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懐旧九十年 [2010年06月30日(Wed)]

「懐旧九十年」



長谷川泰と互いに認め合う生涯の親友、石黒忠悳の自伝です。

長谷川家とは家族ぐるみの親交があった事や、江戸幕府西洋医学所では松本良順の元で学友として交友を深めた事、明治政府の官吏としても肩を並べて活動した事が等々が記されています。

戊辰戦争においては参戦をせず時勢の俯瞰に努め、後には帝国陸軍軍医総監にまで登り詰めた石黒忠として従軍し敗戦、後の人生では戦争と距離を置き医師の育成に熱意を注いだ長谷川泰。
部分的には大きく異なる思想を持ったと思われる二人が、一方で同士として永く友情で結ばれていたというお話は、とても興味深いですね。


当ブログ関連記事「押切開駅之碑」
https://blog.canpan.info/taisensei/archive/64
JIN-仁- 村上もとか [2010年06月29日(Tue)]



今年始めのドラマ化で話題を集めた「JIN」。
この物語の舞台は、長谷川泰が生きたのと時を同じくしています。
主人公の南方仁は、現代の東京の大学病院で脳外科医局長を務めています。
しかし、なんらかの理由で幕末の江戸にタイムスリップしてしまったのでした。



第2話の終わりで南方仁は、自分がたどり着いた時代を知ります。
それは1862年、文久2年、夏。
史実ではその頃、長岡藩領福井村の長谷川泰が、西洋医学を志して千葉の佐倉順天堂へ向かおうとしています。

坂本竜馬や新撰組が活躍し、松本良順ら長谷川泰ゆかりの人物も登場するJIN-仁-、今後の展開によっては若き洋方医「長谷川泰」も登場するかも??

また、南方仁は西洋医学と漢方医学の間に立って両者を繋ぐ様な役割を演じています。
長谷川泰は漢方の名医を父に持ち、自ら創設した「済生学舎」では、漢方医たちにも明治の世の中に求められた西洋医学を教授しました。
フィクションと実在の人物ですが、二人の共通点などが、伝記マンガ作りの参考になるかもしれません。
長谷川泰を語るスライド [2010年06月28日(Mon)]



長谷川泰を語る会の活動用にスライドDVDを作りました。
長谷川泰の紹介をするのに、パンフレット等は現在一般向けに制作されてはいません。
では本を読もう、といってもなかなか時間が取れない!
という方にも、このDVDなら17ページで泰先生の概要を知っていただけます。




内容は、主な業績、時代背景、キーワード、長岡藩の有名人との関係など。
短く簡潔に書き出しています。
マンガが出来るまでの認知アップには、これを活用します。

(会のメンバーが勉強するための内部資料ですので禁複製です)
マンガの打合せ [2010年06月27日(Sun)]

6/26土曜日、新組地区コミュニティセンターにて、長谷川泰先生のマンガ制作の打合せが行なわれました。

打合せでは、マンガ担当からプロット(あらすじ)の発表があり、これに長谷川泰を語る会の郷土史に詳しいメンバーの意見を伺って行きました。
泰先生と、長岡藩の有名人たちとのやり取りに、今からドキドキします。
以前の取材でも、元市下水道課の西片正栄さん、長善館史料館の吉田館長、河井継之助記念館の稲川館長、皆さんに言われたように、故郷の優れた人物が先輩となって、長谷川泰の人物像が作られた事に注目です。

今回は、語る会マンガ担当の紹介で、関東からプロの漫画家さんと装丁家さんにもご同席いただきました。
マンガ制作にはいかに大きな労力を必要とするという、プロの経験からの話題には身が引き締まる思い・・・。
良い作品を残すには、制作期間を延長の見直しが必要がありです。
また、マンガという「楽しい」メディアが、子どもたちとのコミュニケーションにはとても意味があるというお話に、勇気を得ました。
なんと言っても新潟はマンガ先進県、文化振興の意味でもかんばります!

マンガ制作は引き続き、実際のコマ割りを想定しながらセリフを考えて行く、「ネーム」という作業に入って行きます。
長谷川家の墓前に挨拶 [2010年06月26日(Sat)]

本日は見附にある長谷川家の菩提寺、智徳寺のお墓へご挨拶に出掛けました。

長谷川家の墓所は、奇麗に苔むした敷地に代々のお墓が並んでいます。
ブログ管理人が、長谷川泰を語る会発足時にお参りした後にも、また花が供えられた様子があり、たいへん大事にされている様子でした。

今回は、漫画制作の打合せの為に、関東からお越しいただいたプロの漫画家さんの声掛けでの訪問でした。
歴史に関わる作品を作る際には、故人への挨拶は欠かされないそうです。
とても大切な心がけだと感心しました。
長谷川泰先生のマンガも、歴史好きなスタッフの皆さんの力をお借りして、良い作品にしたいと思います。
【長谷川泰先生の年譜】 [2010年06月22日(Tue)]

