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第三回【八丁沖ウォーク】 [2013年10月12日(Sat)]

 秋の恒例行事、八丁沖ウォークが今年も行われました!
 八丁沖を見渡す北越戦争伝承館から、富島の八丁沖古戦場パークまで、実際の長岡城奪還ルートに近い道を歩くのです。
 今年も長岡銃士の登場で、元気に「勝どき」上げて出陣!

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 ・・・ところが、エイエイオーのかけ声の直後から生憎の大雨が。
 ウォークは中止。長岡隊の苦労を想うと申し訳ないのですが八丁沖をバスで渡り、近隣の史跡を巡るツアーに切り替わりました。
 中止は残念ですがしかし、新組地区には戊辰戦争の史跡が多くいのです。まずは北越戦争伝承館を館長の安藤一彌さんのガイドで見学しました。
 さらに、戊辰戦史の研究者である稲川明雄先生と星貴さんの二方のガイド付きで、かなりのお得なツアーになりました。

 特に、長岡藩士「渋木成三郎」の墓は重要です。
 北越戦争で一度落ちた長岡城下に潜伏、敵軍の油断を見て取ると河井継之助に報告。
 それが戊辰戦史に名高い「長岡城奪還戦」を実現させたのでした。
 たいそうな優男で、女装をして忍の様に任務を行ったこともあったそうです。
 〜しかし、河井継之助と同じく再落城の際に負傷。会津へ向かう途中、百束村(新組地区)宝珠院で力尽きると、モルヒネを飲み自決しました。

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 新組地区コミュニティセンターに戻り、稲川明雄先生(長岡市河井継之助記念館館長)のミニ講演が行われました。
 この地域の戦いがいかに激しく、そして新政府軍を苦しめたか。
 戦争に破れはしたが、長岡城奪還の成功がいかに長岡藩士にプライドを残し、明治の復興を精神的に支えたかなど、大変に濃密なお話でした。
 今はのどかな農村部となったこの古戦場は、戊辰戦史の中で全国的な価値があるそうです。

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 八丁沖ウォークでは参加記念品があります。
 左肩に付けて、長岡藩兵になりきって歩く「五間梯子」の腕章と、今年は特別にてぬぐいも。

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 てぬぐいには、ガトリング砲と河井継之助、長岡銃士のイラストが印刷されています!
 この日限り、超限定の記念品です!
 <イラストは、御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」の作者>

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 ゆかりの集落で採れた農作物のお土産品も並びました〜
 ・長岡城奪還戦本陣として同盟軍要人が控えた「清水家」その四ツ屋町の朝採り野菜
 ・八丁沖で地元新組小学校の児童と育てた、低農薬はざかけ米
 どちらも売れきれの大好評でした!

 来年は晴れを願い。是非八丁沖を渡りたいと思います!
新組地区に桜咲く [2012年04月21日(Sat)]

 〜寒くて長い冬から
 新組地区にも春がやってきました。
 あちこちで田植えの準備も始まっています。

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新組小学校卒業式 [2012年03月23日(Fri)]

 今日3月23日は、新組小学校の卒業式です。
 長谷川泰を語る会の理事長もお招き頂きました。
 昨年に引き続き、長谷川泰先生のふるさと新組小学校の卒業生の皆さんには、漫画長谷川泰ものがたりがプレゼントされます。泰先生の成長物語が、新しい学校生活での勇気になってくれれば嬉しいです。
 皆さん、ご卒業おめでとうございました!

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 卒業生にも参加していただいた、長谷川泰ものがたりの感想文集ができあがっています。
 感動の内容はまたの更新にてお伝えいたします。
【講演】新組地域であった144年前の戦争 [2012年03月23日(Fri)]

 新組地区大黒町に5月オープンが決定した「北越戊辰戦争伝承館」。
 それへ向けての講演会が「新組地域であった144年前の戦争」と題されて3回に分けて開催されました。

