【長谷川泰の年譜】
戊辰戦争での従軍から、医学者として「済生学舎」の創設、政治家として「下水道法」の成立させるなど、長谷川泰先生の主な歴史をまとめました。
長谷川泰先生のエピソードは、【泰先生メモ】で随時更新して行きます。
https://blog.canpan.info/taisensei/category_4/1842(天保13)越後長岡藩領福井村に生まれる。幼名は多一。
1848(嘉永年間〜)<6歳ころから>隣村耳取の私塾「青鬣館」で学ぶ。同い年の塾生には外山脩造(寅太)。
〜河根川の漢学塾「菁莪学舎(せいががくしゃ)」で学んだ形跡もあり。〜
〜さらにこの頃の短期間、江戸で坪井芳洲(薩摩出身)に蘭学を学ぶ。〜
1856(安政3)<14〜15歳>長岡領粟生津村の漢学者鈴木文台の「長善館」で学ぶ。
1860(万延1)<18歳〜>外山脩造の紹介で河井継之助と出合う。長岡藩士鵜殿団次郎に蘭学、英学、数学等を学ぶ。
1862(文久2)<20〜23歳>佐藤尚中の元、「佐倉順天堂」で学ぶ。
1866(慶応2)<24歳〜>江戸へ出て、薩摩藩英学塾で学ぶ。松本良順のもと、江戸幕府西洋医学所で学ぶ。
1868(慶応4)<26歳>戊辰戦争/長岡藩家老河井継之助から軍医に抜擢され従軍。
1869(明治2)<27歳>再び上京。大学東校で教師を務める。
1870(明治3)<28歳>文部大助教昇任の年、父母が死去。福井村の長谷川家を親戚筋に託す。
1874(明治7)<32歳>松山藩士の娘、柳子と結婚。長崎医学校長「左遷」を期に官職を全放棄。
1876(明治9)<34歳>西洋医の早期育成を目指す私立医学校「済生学舎」を、東京府本郷に開校。(やがて明治の西洋医の半数を輩出する有名校となる。)
1877(明治10)*西南戦争起こる。
1879(明治12)<37歳>済生学舎全焼により、自宅隣に校舎移転。コレラの大流行。
1882(明治15)<40歳>湯島の千坪の土地に校舎を拡張。
1883(明治16)<41歳>長与専斎、石黒忠悳、後藤新平らと「大日本私立衛生会」結成。
1885(明治18)<44歳>済生学舎女子学生受入れ開始。長男保定生まれる。
1889(明治22)<47歳>済生学舎に吉岡弥生が入学、女学生のリーダーに。
1890(明治23)<48歳>森鴎外の済生学舎批判。第1回衆議議員総選挙当選、日本初の国会議員に。
1892(明治25)<50歳>新潟県古志郡から立候補し、衆議院議員再選。東京市会議員兼任。
1893(明治26)<51歳>衆議院で北里柴三郎の伝染病研究所設立の支援演説。
1894(明治27)<52歳>新潟県古志郡から立候補し、衆議院議員に3期連続当選(以降立候補せず)。*日清戦争起こる。
1896(明治29)<54歳>野口英世が済生学舎に編入し、細菌学を深める。
1897(明治30)<55歳>大日本私立衛生会にて「町の中の金山を掘れ」の1時間に渡る演説。
1898(明治31)<56歳>内閣総理大臣伊藤博文の要請があり、後藤新平を引き継ぎ内務省衛生局長就任。
1900(明治33)<58歳>初の「下水道法」成立。
1903(明治36)<61歳>専門学校令発布により、済生学舎廃校。
1904(明治37)*日露戦争起こる。
1912(明治45/大正1)<70歳>3月11日、大腸腫瘍で死去。
1916(大正5)湯島神社敷地に、長谷川泰の銅像建立。
1924(大正13)長岡市で全国でも極めて稀な上下水道同時の整備事業が開始。(第1期事業)