長谷川泰先生の福井村でのエピソードを、想像を交えて書き出してみました。
・福井村の開祖「長谷川利右衛門」の子孫
織田信長の典医であった長谷川丹波の一族で、豊臣秀吉にも仕えた長谷川利右衛門は、大阪冬の陣で浪人し、慶長年間(1600年頃)当時の百束村に辿り着きます。
利右衛門は原野を開拓し、福井村を興しました。
長谷川泰は利右衛門から数えて11代目に当たります。
・長岡藩指折りの漢方医「長谷川宗済」を父に持つ
父、宗済は私塾長善館で学んだ後、長岡と京都に遊学、25歳で福井村に開業しました。
長岡藩士の名簿には、四人扶持の待遇であったと記録にあります。
多一少年は人の生死と人生模様を目の当たりにしながら感受性を育て、人を助ける父に倣い医の道を志しました。
・しみわたり
寒い寒い夜が明け、晴れた日の朝には、雪の上を歩ける程にカチカチに雪面が凍り付きます。
「しみわたり」は、今でも雪国の朝の楽しみです。
多一少年も田んぼの雪の上をしみわたりして、耳取の私塾青鬣館(せいりょうかん)まで通ったかもしれません。
・八丁沖
福井村からも八丁沖の広大な沼地が見渡せました。
八丁沖に住むという魔蛇の噂話は、子どもたちを震え上がらせていたことでしょう。
慶応4年(1868)7月、長岡藩軍医長谷川泰が26歳、八丁沖は戊辰戦争の戦場となります。
・八幡社の草相撲
福井村の八幡社では草相撲が神事として奉納されました。(昭和30年代まで続いたそうです)
負けん気の強い多一は強かったでしょうか?
・長岡瞽女
福井村には長岡瞽女の福井組親方「大平そよ」が居ました。
村の子どもたちは「ごぜさ」の昔話を、とても楽しみにしていました。
・戊辰戦争の戦場に
戊辰戦争の起こった慶応4年(1868)6月6日、同盟軍(東軍)の砲台のあった福井村は戦の最前線でした。
福井村の大半の民家は焼かれ、14名の村人が死傷されました。
村の小高い場所に有り立派な塀が巡らされていた長谷川家の屋敷は、長岡藩の基地として使われて全焼し、財産の全てを失うことになります。
・押切駅で村民の見送り
町の言い伝えとして残っていますが、いつごろでしょうか?