 第1回「戊辰戦争と新組地区の村」
 講師/長岡市科学博物館学芸員 広井造氏

 第2回「戊辰戦争の鉄砲」
 講師/長岡歯車資料館館長 内山弘氏

 第3回「戊辰戦争における新組地方の位相」
 講師/河井継之助記念館館長 稲川明雄氏

 今回は、3月20日に新組地区コミュニティセンターにて開催された「戊辰戦争における新組地方の位相」について報告いたします。

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 冒頭に稲川明雄先生(郷土史研究家・河井継之助記念館館長)は「戦争」を死語にせず注視しなければならない。とお話しされ、「北越戊辰戦争伝承館」というネーミングは、世に問題意識を投げ掛けるものだと評価されました。

 では、北越戦争の激戦地、福井〜大黒の古戦場に伝承館ができる価値とは何んなのでしょうか?

●大湿地帯「八丁沖」
 かつて新組地区の側に横たわった広大な湿地帯「八丁沖」は、長岡城奪還戦の舞台でした。この大作戦の成功は長岡藩士の誇りであったそうです。 
 長岡藩は、福島江の整備などで盛んに治水を行ないながら、この八丁沖を放置したのは、長岡の守りとして戦略的に残したのだと稲川先生は考えられます。(城から丑寅の鬼門の方向にもあたる)新組地区の史料によると、八丁沖の中心部には隠田(おんでん)があったと記録されており、それは干拓が可能であったということを示します。
 「北越戊辰戦争伝承館」の2回テラスから見渡す美しい田園風景は、その八丁沖の名残です。

●「山縣有朋」苦難の地
 戦後、元勲として明治政府に君臨した山縣有朋は「福井」(現長岡市福井町)の名を聞くのも嫌だったのではないか?
 新政府軍の3ヵ月にも渡る苦戦は、戊辰戦史において他に例がありません。その激戦を現代に訴えかけるかのように、近年の農地整備まで古戦場には無数の弾丸と砲弾が散らばっていました。
 北越戦争の指揮官山縣狂介(後に有朋)が、朝日山の戦いにおいて親友・時山直八を失った際に詠んだ『あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風』の詩は、福井村での苦戦に明治維新危うしとまで追い込まれた心情が反影されているのではないかと、稲川先生は考えられます。
 その戦地福井村は長谷川泰の出身地です。宿敵河井継之助の影を纏い、官制の医療に対して民間の医療を猛然と押し進める泰の姿は、山縣有朋の目にどう映ったでしょう。泰には、帝国議会で山縣のことを「薩長閥の闇将軍」と野次ったという伝説があります。

●「北越戦争」の意義
 なぜ長岡は明治維新に立ちはだかったか。稲川先生はそれが北越戦争の研究テーマだとされます。
 戦争において、一方に絶対の正義があるわけでは無いと考えるのは自然です。時を経ての俯瞰した評価であればなおさら、手放しに「勝てば官軍」とは言い切れません。
 討伐指定を受けなかった長岡藩があえて困難に向け舵を切ったのはなぜか。新政府に何を投げかけるべく戦略を練ったのか。
 その決断により、多くの民衆が選択の余地も無いままに戦禍に呑まれたのはなぜなのか。
 〜長岡の軍事総督河井継之助が結果として戦端を開いてしまった、あの「小千谷談判」の決裂は、そもそも長岡藩の情報不足だったとの指摘がありますがしかし、実際には長岡は諜報活動に重きをおいた藩だったそうです。〜
 幸福にも私たちにとって現実では無くなろうとしている、しかし世界には依然として在る「戦争」と向かい合う場所に「北越戊辰戦争伝承館」はなるでしょうか。 


 以上、聴講したブログ管理人の個人的な解釈を交えての報告でした。
 気になる展示の具体的な内容は、後日に分りましたら投稿します!
 
新組地区作品展 [2011年11月11日(Fri)]

 昨年に引き続き新組地区コミュニティセンターで開催される地域の作品展に参加いたしました。
 今年も玄人はだしの作品が集まっております!

