。
長岡新聞での連載完結! [2010年07月29日(Thu)]

長岡新聞『知性を巡る旅』で連載されてきた『郷土が生んだ先覚者「長谷川泰」と下水道』が本日7/29号をもって完結しました。

著者の西片正栄さんは、長年を長岡市の土木・衛生に関わって来られました。
長谷川泰の下水道に対する先見性を、現場で体感してこられたのだと思います。
西片さんがライフワークのように研究された長谷川泰の研究史料は、人物の伝記のみならず、
長谷川泰の活動が、実際に行政の衛生事業にどのように結び付いたのまで言及されている、貴重な資料です。

同郷の偉人への尊敬と愛着を込めて書かれた、3ヶ月に渡る長い連載でした。
ぜひ、連載を1回からまとめて読み返してみられる事をお薦めします。
西片正栄さん、ありがとうございました。


お問合せ先「長岡新聞」
http://www.gate-nagaoka.com/nagaokashinbun/
【泰先生メモ19】官職を辞す [2010年07月28日(Wed)]

少々脇道に逸れます。

明治5年(1872)長谷川泰は、東京で外山脩造を訪ねています。
その頃、外山脩造は大蔵省で官吏を務めながらも、退屈の極みにありました。
押印課での超多忙かつ日々単調な記帳業務では、脩造の能力を活かすにはあまりに不足だったのです。
脩造は我慢ならずこの公職を辞するつもりでいたのですが、周囲は大反対。
そこで、脩造の妻に頼まれて説得に借り出されたのが長谷川泰でした。
幼い頃から気心の知れた学友であり、戊辰の戦友でもある、長谷川泰の説得は功を奏しました。
大蔵省に残った脩造は、すぐに本来の力量を発揮出来る職に着任、みるみる出世をして行きました。
「寅太」と「多一」の、ちょっと良いエピソードでした。

ところがです、その後わずか2年足らずで、当の長谷川泰が公職から降りて野に下ってしまいます。
官立学校で校長に就任するまでになり、活躍を見せていた矢先の事です。
本人の意図せぬ事情もあったことですが、実に、一本気で短気な長谷川泰らしいお話ではあります。


UX新潟テレビ21で外山脩造の特番を放送!(2010年9月13日 月曜19:00〜放送予定)
越後・維新の物語「鉄と麦と赤レンガ 〜河井継之助と外山脩造 志のリレー〜」
http://uxtv.jp/info/echigo/


長谷川泰官職辞任の顛末は、次回更新の【泰先生メモ20】へ続きます。
【泰先生メモ18】故郷に決別 [2010年07月28日(Wed)]

長岡の両親を、弟の順次郎と、父・宗済の門下生に任せ、東京の大学東校で教師として再スタートを切った長谷川泰。
大学東校は医における日本の大学教育の始まりです、若くしてその中心に立ったのでした。
そして28歳、上京の翌年には早くも、大学校大助教・文部大助教に昇任。
初の訳書「脚気新設」も出版され、いよいよこれから・・・・・・・・その矢先に、越後から訃報が飛び込みます。


明治3年(1870)9月、泰に医師としての道を示した、父、長谷川宗済が亡くなり、そして同年に母も相次いで亡くなったのです。

敗戦の賊軍との差別を乗り越え、必死の努力で東京に立身の礎を築き始めていた泰は、ここで決断しました。
それは、自分が家長となった長谷川家を福井村から引き揚げることです。

「長谷川泰先生全集」には、この時に泰の心情が以下ように記されています。
泰の先祖、福井村の創始者である長谷川利右衛門から数えて父宗済まで、長谷川家10代300年余りに渡る数多くの思い出を振り切っての決意であった。

戦争の動乱の中にも潰えること無く、むしろ傷付き倒れてゆく人々を目の当たりにして、より強く燃え上がった医の志を、曲げることはできなかったでしょう。
故郷を離れることは、不退転の決意の表れでした。

この時長岡からは、弟の長谷川順次郎、石黒宇宙治、山崎元脩はじめ宗済の門下生たちが、泰に従い大学東校に入学しました。
彼等は後の済生学舎において中心人物として活躍し、泰を助けて行きます。

