• もっと見る

« その他 | Main | 見附市»
<< 2015年03月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新の記事
月別の記事一覧
日別の記事一覧
話題の分類
米百俵まつり2013 [2013年10月06日(Sun)]

 越後長岡の三大まつり『米百俵まつり』が開催されました!
 長岡の重厚な歴史絵巻と、その到達店にある『米百俵の精神』を、時代行列に表現して語り継ぐ大イベントです。

 毎年10月の第1土曜日に開催され、翌日曜日には河井継之助の法要が行われています。
 (河井継之助の命日は旧暦8月16日、新暦で1868年10月1日とされます。)

 nagaoka01b.jpg

三根山藩から贈られた百俵の米の場面


 中世から、長岡城下の興り、そして戊辰戦争へ。
 戊辰戦争で長岡は焼かれますが、長岡の大参事(当時の地方官職)小林虎三郎は、何事にも挫けない長岡伝統の『常在戦場の精神』をもとに、人を育てて新時代を築けと『米百俵の精神』を説きました。

 nagaoka01a.jpg

山県狂介の指揮する新政府軍の砲火に破れる長岡軍


 その先見と不屈の精神は、河井継之助、小林虎三郎の盟友である三島億二郎をはじめとした明治時代の長岡人に受け継がます。
 長岡は、官民が一体となった教育と町の復興とともに。驚くほど多くの偉人を世に生み出しました。
 地元有志の皆さんの扮装で、その先人たちの紹介も行われます。

 nagaoka01e.jpg

山本五十六や井上円了の姿も


 そして、2012年より偉人たちの列に加わったのが、「長谷川泰」です。
 同時に、同い年の盟友「外山脩造」も加わりました。
 二人は武士ではなく民衆の出身であり、河井継之助に倣い、民の力からも出来る世の中作りを行った『米百俵の精神』の体現者といえます。

 nagaoka01d.jpg

長谷川泰役は、「長谷川泰を語る会」小林立憲氏


 壮大でワクワクする、しかもふるさとの誇りを学べる『米百俵まつり』
 来年も是非お越し下さい!

 nagaoka01c.jpg

維新の志士たちも!長岡脱藩浪士「白峰駿馬」、坂本龍馬、勝海舟


※当ブログ関連記事
「米百俵まつり」
「米百俵まつり2012」
米百俵まつり2012 [2012年10月08日(Mon)]

 長岡の歴史と「米百俵の精神」を楽しむ、米百俵まつり2012
 長谷川泰先生のデビューです!

 nagaoka02a.jpg


 昨年に米百俵まつりを初めて観て感動し、「出られたらいいなぁ」などと投稿していたブログ管理人ですが、まさか翌年に実現して頂けるとは大変な喜びです。

 nagaoka02b.jpg


 泰先生役には、長谷川泰を語る会から小林立憲さん。
 泰先生の生誕の地、福井町で生まれ育ち、現在もお住まいです。ご当地に根ざすことを趣旨に活動して来た「長谷川泰を語る会」ですので、この上も無く適任であったと思います。
 長く、ふるさとで知られずに来た長谷川泰の偉業ですが、このような形で市民の近くで顕彰されることを、ご本人も喜ばれていると信じます。

 泰先生のお隣には、スーツ姿の外山脩造さん。
 共に河井継之助を慕ったかつての盟友がそろい踏みで感無量です。

 nagaoka02e.jpg


 この日の壇上には、映画「この空の花」で長岡の歴史文化を誇り高く美しく表現してくださった、大林宣彦監督も。
 今年も長岡の素晴らしい歴史を楽しく勉強できる、実に素晴らしい「米百俵まつり」でした。

※当ブログ関連記事
「米百俵まつり」
【特報】米百俵まつりにデビュー! [2012年10月06日(Sat)]

本日、10月6日は「米百俵まつり」です!
年に一度、長岡藩が戻って来る時代行列は必見。
河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎、山本帯刀ら人気の長岡藩士のみならず、与板衆を率いた直江兼続 、聯合艦隊司令長官山本五十六も登場。

今年はアオーレ長岡を舞台に初開催、盛り上がりが期待されます。

今年からなんと・・・・・
長谷川泰先生が「長岡の先人紹介」にデビュー!
扮するのは生地新組地区福井町で生育った、小林立憲さん。長谷川泰を語る会でも活動をされ、まさに適任です。

そしてなんと・・・・・
盟友の外山脩造も同時デビュー!