 11月12日(土)の朝9時〜午後3時まで開催中です。



 長谷川泰を語る会の展示は、御当地伝記マンガ長谷川泰ものがたりの作り方。原画を使って漫画の作業工程を簡単に説明しました。子どもたちも描いてくれると嬉しいなー。



 こちらは、日本自費出版文化賞の賞状です。やりました!と御報告。中山千夏理事のお名前に、年輩の皆さんが反応されます。



 この夏の長岡花火でメッセージ花火を打上げた、その記念で観光課から頂いたレプリカ玉も展示。地域の内外からほんとうにたくさんのご協力を頂きました。ありがとうございます。



 別室では郷土史の展示もあります。地元研究者の皆様が史跡MAPを作成、新組地区の名所がずらり並んでいますよ。必見です!
 河井継之助記念館と共同で開催された、八丁沖ウォークの写真も楽し気です。全国から集まったファンで、新組の田園に長い行列ができました。

圃場整備 [2011年11月05日(Sat)]



 10月28日、猿橋川右岸と新組地区の圃場整備竣工式典が行なわれました。
 猿橋川右岸地域を流れる大江用水は、江戸時代に長谷川利右衛門(長谷川泰の先祖・福井村の開祖)が中心となって掘られた水路です。また、それと同時代から長岡を広く潤す福島江は桑原久右衛門の仕事。どちらも新組地区ゆかりの偉人です。
 新組地区は古くから水との戦い、治水の努力が繰り返されて来たのですが、このたびの圃場整備は、その長い歴史の集大成ともいえるのではないでしょうか。ますます豊かに、四季の農作物が実る土地となることが期待されます。
 (工事に伴い、四ツ屋町近くの田園で大規模な中世の遺跡が発見され注目を集めました。)


 式典では森民夫長岡市長からのスピーチも。
 「長谷川泰ものがたり」を直接お渡ししてPRしました!

 
【新組ホワイトソックス】米百俵杯 [2011年09月16日(Fri)]



 新組小学校を舞台に「米百俵杯」の予選第1試合が行なわれました。
 新組ホワイトソックスは1回戦を快勝。
 2回戦は塩沢のヤンキース、体格のいい選手が多数の見るからに強そうなチームです。
 1回表からヤンキースの強打を受け苦戦のホワイトソックスでしたが、その後は点を奪い合ういつにも増した好ゲームを展開。



 最終回裏は3点のビハインドながらも満塁のチャンスを作るホワイトソックス!そこはピッチャーの好投に合い残念ながらゲームセットとなりましたが、本当に良い試合を見せてくれました。
 ホワイトソックスは合同校の上通小学校が行事のために、主力のチームメイトを何人か欠いた中での大健闘!試合後の何人もの選手の涙がそれを表していましたし、監督、コーチも負けて納得の様子でした。

 6年生は残りの試合も僅か、全開で楽しもう!がんばろう!

新組地区の花火師たち [2011年07月31日(Sun)]

「長岡まつり公式サイト・長岡花火の歴史」
http://nagaokamatsuri.com/rekishi.html


 上記の長岡花火公式サイトの年表によると、明治12年(1879)千手町八幡の祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい350発の花火を打ち上げたのが、長岡花火の起源とされています。昭和の戦争から慰霊の意味合いが強まるまで、花火には芸者の名前が付けられるなどして、華やかな町人文化として賑わっていました。


福井町の西照寺に残る長岡煙火目録


 大正6年(1917)を見ると長岡で初めて「二尺玉」4発の打ち上げに成功した「田崎藤蔵」という花火師が記されています。この田崎は、現在の新組地区百束町の人なのです。当時、この技術は世界でも最先端にあったことでしょう。
(初の「正三尺玉」は大正15年、長岡の中川繁治によるものです。)
 百束村の田崎藤蔵は、花火師の多かった長岡北部で親分格の職人でした。
 田崎家の「煙火創業略歴」によれば、創業は古く江戸時代の嘉永4年(1851)で、先代から親子2代70年に渡って活躍しています。
 長岡や新潟だけではなく遠くは関西へも遠征し、大阪の花火大会では全国準優勝の実力者でした。(新組郷土誌より)