【長谷川泰の年譜】
戊辰戦争での従軍から、医学者として「済生学舎」の創設、政治家として「下水道法」の成立させるなど、長谷川泰先生の主な歴史をまとめました。

長谷川泰先生のエピソードは、【泰先生メモ】で随時更新して行きます。
https://blog.canpan.info/taisensei/category_4/



1842(天保13)越後長岡藩領福井村に生まれる。幼名は多一。

1848(嘉永年間〜)<6歳ころから>隣村耳取の私塾「青鬣館」で学ぶ。同い年の塾生には外山脩造(寅太)。

〜河根川の漢学塾「菁莪学舎(せいががくしゃ)」で学んだ形跡もあり。〜
〜さらにこの頃の短期間、江戸で坪井芳洲(薩摩出身)に蘭学を学ぶ。〜

1856(安政3)<14〜15歳>長岡領粟生津村の漢学者鈴木文台の「長善館」で学ぶ。

1860(万延1)<18歳〜>外山脩造の紹介で河井継之助と出合う。長岡藩士鵜殿団次郎に蘭学、英学、数学等を学ぶ。

1862(文久2)<20〜23歳>佐藤尚中の元、「佐倉順天堂」で学ぶ。

1866(慶応2)<24歳〜>江戸へ出て、薩摩藩英学塾で学ぶ。松本良順のもと、江戸幕府西洋医学所で学ぶ。

1868(慶応4)<26歳>戊辰戦争/長岡藩家老河井継之助から軍医に抜擢され従軍。

1869(明治2)<27歳>再び上京。大学東校で教師を務める。

1870(明治3)<28歳>文部大助教昇任の年、父母が死去。福井村の長谷川家を親戚筋に託す。

1874(明治7)<32歳>松山藩士の娘、柳子と結婚。長崎医学校長「左遷」を期に官職を全放棄。

1876(明治9)<34歳>西洋医の早期育成を目指す私立医学校「済生学舎」を、東京府本郷に開校。(やがて明治の西洋医の半数を輩出する有名校となる。)

1877(明治10)*西南戦争起こる。

1879(明治12)<37歳>済生学舎全焼により、自宅隣に校舎移転。コレラの大流行。

1882(明治15)<40歳>湯島の千坪の土地に校舎を拡張。

1883(明治16)<41歳>長与専斎、石黒忠悳、後藤新平らと「大日本私立衛生会」結成。

1885(明治18)<44歳>済生学舎女子学生受入れ開始。長男保定生まれる。

1889(明治22)<47歳>済生学舎に吉岡弥生が入学、女学生のリーダーに。

1890(明治23)<48歳>森鴎外の済生学舎批判。第1回衆議議員総選挙当選、日本初の国会議員に。

1892(明治25)<50歳>新潟県古志郡から立候補し、衆議院議員再選。東京市会議員兼任。

1893(明治26)<51歳>衆議院で北里柴三郎の伝染病研究所設立の支援演説。

1894(明治27)<52歳>新潟県古志郡から立候補し、衆議院議員に3期連続当選(以降立候補せず)。*日清戦争起こる。

1896(明治29)<54歳>野口英世が済生学舎に編入し、細菌学を深める。

1897(明治30)<55歳>大日本私立衛生会にて「町の中の金山を掘れ」の1時間に渡る演説。

1898(明治31)<56歳>内閣総理大臣伊藤博文の要請があり、後藤新平を引き継ぎ内務省衛生局長就任。

1900(明治33)<58歳>初の「下水道法」成立。

1903(明治36)<61歳>専門学校令発布により、済生学舎廃校。

1904(明治37)*日露戦争起こる。

1912(明治45/大正1)<70歳>3月11日、大腸腫瘍で死去。

1916(大正5)湯島神社敷地に、長谷川泰の銅像建立。

1924(大正13)長岡市で全国でも極めて稀な上下水道同時の整備事業が開始。(第1期事業)
長谷川泰を語る会<定例会> [2010年06月20日(Sun)]

昨日は「郷土の偉人 長谷川泰を語る会」の定例会が開かれました。
(長岡市に届け出している正式名称は「郷土の偉人 長谷川泰を語る会」です。)

皆さんお忙しい中ですが、初めての参加者の方を含め20名程にお集り頂いき、
理事長からは活動報告や今後の展望などの話がありました。

新組小学校からも学校長にお越し頂き、学区の皆さんにはどのように親しんでいただいたら良いかのアドバイスを頂きました。
新組小学校は、地域のお年寄りと生徒との交流がたいへん盛んな学校だということです。
一緒に花壇の整備をしたり、サツマイモが穫れると学校にお招きして食事会をしたり、お互いに楽しんでいる姿をお話して頂きました。
こんなふうに、新組小学校が世代の架け橋となっている事は、地域の歴史や文化を伝えて行く事にとって、大きな助けになっていることと思います。




これはまだ決定事項ではないのですが〜〜〜
長谷川泰を語る会と有志のご協力で、花火を…打ち上げる…かも???
【泰先生メモ14】佐倉順天堂の泰一郎 [2010年06月19日(Sat)]

文久2年(1862)長谷川泰一郎、20歳。
千葉の佐倉藩の蘭方医学塾「佐倉順天堂」に舞台は移ります。
佐倉順天堂といえば、当時大阪にあった緒方洪庵の「適塾」と並ぶ蘭学の名門でした。