ブログ管理人、個人的にはこの日が来た事を涙して喜んでおります。
ご来場の皆様、ご声援をどうぞお願い致します!

nagaoka03.jpg

河井継之助も愛弟子たちの勇姿を笑顔で喜ぶのではないでしょうか



<長岡市公式ページ>
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/event/kome_matsuri.html

※当ブログ関連記事
「米百俵まつり」2011年開催
福島江の桜 [2012年04月14日(Sat)]

 桜の名所「福島江」。
 この水路を拓き、長岡の水田を潤したのは桑原久右衛門。
 長岡市新組地区の福島町(福島村)の出身で、小学校の社会科でも習う偉人です。
 桜の季節、それに続く田植えの季節になったら、思い出してみて下さい。

nagaoka02.jpg


※当ブログ関連記事「桑原久右衛門 」
「アオーレ長岡」オープン [2012年04月01日(Sun)]

 本日、長岡市にシティホールプラザ「アオーレ長岡」がオープンしました。
 「アオーレ長岡」市役所本庁舎とアリーナなどが一つになった巨大建築です。
 このアオーレは、かつての長岡城跡地に造られているのです。
 施設の驚きの全容は他所の記事を読んで頂くとしまして、こちらではこの近代的な建物の中に歴史の痕跡を探してみました。

nagaoka01a.jpg


 敷地の片隅、以前と同じ場所に、長岡城趾の碑が保存されていました。
 案内の石柱にあるようにここは二の丸跡。長岡城の本丸は現在の長岡駅なのです。 
 併設されているのは「城内稲荷神社」、古くから長岡城二の丸にあったものです。築城にまつわる白狐伝説から祀られたと伝えられています。

 ※大手通商店街公式サイト「城内稲荷白狐伝説」

nagaoka01b.jpg


 アオーレの入口には、下の写真のように年譜が記されています。
 1605年(慶長10)の築城から、1926年(大正15)旅館王大野甚松の全額寄付で建てられた長岡市公会堂、そしてアオーレ建設まで大手通のシンボルとして長く市民に愛された、長岡市厚生会館への歴史です。

nagaoka01c.jpg


 1階の議場入口には、蒼柴神社所蔵の「蔵王権現祭禮御覧之図」の複製が展示されていました。
 蔵王権現(現在の金峯神社)は、長岡の信仰の要。これは旧暦6月に行なわれる六月祭禮の様子を描いたものです。
 解説文では、武士と民衆が協力して藩政を行なったことが表れているとの解釈がされ、「市民恊働」の時代にこの絵巻から学ぶべきだと結ばれています。
 絵師は長岡藩お抱えの辰巳教祗か飯島常といわれます。辰巳は「人体解剖図」の作者であり、長岡藩で早くから「腑分け(解剖)」が行なわれていた記録として、医学史の貴重な史料となっています。

nagaoka01d.jpg

 
 この極めて近代的な建築物の地下、駐車場の一画に長岡城の直接の痕跡が展示されています。
 これは、城壁の盛り土を支えていた土留めの杭です。
 この度の工事中に発見された物だそうですが、長岡藩の歴史を忘れるなと市民に呼びかけるために、土中から甦ったかの様です。
 これからも、新しい長岡のシンボルを足元から支えてくれることでしょう。

nagaoka01e.jpg
二虎 [2011年10月11日(Tue)]

 長岡の歴史を題材にした御菓子を作る米百俵本舗の『二虎』です。



 <以下、公式サイトより>
 「長岡藩の大参事であった小林虎三郎は佐久間象山の優秀な門下生であった頃、吉田松陰(幼名,寅次郎)と共に「象門の二虎」と称され、佐久間象山に「我が子の学問を任せるのは小林虎三郎」と言われた程の優れた人でした。そのいわれから、このお菓子を“二虎”と名付けました。」

 どら焼きならぬ「とら焼き」の二虎(にこ)なのです。生地の表面には虎縞の様な焼き模様が入っています。
 バター餡味は、餡の甘みにバターのコクが加わってとっても美味ですよ!

