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越佐の墨芳 [2010年10月26日(Tue)]

新潟日報事業社発行「越佐の墨芳」
新潟県ゆかりの人物の書を集めたこの本に、長谷川泰の書が2点、書簡が4点掲載されています。

書簡の宛先が大変興味深く、「河井継之助伝」の著者・郷土史家の今泉鐸次郎宛に2点、長善館の2代目館主・鈴木タ軒(てきけん)と長岡藩大参事・三島億二郎に1点ずつになります。

今泉鐸次郎宛の書簡は「河井継之助伝」(初版明治43年)の取材に応える内容と思われるもので、あの小千谷談判の同席者が岩村精一郎であった事の確認を本人に取ったとの内容がありました。
河井継之助伝冒頭の協力者一覧に、岩村精一郎に続き上から2番目に長谷川泰の名があることからも、伝記の執筆に深く関与していた事が伺えます。

鈴木タ軒宛の書簡は明治17年の物で、タ軒の息子・鹿之助(後に長善館教師・鈴木柿園(しえん))を紹介された御礼の内容です。
北越戦争では両陣営に別れて戦った二人ですが、文中でタ軒の幼名の健蔵と呼びかけている事からも、戦後の関係が良好だったことを思わせます。

三島億二郎宛の物は、東京の泰を三島が訪ねて来た時の不在を詫びることから始まっています。
三島は泰に何やら調べものを頼んでいたらしく、それに答えるべく石黒忠悳に確認したが分からなかった、というような内容です。


柳塘の号で「虚心坦懐」と題され扇に書かれた書には、「大正戊午の夏歴遊中」と記されています。
これを大正7年(干支の戊午=つちのえうま)と読むならば、長谷川泰の没後ということになりますが、何か別の解釈の仕方があるのでしょうか?
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