福井村の長谷川家のその後は、親戚の長谷川虎三郎に託されました。
その息子、長谷川家13代「亀之助」は、泰の援助を受けながら成長し、医学博士の学位を得ます。
戦中には台湾で病院長を務め、任を逐えて福井村に帰った際に、医院の開業のために用意された建物が今も福井町に残っています。
後に長岡中央病院の院長を務めた長谷川亀之助は、村民からも尊敬される穏やかな人物でした。
済生学舎と長谷川泰 [2010年07月28日(Wed)]

「済生学舎と長谷川泰」

著者の唐沢信安さんは、済生学舎を源流とする日本医科大学を卒業された医学博士です。
長らく長谷川泰を研究されており、長谷川泰の第一人者と言える方です。

この書籍は、長岡郷土史などでの連載をまとめて編集されたものです。



先日の「長谷川泰に親しむ会」で講演をして頂いた長善館史料館吉田勝館長のお話では、唐沢先生は80歳を超えられてなお、日本医科大の教授陣を集め長谷川泰の教えを伝えられているそうです。
そして教授陣からは若い学生たちにも教えられています。

長谷川泰を語る会のメンバーであり、生家跡に住んでおられる長谷川泰行さんや、長谷川泰を語る会発足の切っ掛けとなる沢山の史料を提供いただいた、見附市智徳寺の住職の元にも、東京から熱心に取材に来られたそうです。


「済生学舎と長谷川泰」のあとがきから、たいへん感動的な文章を引用させていただきます。

・“泰は、郷里長岡市郊外の静かな村、福井の里を「桃源郷」に見立て、仙人の住む所と考え、仙人達に会う為には、今日迄の一切の怨念を忘れ、子供の様な心境で理想郷の福井村に帰りたいと、詩文の中で書き残している。(杉立義一先生所有の詩による)”

長谷川泰先生の功績を、泰先生が愛した故郷に再び刻めるように、私たちも頑張って行こうと思います。
【泰先生メモ17】教師として再起 [2010年07月28日(Wed)]

戊辰戦争は終結し明治維新が達成されたものの、世の中は未だ平静に戻るには至りませんでした。
明治2年(1887)戦火で荒れ果てた長岡。
敗戦の傷心を抱えながら、再起の機会を待っていた泰一郎の元に、遂に一通の手紙が届きました。
(泰一郎は、片貝の石黒忠悳の元に両親と共に身を寄せていたか、それとも福井村の復興に当たっていたでしょうか。)

手紙は、佐倉順天堂で友人だった相良元貞からでした。
その手紙の内容は、相良元貞の兄の相良知安(佐賀藩出身)が新政府の元で立ち上げた「大学東校」(東大の基礎)で、泰一郎にも教師に着任をすることを奨めるものでした。

こうして再びチャンスを得た泰一郎は、「長谷川泰」と名を改め、東京で教育者として新たなスタートを切ります。27歳でした。

この時の大学東校の教師には、親友の石黒忠悳(恒太郎)の姿もあります。自書の出版の為の上京から、そのままの大学東校着任となりました。
「賊軍」と蔑まれた敗戦者が中央で活躍するには、薩長との交流の深い石黒の力添えもあったかもしれません。
また、明治政府の方針「文明開化」に必要となる人材は旧幕府の出身者に多く存在しました。その中での経験が、長谷川泰を立場を超えて新政府に必要とされる人材に育てたのでしょう。
こうして長谷川泰の少年時代からの勤勉とその成果が、いつの日か彼の周囲に、立場の壁を超えた多くの同士を生んでいたのでした。

<こぼれ話>
大学東校校長・相良知安は気性の激しさでも知られ、学内の英学派閥と独学派閥の対立では、ドイツ人教師の採用を推して強行に戦っていました。
その先兵を務めたのが長谷川・石黒のコンビであり、イギリス人教師の追い出しを図り授業を妨害するなどの「活躍」を見せています。これが英学を推す土佐藩出身者の面子を潰す事になってしまいました・・・。
二人とも未だ血気盛んな20代でした。
「多一少年」キャラクター案 [2010年07月27日(Tue)]

長谷川泰先生の少年時代、多一少年のキャラクター案が届きました!