「米百俵本舗」WEBサイト

 いつか長谷川泰先生にちなんだ御菓子も出来るといいなー。
米百俵まつり [2011年10月08日(Sat)]

<以下、長岡市公式サイトより>
 長岡が誇る「米百俵の精神」をテーマに、秋の収穫祭と併せて誕生したお祭りです。
 今からおよそ140年前の北越戊辰戦争で、旧幕府軍側の最前線で勇猛果敢に戦い抜いた長岡藩。その激戦で多くの命を奪われ、まちを焼き尽くされ、さらには「賊軍」の汚名を着せられながらも、長岡の先人たちは灰燼の中から着実な復興を成し遂げました。
 まちの再建の大きな礎となったのは「質朴剛健」の長岡人の気質であり、当時の長岡藩大参事・小林虎三郎が人材育成の重要性を説いた「米百俵の精神」です。今日まで長岡の地に深く根付くこの「精神」を、次世代を担っていく子どもたちへ、さらには日本全国、世界各国のみなさんへと伝える米百俵まつりへ、どうぞ揃ってお出かけください。


 市の案内文にある質実剛健の長岡人気質を、藩士たちや後の偉人に植え付けたのが『常在戦場』の精神です。『常在戦場』は年末公開の映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六』でも根幹のテーマになると思われます。
 ※当ブログ関連記事
 「長岡の精神文化」


 さて、当日の大手通を練り歩いた華やかな歴史行列の様子をお伝えします。


 先ずは中世、小国の「以仁王」の伝説から、完全無欠の英雄・長尾景虎(上杉謙信)へと、武者の行列が現れました。大河ドラマ「天地人」の主人公・直江兼続は愛の前立も凛々しく、勇猛な与板衆を率いて出陣です。


 戦国の英雄の後に歴代長岡藩主が続き、幕末に入ると、勝海舟、坂本龍馬(写真)の姿が。
 何故?と思われることでしょうが、その後に続いたのは「白峰駿馬」。龍馬と友に勝海舟に学び、脱藩して海援隊入りした人物です。
 その義兄の鵜殿春風(団次郎)は長岡随一の秀才と呼ばれ、勝海舟と共に恭順論を説き、混乱する江戸幕府の目付役に就いたのでした。
 この辺りの人物関係で1冊の物語が描かれても十分な魅力があるでしょう。

〜合間に北越戦争の火ぶたとなった「小千谷談判」の寸劇が入り、河井継之助の無念が語られますます。


 山本帯刀、三間市之進、花輪求馬らが率いる幕末長岡の精鋭と、軍事総督河井継之助が行くと、遂に姿を現したのは、あの「錦旗」を掲げた西軍の部隊です。
 長州の白、薩摩の黒、土佐の赤の「シャグマ」が、えも言われぬ威圧感を放ちます。この感覚は長岡人としての生理的なものなのでしょうか?
 率いるは、小千谷談判の相手・岩村精一郎(土佐)、黒田了介(薩摩)、そして長岡人にとって因縁深き彼の山縣狂介/有朋(写真)です。山縣は不敵にも指鉄砲で観衆を挑発!(名演技です!)ここは皆でブーイングを返すのが作法なのではないでしょうか??
 (西軍を演じたのは中越高校の先生と生徒の皆さん、大変な役所を熱演でした!)
 

 さて、前後しますが米百俵まつりにとってはお馴染みの演者さんの「河井継之助」です。
 観衆の声援にも親し気に応えられていました。馬上でにこやかに笑う継之助、現在の長岡の平和を思わずには居られません。
 役者が揃うと両軍の合戦風景が演じられました。先祖伝来の甲冑を纏い西軍に挑んだ槍の老兵「伊東道右衛門」の討死のシーンには観衆も涙。道右衛門の勇猛を讃える碑は今も福島江のほとりにあります。
 そして、終戦。行列は小林虎三郎の米百俵の寸劇を以て幕となりました。


 最後に紹介するのは、「米百俵の精神が生んだ、郷土の先人の紹介」の中から「山本五十六」。
 (今回16人が抜粋された偉人たちは、それぞれ地元の名士の皆さんが演じます。)
 山本五十六は、年末の映画公開を控えて最注目の長岡人です!演者さんのこの佇まい、とっても雰囲気が出ていますよねー。
 ブログ管理人としては、長岡中央綜合病院形成外科の先生演ずる「小金井良精」の完成度に驚きました。河井継之助記念館館長・稲川明雄さんは、自ら伝記を書かれ出版王「大橋佐平」役です。
 ここに、外山脩造、そして長谷川泰を並べたい!(居ないのがおかしいくらいです)今後の目標が出来ました。
 

 そのような感じで今年の米百俵まつり、実は郷土史2年生のブログ管理人は初参加でしたが、歴史好きには大興奮のイベントでした。
  会津や米沢といった長岡に縁が深い土地から参加される、飲食や物産・観光PRの出展も賑やかで、全年齢で楽しめる『米百俵まつり』毎年楽しみです。
 
八丁沖ウォーク [2011年10月04日(Tue)]