順天堂に入塾した多一は、創設者である「佐藤泰然」から1字を頂き、「泰一郎」と名乗るようになりました。
佐藤泰然は多一が入塾するのとすれ違うように、神奈川へ隠居をしています。
泰然との交流があったとしいても、僅かな時間なのでしょうが、多一が改名するに至るような何か濃密な交流があったのではないでしょうか。

泰一郎の師は、佐藤泰然の跡を継いだ「佐藤尚中」です。
佐藤尚中は佐藤泰然にその才能を認められ、養子として2代目となりました。
泰然の実子には、幕府付けで高名な西洋医の「松本良順」が居るのですが、これは泰然が封建的な世襲の弊害を嫌ったからだそうです。
また、松本良順(旧名・佐藤順之助)が有力家へ養子に出る事は、順天堂の目指す医業を世に広める役割も果たしました。

順天堂の門人帳には41名中、筆頭に近い5番目に長谷川泰一郎の名前があります。
その巻末には、佐藤尚中の言葉で「原書(オランダ語の教科書)による学問だけではなく、医術の実技が伴わなければ評価しない」と記されており、そこからは順天堂の当時の医学界での先進性と共に、泰一郎の自身の能力の高さが伺えます。

佐藤尚中先生は、医学生として優秀であるだけではなく気骨もある泰一郎を、「娘と結婚させて養子に」と考えるほど認めていました。
そして何よりも、尚中が重んじたドイツ人医師フーフェランドの「済生」(広く民衆を救う)の心は、泰一郎が越後で育んだ良寛の「慈愛の心」と合致するものであり、尚中は志を一つとする泰一郎が可愛いかったのだと言われます。

(しかし、尚中先生の長女、志津子さんには意中の美男子があって、可哀想に泰一郎はふられてしまいます・・・。)
(その美男子とは、志津子の従兄の高和介石であり、後に順天堂3代目「佐藤進」を名乗ります。)

松本良順は、泰一郎が順天堂を出た後に幕府の「医学所」での師となります。
戊辰の戦乱を控えたその時、良順は軍陣医術(外科手術)を教えており、泰一郎はそれを習い長岡藩に従軍しました。
松本良順自身も、幕府の医師のトップとして参戦しています。
北越戦争では、負傷し只見へ逃れた河井継之助の看病のために、会津若松から駆けつけました。
継之助は「久しぶりに豪傑の顔を見た」と感心し、土産の「牛のたたき」を喜んで食べたというエピソードが有名です。

佐藤尚中は、長谷川泰の人生で最大の師と言うべき人で、2人の師弟関係は尚中が亡くなるまで親密なものでした。(後にまた詳しく書きます。)
後に東京の順天堂医院の院長となった佐藤進は、済生学舎の生徒のために実習室を開放しています。
相良知安、相良元貞、司馬凌海などとも協力が続きます。
このように、佐倉順天堂ゆかりの人物たちとの親交は、長く長谷川泰を助けました。
ブログ告知ツール [2010年06月18日(Fri)]



「長谷川泰を語る会」の告知用に、カードと、新たにDM(葉書)を作りました。
これらを使って県外在住の方にも、積極PRして行きたいと思います。

ご近所や、県外の家族友人に配布してくださる方が居られましたら、
「長谷川泰を語る会」までEメールでお問合せください。
taisensei@me.com




余談ですが。
先日、お隣の学区、黒条小学校出身の20代の方と長谷川泰先生の話をしていました。
郷土の歴史や人物に興味がある方は、話してみると若い世代にも案外多いものだから、活動に協力したいと言っていただけました。
郷土史の話題というのは、日常ではなかなか持ち上がってこないものですが、
そういった席を設けてみる事で、盛り上がりを見せるのかもしれないと思いました。

印刷業のある社長さんを訪ねた時には、子どもの頃から故郷の偉い人の努力と実績を教えてあげることで、将来の優れた人材が地元に根付く切っ掛けになるでしょうというお話になりました。
長谷川泰の様な名物教師が居ると楽しいねという話題も。

近隣各地での取材の際にお話をさせて頂いても、こんな大きな業績のある人物が居たとは知らなかったと、皆さん驚かれます。
泰先生が創設した「済生学舎」のあった文京区本郷、その卒業生である野口英世の生地猪苗代など、県外からも関心を寄せて頂けています。

将来は、新組地域を超えて、広く泰先生に親しんでいただければ嬉しいと思っています。
みんなの読み物長善館 [2010年06月18日(Fri)]



こちらは、長善館史料館で販売している「みんなの読み物長善館」です。



イラストは地元吉田町の小学生の皆さんが描いたものです。
故郷の歴史に親しむ雰囲気が伝わってきて、とても素晴らしいですね。
長谷川泰先生も、新組地区の子どもたちからこんな絵本を描いてもらえるようになると良いですねー。



鈴木文臺先生と良寛の出会いから、長善館での学習の様子まで、絵本仕立てで分りやすくお話にまとめてあります。


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