• もっと見る

Main | 新組地区»
<< 2015年03月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新の記事
月別の記事一覧
日別の記事一覧
話題の分類
【泰先生メモ40】済生学舎出身の医人たち [2011年05月26日(Thu)]

 「済生学舎」が輩出した高名な医師・医学者は、野口英世や吉岡弥生だけではありません。

「浅川範彦」 高知県出身(1865〜1907)
 思想家・中江兆民の従弟にあたります。
 済生学舎卒業後は故郷高知で病院に務め、再び上京すると北里柴三郎の伝染病研究所へ入所し、細菌学者としてジフテリアの血清療法などに貢献しました。
 チフス菌、破傷風菌の研究が評価されて、北里門下では第1号の医学博士になっています。
 北里伝染病研究所時代の野口英世を指導した人物でもあります。

「小口忠太」 長野県出身(1874〜1945)
 済生学舎入学後、わずか4年足らずで内務省医術開業試験に前後期合格した秀才です。その時17歳、現在の高校生の年齢で医師の資格を持ったことになります!(ただし、未成年が開業することはできませんでした。)
 眼科医として活躍すると、愛知医科大学(現在の名古屋大学)の眼科部長を経て学長を務めました。
 夜盲症「小口病」の発見で知られています。

「須藤憲三」 山形県出身(1872〜1934)
 伯父・佐藤精一郎の経営する「東京医学院」から済生学舎へ転校、内務省医術開業試験に合格すると、東京帝国大学医学部でも学んでいます。
 母校済生学舎の講師を務め、「廃校」直後に有志が立ち上げた、済生学舎同窓医学講習会でも教鞭を振るい、学生の救済に努めました。
 ドイツ留学の後には、金沢医科大学の第2代学長に就任しています。
 

 野口英世は福島出身、吉岡弥生は静岡出身、こうして見ると全国から済生学舎に集まった学生が、また広く日本中で活躍したことが伺い知られます。
【泰先生メモ39】長谷川泰の学歴 [2011年02月14日(Mon)]

長谷川泰先生の学歴を列挙しました。

入門年/満年齢/学校名/教師

・嘉永年間(1848)/6歳頃/青鬣館(耳取村)/井上五蔵
 <漢学(徂徠学)を習う>

・記録無し(18??)/?歳頃/菁莪学舎(河根川村)/青柳剛斎
 <漢学を習う>

・安政3年(1856)/14歳頃/長善館(粟生津村)/鈴木文台
 <漢学(孝教、折衷学)を習う、良寛の心にふれる>

・安政4年(1857)/15歳頃/坪井塾(江戸)/坪井為春
 <蘭学を習う>

・安政6年(1859)/17歳頃/−−−(福井村)/長谷川宗済
 <漢方医の修行>

・万延1年(1860)/18歳頃/−−−(長岡)/鵜殿団次郎
 <英学、蘭学など、洋学を習う>

・文久2年(1862)/20歳頃から/順天堂(佐倉)/佐藤尚中
 <蘭学によるドイツ医学・医術の修行>

・慶応2年(1866)/24歳頃/薩摩英学塾(江戸)/坪井為春
 <英学を習う>

・慶応2年(1866)/24歳頃/西洋医学所(江戸)/松本良順
 <軍陣医術を習う>

・明治2年(1869)/27歳頃/大学東校(東京)/相良知安、ミュレル、ホフマン
 <ドイツ語による医学を深める>

※佐倉順天堂、西洋医学所、大学東校については、済生学舎の開業願に医学修得の履歴として書かれています。その開業願には医学校以外に、長善館の鈴木陳蔵(文台)に漢学を学んだことが記されていることにも注目です。
※慶応義塾で福沢諭吉門下であったという記録も残りますが、それを確かにする資料がありませんので割愛しました。
【泰先生メモ38】長谷川泰の望郷 [2010年11月28日(Sun)]

戊辰戦争の後、長谷川泰が東京に活躍の場を求めると、福井村の長谷川家は親戚に託されていました。
そこに生まれた孫養子で、長谷川家の13代目にあたる「亀之助」を、晩年の長谷川泰はとても可愛がっています。
東京から学資の仕送りを頻繁に行い、その報告の手紙の多くは、幼い亀之助本人に宛てられていました。
そこには「お母さんを大事にしなさい」などと、我が孫に向けたかのような言いつけ書かれています。
明治42年頃の手紙で亀之助から長谷川泰に「春から坂之上小学校へやってもらいます」と伝えていますから、亀之助は済生学舎廃校の直後に生まれたのでしょう。廃校当日の突然の帰郷の際に、産まれたばかりの亀之助をその手に抱いていたでしょうか?
長谷川泰には1男4女が居り、もう孫も産まれていたであろう年齢ですが、生まれ故郷に住む幼子というのはまた別の可愛さがあったのかもしれません。
そうして祖父の想いを受けた亀之助は、成人すると故郷で長岡中央病院の院長を務め、皆から慕われる医師となりました。

ふるさと福井村に得た「後継者」。
我が子のように手塩にかけた済生学舎を失い、同志たちとも距離を置き、孤独の底にあった長谷川泰の心に、亀之助が再び光を差し込みました。