 長谷川泰先生の生まれた福井村にも、田崎の弟子と伝えられる小林松蔵と松五郎の親子が居り、福井町の八幡社近くに2箇所の煙火小屋がありました。
 明治中期に活躍した花火師なので、もしかすると泰先生も故郷の花火を観る機会があったのかもしれません。

 筒場(現在の新組町)の恩田與平次は東京の「鍵屋」で修行をした花火師でした。その息子の故・恩田長次さんは、長岡を代表する花火職人・嘉瀬誠次さんに三尺玉作りのアドバイスをした思い出を、長岡郷土史33号の「煙火の今昔」の中で書かれています。恩田長次の連星とそして「月」は他では真似られない名作だったそうです。

 同じく筒場の安藤寅吉もまた田崎の弟子で、昭和初期には大曲や諏訪の花火大会に出場し、1等を取るほどの腕の良い職人でした。
 安藤寅吉の子孫である安藤忠雄さんは、現在でも安藤煙火店として新組町で4代続けて営業されています。

 昭和6年の上越線開通を記念した博覧会の会期中には、長岡の町でなんと計17発もの三尺玉が打上げられました。その三尺玉を作った職人の中には新組地区から恩田與平次、安藤寅吉、隣村の下々条からは嘉瀬亀吉が、初の正三尺玉を成功させた中川繁治の2代目の名前もあります。

 このように、新組地区の花火の歴史はとても長く、昭和初期には長岡花火随一の、つまり全国有数の職人たちが集まる地域でした。大曲の競技大会の記録を見ても明らかです。
 この長岡花火を盛り立てた先人たちの存在を、ふるさとの貴重な歴史文化として伝え残していって欲しいと思います。

 安藤忠雄さんは長谷川泰を語る会のメンバーでもあり、昨年の長谷川泰翁杯親善少年野球大会ではプレイボールの花火を打ち上げていただきました。今でも見附や出雲崎の祭で花火を打上げられています。
 安藤さんは祖父(2代目寅吉)の代から職人の仕事を見て育たれていますが、長岡の花火玉には、我が子のように1つ1つ名前を付けられていたのだと話されました。




大小の玉が並ぶ安藤煙火店の工房


さて、今年も長岡に花火の季節がやってまいりました。
長岡まつりは明日開幕!水害の影響が心配される花火大会は、2日3日に開催されるでしょうか?
3日夜7時15分からの、メッセージ花火「長谷川泰ものがたり」にもご注目ください!

※当ブログ関連記事
「長谷川泰メッセージ花火」
長谷川泰メッセージ花火 [2011年07月28日(Thu)]

長岡花火大会で長谷川泰メッセージ花火を打上げます!
8月3日の冒頭、夜7時15分頃から、打上げ前の会場アナウンスにもご注目ください。



今回の花火のPRのために、長谷川泰の功績を簡単に説明したパンフレットを手作りしました。
(1冊1冊手折りしてホチキス留めしました。)
当日までにご近所と関係者に配布いたします。
新組地区には、かつて4人の腕利きの花火師が居たことを当ブログでも何度か書きましたが、その紹介もしています。

このメッセージ花火の打上げには、新組地区の企業親交会と住民の皆様、そして地域の外からもたくさんのご寄付を頂きました。
皆様のお名前はパンフレットに記載させて頂いております。関係者一同から、厚く御礼申し上げます。

では、8月3日、夜7時15分
新組地区と協賛者の皆様で贈る「長谷川泰ものがたり」
10号10発、打上げ開始でございます!
蛙の子 [2011年07月15日(Fri)]

新組地区の夏の「江さらい」。
水田を潤す水路の流れが滞らないよう、周辺の草刈りが行なわれました。
江戸時代、大江用水や福島江の頃から繰り返されて来た農村の風物です。



水路の中には蛙の子がたくさん。
水田に産卵した無数の卵がいっせいに孵る季節です。



蛙の子の行く手を阻むのはアメリカザリガニ!
こいつが水田に侵入すると、巣穴を掘って稲の成長を邪魔します。
それにしても、近年は農薬の使用量を抑えたことから水辺の生き物が増えて来ましたね。
30年も前にはたくさん飛んでいて、一時まったく姿を消した蛍の光も報告されています。

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