 10月2日、北越戊辰戦争における「長岡城奪還戦」で鮮やかな奇襲を成功させた八丁沖渡河作戦。
 その舞台となった地を歩くイベントが、河井継之助記念館の主催と新組地区有志の協力で開催されました。
 なんと参加者80名!河井継之助の人気と、八丁沖の歴史上の注目価値がよく分ります。
 新潟日報(4日朝刊)の記事の写真は新組地区百束町での様子です。



 新組地区の大黒古戦場パークには、平成24年春に『北越戊辰戦争伝承館(仮称)』がオープン。
 長岡郷土史の中でのみならず、幕末、明治維新、戊辰戦争の日本史の分野としても注目が集まります。

 
 長谷川泰を語る会でも、ウォーキングイベントを開催!
 10月9日(日)、長谷川泰の故郷の福井町と、幼馴染の外山脩造の史跡を繋ぎます。
 ※当ブログ関連記事
 「郷土史探訪ウォーク」
【講座】長岡の精神文化 [2011年09月30日(Fri)]

 8月に河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講座「常在戦場の精神を継承する」を受講しました。
 遅くなりましたが、その感想です。

 「常在戦場」
 藩主の牧野氏はその昔、愛知県の三河にあり「三河以来の」藩風と呼ばれるものが長岡藩にはありました。
 その軸となる精神が「常在戦場」です。この精神が長岡の歴史に根付き、河井継之助、三島億二郎、小林虎三郎の米百俵の精神にまで引き継がれて行きました。
 常在戦場とは、ひと言で表現すると「己を改革し続ける精神」「時代を生き抜く精神」であるということです。長岡藩が歴史的に教育に熱心であり、新しい価値観を取り入れる事を厭わず、幕末〜明治には敗戦の中にありながら数多くの人材の花々を咲かせたことには、 「常在戦場」の精神を元に新しい時代に備える姿勢があったからである様です。

 「常在戦場」とは決して古くなる事の無い価値観です。
 なぜならば、常に新しい時代に備える事が、その本意であるからです。
 長岡藩が300年を要して生んだと言われる「山本五十六」も、常在戦場の書を残しています。稲川先生は山本以来長岡には常在戦場を体現する人物が現れていないと話されましたが、これから先の新しい時代に人材を育てる事が、我々長岡の大人の仕事ですと結ばれましたのでした。

 講座の終りに稲川先生からサービスが。
 医者なのに医者の要らない世の中を目指した、長谷川泰などは常在戦場の体現そのものである。と、紹介して頂きました!
「武石弘三郎」友情の双像 [2011年08月19日(Fri)]

 中之島町長呂地域の神社、若宮社には、湯島天神の長谷川泰座像を造った「武石弘三郎」の作品があります。長呂は、日本彫刻界の草分け、武石弘三郎の生地でもあります。
 武石弘三郎は、東京美術学校(現・東京藝術大学)では、あの高村光太郎の先輩にあたります。(新組地区に新たに建立予定の長谷川泰像の作家・峰村哲也さんは二人の後輩ということになりますね。)



 この像の二人の人物は、向かって右が弘三郎の兄で漢学者の武石貞松。左が貞松と義兄弟の契を結んだ堀口九萬一(長岡で育った文学者の堀口大学の父)です。
  武石貞松は世の中に教育が行き渡ることに尽力しました。堀口九萬一は外交官として活躍しています。
 生涯続いた二人の友情を表現したこの像は「友情の双像」と呼ばれています。
 
 二人の友情は、高橋竹之介が明治に入って長岡に開いた私塾「誠意塾」の同門となったことから始まりました。
 越後勤王の重要人物で大河津分水建設の立役者でもある高橋竹之介は、長呂に近い杉之森地域の出身です。長谷川泰とは同い年で、泰と同じく粟生津の「長善館」の門下です。
 杉之森には高橋竹之介の資料室がありますので、後日見学したいと思います。


長岡市観光課
「友情の双像」


新潟百景
県内にある武石弘三郎の作品「竹内式部像」(長谷川泰像と同年、大正5年竣工)


長谷川泰翁像建立基金にご協力ください。
<主管>郷土の偉人長谷川泰を語る会
      新潟県長岡市新組町5331-1 電話0258-24-3123(愛輪商事内/事務局)
口数や額は定めておりません。できるだけ多くの方からのお気持ちを頂戴したいと考えております。
※当ブログ関連記事「長谷川泰翁像の建立が発起」

 【寄付金の振込口座】
 ゆうちょ銀行 00510-9-84951
 加入者名 長谷川泰を語る会
| 次へ
Google

Web全体
このブログの中
http://www.pecope.com

ジオターゲティング