最晩年に、長谷川泰は愛しい福井村を詩に詠んでいます。

縞袂相逢呼是仙 平生水竹有深緑
將疎尚密漸経雨 以暗還明遠在烟
薄瞑山家松樹下 嫩寒江店杏花前
秦人若解当時種 不引漁郎入洞天

〜唐沢信安先生の著書「済生学舎と長谷川泰」のあとがきにある解釈より。
“泰は、郷里長岡市郊外の静かな村、福井の里を「桃源郷」に見立て、仙人の住む所と考え、仙人達に会う為には、今日迄の一切の怨念を忘れ、子供の様な心境で理想郷の福井村に帰りたいと、詩文の中で書き残している。”

ここには清らかな望郷の心が表れています。

「同郷人の団結」と題して北越の済生学舎卒業生を前に語ったように、もとより長谷川泰の郷土への愛情には大変に深いものがありました。
ー長岡領福井村に生まれ、同郷の偉人たちと共に成長した多一少年。
ー故郷を焦土と化した戦争に怒り、瓦礫の中から立ち上がった長谷川泰一郎。
ー共に学んだ仲間たちと創った済生学舎で、民衆の命を救った長谷川泰校長。
今も残るその遺書には、冒頭に良寛の詩が引用され、上杉謙信と、良寛と、河井継之助への尊敬の念が記されているそうです。

明治45年(1912)3月11日、明治時代の終わるその年に、明治医学界の傑物・長谷川泰は70歳で永眠します。
常に長岡人として生き、嵐のごとき激しい人生の内に日本を動かすほどの大仕事を成し遂げると、故郷を想いながらようやく静かな休息を得ました。
葬儀では、故人を慕う済生学舎の卒業生、教師陣ら、千名を超す参列者が湯島天神の坂を谷中霊園へ向けて下って行きました。
それは、静かな雨の日でした。

【泰先生メモ37】長谷川泰の晩年 [2010年10月31日(Sun)]

「専門学校令」の発布の後、長谷川泰は親友の石黒忠悳を3度訪ねて済生学舎の存続を相談しています。
開校の相談役でもあった石黒を相手に、大学としての存続を強く望む泰でしたが、しかし石黒の考えは廃校でした。
つまりは“済生学舎開校の明治初期は少ない西洋医の育成は急務であった、しかし今、西洋医は増え、官立医学校も整備された”ということです。
そして「君も済生学舎創立の初志を達したのだから、ここいらでひと休みしなさい。」と語りかけました。

--明治36年(1903)8月30日、東京日日新聞などの広告欄には、済生学舎廃校を告げる長文が掲載されていました。

繰り返し書きますが、長谷川泰と済生学舎は時流を逃しました。
しかし一方の事実として、当時の済生学舎から明治時代の医師の過半数が誕生し、帰郷して日本各地で開業医となったこと。
それが無ければ日本の医療は、多くの民衆を救うことができなかったはずなのです。
長谷川泰が良寛と河井継之助と佐藤尚中から受け継いだ、『済生救民』(広く民衆を救う)の大志は、確かにそこに結実していました。



済生学舎廃校を告げる新聞が発行されたその当日。
長谷川泰の姿は、故郷福井村に在りました。
愛する済生学舎の、その在校生700余命を路頭に迷わせてまで突然姿を消した長谷川泰校長の傷心は、はたしてどれほどのものだったでしょう。
東京では石黒忠悳や川上元治郎と、教師仲間たちが学生の救済に駆け回っています。
越後の泰は、長谷川家菩提寺の智徳寺で祖霊に帰郷を告げるとそこに滞在し、しばらくを故郷で過ごしました。

その晩年、禅と書に親しみ相変わらず多種多様大量の読書に耽る長谷川泰翁。
東京府本郷の自宅には、済生学舎が隆盛を見せたあの時とは変わり訪ねてくる人影もまばらでした。
そうした日々を重ねるうちに、老いと死の孤独を感じる長谷川泰でしたが、そこにひとつの救済が現れたのでした。
【泰先生メモ36】済生学舎の窮地 [2010年10月31日(Sun)]

明治23年(1890)森鴎外の私立医学校撲滅を訴える「日本医育論」に端を発した帝大エリートとの対立。
それは、長谷川泰の内務省衛生局長時代に激化しました。

1.明治31年(1898)、帝大出身のエリート以外の医師の権利も守るべく医師会を設立しようという「医師会法案」への抵抗運動と議会否決。赤門派閥の医師会法案反対同盟には、かつての同志が複数引き込まれており、泰を苦悩させました。

2.明治34年(1901)、医薬分業(現代まで争点となっている)を求める「薬律改正」、その議会での可決に長谷川泰は抵抗します。前任の後藤新平からの“薬剤師の養成に努める必要はあるが医薬分業は急いではならない”という指示もあっての行動でしたが、多数を敵に回す結果になり辞任に追い込まれます。
総務長官・山縣有朋は長谷川泰を呼びつけ、その日の内に辞表を出せと迫りました。

