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【泰先生メモ29】帝国議会の長谷川泰 [2010年10月04日(Mon)]

依然、済生学舎と長谷川泰の活躍は続きます。

明治21年(1888)長谷川泰46歳。
池田謙斎は明治政府より日本発の「医学博士」の称号を贈られ名を馳せています。実はその年、長谷川泰にも医学博士号が用意されていたのですが、どういうわけか固辞してしまいます・・・・ともかく、越後から同時に2人の医学博士が誕生しようとしていたのでした。
明治22年(1889)。
済生学舎では木版印刷による医学書の出版が相次ぎ、その年出版した長谷川泰の著書「簡明薬物学」は当時の医学書のベストセラーとなりました。
後に野口英世らも使用した書籍です。



翌明治23年(1890)自由民権運動を経て、遂に帝国議会が発足。
長谷川泰は、済生学舎の講堂で生徒に向けて政治への関心を煽ったほどの熱の入れようでしたから、勇躍第1回衆議院議員選挙に出馬。
見事に当選し、日本初の国会議員に名を連ねました。
以降、明治25年に新潟県古志郡から立候補し当選、東京市議会議員兼任。27年にも同区で当選し、3期連続の議員活動を行ないました。(以降は立候補せず)

議会でもベランメー調で大活躍した長谷川泰の業績です。

「関西に帝国大学を新設する建議案」の提出。〜明治25年(1892)
長谷川泰は、京都帝国大学(後の京都大学)開校に尽力しています。
最高学府の帝国大学がただ一校では、教師に競争心が起こらず、それでは学問が発展しないから、関西にも作りましょうという意図でした。
日清戦争などで長く中断しましたが、明治30年に工学大学が、追って32年には法科大学も開校しています。
また、少々時代は戻りますが、、長谷川泰は戊辰戦争後間もなく同郷の石黒忠悳らと共に27歳で「大学東校」(後の東京大学)の講師に着任しています。
その頃の学校制度は安定せず、短期に何度も解体再編制が繰り返されており、大学東校は、東校、第一大学区医学校、東京医学校と改称されて行きました。
泰はその混乱の中で学校造りに活躍し、第一大学区医学校時代には校長に任命(佐藤尚中と相良知安の代役の1ヶ月間)されていますから、東西の最高学府の設立に大きく寄与している事になります。

「北里柴三郎の伝染病研究所設立支援演説」〜明治26年(1893)
内務省の推薦でドイツに留学し、破傷風菌の治療法の発明で爆発的に名声を上げて帰国した北里柴三郎ですが、待っていたのは政府の医学者たちからの冷遇でした。
長谷川泰は、予防医学に対する先覚において、同志とも言える北里柴三郎の救援に奮闘。
「私立伝染病研究所」の立ち上げの為に、国会で大演説を行ないました。
(詳しくは後の記事で)




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