4歳で患った赤痢が元で病弱だった多一ですが、7歳で私塾青鬣館(せいりょうかん)に通う頃には塾一番のがき大将になる程の元気者でした。
そんな雰囲気が、なかなか良く出ていますね。

絵は製作中のイメージですので、取材の進行と共に変わって行く事もあります。
入沢記念庭園 [2010年07月27日(Tue)]

長岡市中之島西野にある、入沢一族と池田謙斎生誕の地、入沢記念庭園を訪れました。

中之島村の入沢一族は、日本の医学界のために大きな功績を残しています。
入澤恭平は、戊辰戦争では新政府軍の軍医として奥羽まで従軍しています。
池田謙斎(入沢圭助、津和野藩の池田玄仲の養子になる)は、明治天皇の侍医となり、日本初の医学博士となった人です。 
その甥の入沢達吉は、東京帝大(現東京大学)の医学部長となり、大正天皇の待医頭を務めています。
一族で歴代天皇の侍医を務めた医の名門「入沢家」。そのルーツがこの越後の小さな集落にあります。



入沢家の土蔵を改装した資料館と、顕彰碑が並ぶ立派な庭園跡。
ベンチなども設置されて、地域の方の憩いの場となっている様子です。



資料館には入澤恭平、池田謙斎、入沢達吉の年譜が展示されています。

資料館内で購入できる池田謙斎の回顧録には、松本良順の指揮する幕府西洋医学所の後輩として、長谷川泰や石黒忠悳の名前も記されていました。
池田謙斎は長谷川泰の1歳上の同年代であり、明治の衛生に対する取り組みで協調することもありました。
明治21年(1888)池田謙斎が第一号の医学博士の栄誉を授かった際に、候補として名を連ねたのが長谷川泰でもありました。(泰は自ら辞退してしまいました。)

入沢達吉の属した東京帝大「赤門派閥」と長谷川泰とは、明治31年「医師会法案」等を巡り、しばしば政治的に激しく対立をしています。
しかし、長谷川泰は「俺の様な者が詩など作れるか?」と言いながらこっそりと嗜んでいた漢詩を、他の誰にも読ませないというのに、生涯の親友の石黒直悳と、文才のある入沢達吉にだけは読ませたというようなエピソードも残っています。
また、入沢逹吉は一時期済生学舎の講師を務めました。その頃の泰の自宅訪問客には、入沢だけに特別待遇でお菓子が出されたと言います、相当な可愛がり様だったのではないでしょうか?
その入沢が長谷川泰について語る時には「初めは褒めても、終いには必ず悪口になる」という、二人の微妙な間柄を示すとても面白い言葉を残しています。
泰の没後、全国の関係者から募った銅像建造金の寄付はを入沢だけが頑として拒んだそうです・・・実に興味深い関係です。
(泰生涯の同志、石黒宇宙治が銅像建造について「泰翁の性格なら本来望まないでしょう」との内容を述べていますが、入沢も同じ想いだったというのは空想的過ぎるでしょうか。)
入沢の長谷川泰(済生学舎)批判の動機には、当時の権力者山縣有朋を中心とする藩閥政治の影響も大きいと考えられます。

いずれにせよ、奇人の名声を鳴らした長谷川泰と肩を並べて付き合った人物たちは、皆大物であったのではないかと思われます。

入沢逹吉によれば、隣村の名医である長谷川宗済(泰の父)の名声は良く耳に入っていたそうです。


入沢記念庭園(長岡市観光課)
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/kouen/irisawakinen.html




オマケです。



入沢記念庭園前に設置された西野地区の案内図は、なんだか楽し気です。
てっぽう町、やっちぇ町、のんべえ町?
昔からの地名なのでしょうか。
| 次へ
Google

Web全体
このブログの中
http://www.pecope.com

ジオターゲティング