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偉人の業をしのぶ時 [2010年05月31日(Mon)]

長岡市立新組小学校の校歌の、2番目の歌詞を引用させていただきます。

〜十里田の面をうるおして
〜流れてつきぬ福島江
〜偉人の業をしのぶとき
〜努めて止まぬ心もて
〜われら続かんみなともに

これは福島江を築き、越後の土地を豊かに潤した「桑原久右衛門」を歌った詞です。
「偉人の業をしのぶとき、努めて止まぬ心もて」
同郷の先祖に、誇るべき業績を成し遂げた人物が居て、
その人物への尊敬と憧れが、日々努力する力になる。
新組小学校では今でも、生徒たちによる「桑原久右衛門」の劇が行なわれるそうです。

そしてここにもう一人、新組地区には「長谷川泰」という偉人が居た事を知ってもらいたいと思っています。
【泰先生メモ10】青鬣館に学ぶ [2010年05月31日(Mon)]

耳取(現在の見附市にある)の庄屋に生まれた井上五蔵は、19歳から長岡藩学校「崇徳館」で、当時の藩学(藩の奨める学問)である徂徠学を学びました。
大人になって父の跡を継いでは、村の治水と新田開発に力を発揮し、耳取村をまるごと引っ越すような大事業を成功させて、村民を豊かにした功労者です。

学問を大変好んだ五蔵は、晩年になって私塾「青鬣館」(せいりょうかん)を開きました。
それは、自らの屋敷を使っての開塾でした。

ここで学んだのが、後の長谷川泰である多一少年です。
6歳から14歳頃までの間、井上五蔵に漢学を学んびました。
同期には、後の外山脩造である寅太が居り、多一とは同い年の同級生でした。
二人共に晩年には漢詩を多く遺していますが、共通の学問の原点がここにあったと言えるでしょう。

この頃の多一は、幼少期の病弱を取り返すような腕白ぶりで、同学年の大将だったそうです。
対して寅太は、言葉少なく、仲間が茶飲み話をしていても、傍らで真面目に黙々と勉強に打ち込むタイプでした。

多一は青鬣館を出ると粟生津の長善館へ進み、庄屋の跡取りであった寅太は両親を説得し強い決意のもと、江戸に遊学します。


※当ブログ関連記事
「多一と寅太」
新組小学校の運動会 [2010年05月29日(Sat)]

今日は新組小学校の運動会。
朝までぐずついていた天気も、なんとか回復してくれました。
グラウンドには、お子さんやお孫さんを応援しようと、地域から大勢の方が集まっていました。



生徒たちは、皆とても楽しそう。
児童の体力が低下していると言われる昨今、新組小学校の生徒の体力テスト結果は全国の平均を上回ると聞きます。

運動会の第2応援歌といえば、伝統の「はちまんさま」 ですよね。
 〜八幡様の神主が
 〜おみくじひいて申すには
 〜今日の試合は
 〜紅(白)の勝っち勝ち!オー!勝っち勝ち!
ブログ管理人が知る範囲でも、30年以上続いているはず・・・いったいどれくらいの歴史があるのでしょう?

いざ出陣!紅組の騎馬隊が元気よく飛び出します!



玉入れは接戦を制して白組の勝利!



終始紅組がリードで進める中、終盤に追い上げを見せた白組。
競技の総合得点はなんと、507対507で、紅白の同時優勝!
今年は両チームが優勝旗を分け合いました。



新組小学校の運動会を締めるのは、長岡祭でもお馴染み「長岡甚句」です。
 〜ハァーエーヤー 長岡 柏の御紋(ハァヨシタヨシタヨシタヨシタ)
 〜七万余石の アリャ 城下町
保護者や町内の皆さんも交えて、輪になって踊りました。
地域コミュニティ事業補助団体に承認 [2010年05月28日(Fri)]

地域振興戦略部から、正式に通達をいただきました。
「地域の偉人 長谷川泰を語る会」は、長岡市の地域コミュニティ事業補助を受ける事となりました。

当面の活動はマンガの取材や資料調査。
そして、コミュニティセンターでの「長谷川泰先生に親しむ会」の開催や、このブログを含めて、多くの人から泰先生を認知していただく下地作りです。
よーし、より一層ガンバリます!
【泰先生メモ09】福井村の多一少年 [2010年05月27日(Thu)]

長谷川泰先生の福井村でのエピソードを、想像を交えて書き出してみました。

・福井村の開祖「長谷川利右衛門」の子孫
 織田信長の典医であった長谷川丹波の一族で、豊臣秀吉にも仕えた長谷川利右衛門は、大阪冬の陣で浪人し、慶長年間(1600年頃)当時の百束村に辿り着きます。
 利右衛門は原野を開拓し、福井村を興しました。
 長谷川泰は利右衛門から数えて11代目に当たります。

・長岡藩指折りの漢方医「長谷川宗済」を父に持つ
 父、宗済は私塾長善館で学んだ後、長岡と京都に遊学、25歳で福井村に開業しました。
 長岡藩士の名簿には、四人扶持の待遇であったと記録にあります。
 多一少年は人の生死と人生模様を目の当たりにしながら感受性を育て、人を助ける父に倣い医の道を志しました。

・しみわたり
 寒い寒い夜が明け、晴れた日の朝には、雪の上を歩ける程にカチカチに雪面が凍り付きます。
 「しみわたり」は、今でも雪国の朝の楽しみです。
 多一少年も田んぼの雪の上をしみわたりして、耳取の私塾青鬣館(せいりょうかん)まで通ったかもしれません。

・八丁沖
 福井村からも八丁沖の広大な沼地が見渡せました。
 八丁沖に住むという魔蛇の噂話は、子どもたちを震え上がらせていたことでしょう。
 慶応4年(1868)7月、長岡藩軍医長谷川泰が26歳、八丁沖は戊辰戦争の戦場となります。
 
・八幡社の草相撲
 福井村の八幡社では草相撲が神事として奉納されました。(昭和30年代まで続いたそうです)
 負けん気の強い多一は強かったでしょうか?

・長岡瞽女
 福井村には長岡瞽女の福井組親方「大平そよ」が居ました。
 村の子どもたちは「ごぜさ」の昔話を、とても楽しみにしていました。

・戊辰戦争の戦場に
 戊辰戦争の起こった慶応4年(1868)6月6日、同盟軍(東軍)の砲台のあった福井村は戦の最前線でした。
 福井村の大半の民家は焼かれ、14名の村人が死傷されました。
 村の小高い場所に有り立派な塀が巡らされていた長谷川家の屋敷は、長岡藩の基地として使われて全焼し、財産の全てを失うことになります。

・押切駅で村民の見送り
町の言い伝えとして残っていますが、いつごろでしょうか?
地域コミュニティ事業補助の申請 [2010年05月26日(Wed)]

本日、長岡市役所にて「地域コミュニティ事業補助」の為の公開プレゼンテーションがありました。
理事長の恩田を始め、会の中心メンバーとの計4人の参加です。

「長谷川泰を語る会」の事業としてアピールしたのは3点です。

「マンガ長谷川泰物語の制作」
 …学校へ寄贈。郷土の偉人を通して子どもたちに郷土愛を育んでもらう。

「長谷川泰翁杯親善野球大会の開催」
 …泰先生ゆかりの学区で試合。毎年の開催で偉人の業績を伝え続ける。地域間の交流を持つ。

「長谷川泰顕彰モニュメントの建設」
 …泰先生の功績を知っていただいた後は、助成とは別に寄付を募り、生地に記念碑(できれば銅像)を建設し、後世に伝える。

当会理事長は、もの凄い熱意で終始喋りまくっておりました。
地域の公益に適うプロジェクトであるという自信は持っております!
さて、私たちの気持ちが届くでしょうか?


平成22年度の地域コミュニティ事業補助には、私たちの他にも多くのコミュニティからの申請がありました。
皆さんも、町内を盛り上げるために活用させてはいかがでしょうか。

長岡市「地域コミュニティ事業補助金について」(平成22年度は終了しました)
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/tiiki/community_h22.html
八丁沖 [2010年05月25日(Tue)]

魔蛇が棲むと怖れられた広大な沼地、八丁沖。
戊辰戦争における長岡城奪還の戦いで、600名の長岡藩の兵たちが、声をひそめ夜闇にまぎれて、この沼地を渡りました。
八丁沖の中央は、底なし沼になっていたと伝えられます。
長い竹竿を沼に突き刺し、足場を確かめながらの、命懸けの行軍でした。
この恐ろしい難所から軍が現れるとは、西軍は夢にも思わなかった事でしょう、奇襲は成功し、長岡城は奪還されました。



八丁沖の現在は、美しい田園が広がる風景となっています。
訪れた頃には丁度田植えの真っ盛り、農家の皆さんが一生懸命働いておられました。
穂が実る秋には、田園が黄金の海となります。
その中央を横切る農免農道長岡東線の、新組地区の百束から富島までを繋ぐ約3.2km、それは長岡藩の軍が進軍したルートとほぼ一致します。
史跡散策もできるように歩道も広く、平成6年にはこのルートでウォーキングイベントが行なわれました。
今年の「米百俵まつり」では、昨年は「天地人行列」として行なわれた恒例の行列イベントが開催されるとのお話も・・・・実現が楽しみです!


ルート上、猿橋川に掛かるのは「八丁沖橋」。
河井継之助とガトリング砲、長岡城のレリーフが飾られています。
ガトリング砲は当時の日本国内に3門があり、その内の2門を長岡藩が所有しました。



山北川には「梯子橋」。
こちらは長岡藩の旗印に用いられた「五段はしご」がモチーフにされています。
レリーフは、八丁沖を渡る兵士たち。



奪還戦での上陸地付近、富島にある「八丁沖古戦場パーク」には記念碑があります。
公園内には、河井継之助が手を洗ったと伝えられる「手洗鉢」も置かれています。




散策の合間に、八丁沖古戦場パークで四葉のクローバーを見つけました!
良い事ありそう。

福島町八幡神社の春祭り [2010年05月24日(Mon)]

この日曜日は、福島町の八幡神社の春祭でした。
明治37年に奉納された立派な幟がお出迎えです。



こちらの神社にも神楽舞が遺されており、前夜の夜宮と当日の2回奉納されます。
舞の奉納は明治30年には既に始まっていたと言われています。
長谷川泰先生の生まれた福井町の八幡社へは、こちらの氏子が舞の伝授へ向かったということです。

※当ブログ関連記事
「福井町八幡社の竣工式(建舞)」
「福井町の八幡社改築中」



福島は大変に歴史が古い集落で、村の誕生がいつごろかは定かではありません。
推定で1080年代の伝承に、源義家(八幡太郎)が東国平定の帰途に村を通ったとされています。



福島町は長岡の田畑を潤す「福島江」の開削で、広く名を知られる「桑原久右衛門」の生誕地です。
新組小学校の校歌にも歌い継がれ、地域でこの偉人の業績を知らない方は居ないと言っても良いでしょう。
長谷川泰先生の事も、桑原久右衛門の様に新組地域の皆さんに親しんでいただきたいと願って、活動しています。

ながおかweb再発見「福島江」
http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/hakken/03_hakken/shousai013.html


八幡神社の間近には、貞心尼草庵跡があります。
※当ブログ関連記事「福島町の貞心尼草庵」
長岡北部方面隊春期消防演習 [2010年05月23日(Sun)]

新組学区のお隣、黒条小学校グラウンドにて、長岡北部方面隊の消防春期演習が行なわれました。
演習で披露させるのは、
消防器具の基本操作の技術を競う消防操法の試合、ポンプを使っての放水演習、200人を超える団員が息を合わせる隊列行進などです。
自主防災会の皆さんには、消防署員の専門家から「AED」の使い方の講習がありました。



消防操法の試合に出場する今年の新組地区(14分団)の代表は、福井町と大黒町で構成されるチームです。
長谷川泰先生の出身町の方々であるわけです。
「長谷川泰を語る会」のメンバーも応援に駆けつけていました。

5人の選手たち、とても凛々しいですね!



訓練の成果!
一糸乱れぬ連係により、ポンプやホースの消防器具をさばいて行きます。



試合結果は第3位、惜しくも長岡市の本戦への出場は逃しましたが、
今回の選手の皆さんが毎朝の訓練で身に付けた技術は、来年は指導者となることにより、次の選手へ受け渡されて行きます。
このようにして、各集落の横の交流をもって、新組地区の防災意識は守られて来ました。

1位は昨年の長岡市優勝チームである、黒条地区の15分団。今大会は本戦出場のシード権も持っていました。
2位は浦瀬地区の13分団。
この2チームが長岡市の本戦出場です。選手は引き続きの訓練が続きます、北部方面隊の代表たちの健闘を祈りましょう!


春期消防演習のもう一つの見せ場は、放水演習です。
集まった子どもたちも歓声を上げて楽しんでいました。



幾つも連なる放水ポンプから、何本もの水の柱が空へ吹き上げられる光景が爽快です。


猿橋川河川敷公園の花植え [2010年05月22日(Sat)]

本日は朝から猿橋川沿いの河川敷公園で、花植えがありました。
朝早くから大勢の町内の皆さんに集まって頂き、500本の花の苗があっという間に植えられました。



遊歩道の草刈りも済ませ、散歩にはとても気持ち良さそう。
芝の広場もあって、家族でのんびりできそう。改めて見ると、この公園、結構広い!
公園の入口には、立派な藤棚もあるのです。満開の内に写真を撮って紹介すれば良かったですねー。



公園の整備には、いつも少年野球チーム「新組ホワイトソックス」のメンバーも協力してくれます。
皆の元気なパワーが頼りになります、ありがとう!
ホワイトソックスは、公園の花植えが終わった後も、新組小学校のグラウンドで練習でした。
これは強いチームになるわけです。



猿橋川河川敷公園には、来年度にトイレと水道を設備できるように計画しているそうです。
増々気持ちの良い場所になりそうですね。
皆さんも是非、河川敷公園を利用してくださいね!
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