3.そして畳み掛けるように、明治36年(1903)突如として発布された「専門学校令」。
それは私立校に官立校並の設備環境の整備をわずか1年という火急さをもって迫り、それをクリアすれば専門学校として認可。駄目ならば廃校という厳しい内容であり、事実上は済生学舎など私立校への攻撃を意図したものでした・・・。
その時、長谷川泰校長は多忙の極地にあり、衛生局長として101法案を立法化する活躍を見せるものの、それと引き換えに我が子とばかりに愛した済生学舎の整備には手が回らない状態なのでした。
そこへ来て、局長辞任僅か5ヶ月後「突然の専門学校令発布」は、結果、済生学舎にとって致命傷となってしまったのです。

もとより長谷川泰校長には、済生学舎を「大学に昇格させたい」という目標があり、それに向けて必死の融資願いを続け、政治的に対立していた文部省にまでも懇願する姿勢を見せます、しかし残念ながらそれは実りませんでした。
長谷川泰が委員を務めた医術開業試験の管轄も、内務省から文部省へ移されてしまいます。

次回【泰先生メモ】は長谷川泰の晩年です。
【泰先生メモ35】下水道法成立 [2010年10月30日(Sat)]

私たちのふるさと長岡に、上下水道整備の先進をもたらした長谷川泰の活躍。
長谷川泰の公衆衛生に向けたその執念は、多一と呼ばれた少年時代にさかのぼります。

「水腐組」と呼ばれた故郷福井村周辺では、洪水で溜まった汚れた水「腐り水」が疫病の温床となり、自身も4歳の頃の赤痢で死の恐怖を体験しました。
※当ブログ関連記事「腐り水との戦い」

15歳で学んだ長善館でも、かつて良寛が憎んだ「腐り水」の害を目の当たりにしました。
<長善館門下生たちは「大河津分水」建設による治水の確立に活躍しています。>
※当ブログ関連記事「信濃川の試練が育てた偉人たち」

26歳、北越戦争では負傷兵の多くが不衛生が元で傷からの病に倒れます。西洋の最先端の外科医術を持ちながら、恩人・河井継之助が死しても成す術を持たなかった自分に怒りました。
※当ブログ関連記事「北越戦争に従軍」

37歳、東京府病院長時代には、開国と西南戦争が招いたコレラの危機に立ち向かい、臨時の対策病院の院長も務めました。幼少期の故郷の光景がよぎったのではないでしょうか。
※当ブログ関連記事「済生学舎の発展」

46歳、大日本私立衛生会の席上で上下水道の整備を熱弁。同年、後藤新平との対談では政府の不見識への怒りをぶつけています。

50〜51歳、伝染病研究の世界的権威・北里柴三郎を助けるために各所で熱弁。後藤新平とも同調し、福沢諭吉らと共に北里柴三郎の恩人と称されました。
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<前編>」
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<後編>」

52歳、明治27年(1894)からの日清戦争にあたっては、親友・石黒忠悳、後藤新平と共に検疫の整備に力を尽くします。

等々・・・長谷川泰は生涯を通して伝染病と公衆衛生に向かい合って来ました。

そして明治30年、長谷川泰55歳、再び大日本私立衛生会の席上にて。
「公衆衛生の価値について」と題した1時間に渡る演説では、病人が減れば労働力が増し結果として社会に公益をもたらすと語ります。
この時長谷川泰が叫んだ『町の中の金山を掘れ』という強烈なキャッチフレーズは、後藤新平の脳裏に焼き付き、翌年の内務省衛生局長「勧誘」では殺し文句として表れたのではないでしょうか。
すなわち、「長谷川君、我が国の下水道は君が造れ!」と。

明治33年(1900)、内務省衛生局長・長谷川泰により日本初の下水道法が成立。
路上に排泄物を捨てるといった江戸時代から続く悪習が絶えない東京の街に、公衆衛生の光が差し込むことになりました。

--明治35年に下水道推進の第一人者であった長与専斎(初代衛生局長)が他界し、同年に長谷川泰が政治闘争から衛生局長を辞任すると、明治政府は下水道整備の指導者を失います。
そして明治27年の日露戦争が近づくと、軍事色を増した政府から公益事業は放棄され、上下水道整備は中断します。

東京の上下水道整備の完成は没後後世に託しますが、長谷川泰が生涯に渡り日本の公衆衛生に残した功績は大きく、忘れられないものです。
そして私たちのふるさと長岡へ与えた大きな影響は以前に書いた通りです。

※当ブログ関連記事
「長岡の下水道への影響(前) 」
「長岡の下水道への影響(後) 」


【泰先生メモ34】内務省衛生局長就任劇 [2010年10月29日(Fri)]

明治31年(1898)3月、長谷川泰57歳。
そもそも役人務めを好まない長谷川泰でしたが、なんと「内務省衛生局長」の重任を引き受けることになりました。

前任の後藤新平は台湾総督・児玉源太郎の依頼を受けて、急遽台湾民政局長に就任することとなり、後任として長谷川泰に熱烈(無理矢理)なアプローチを掛けたのでした。
渋る長谷川泰でしたが、内閣総理大臣・伊藤博文までが懇願してきては遂に覚悟を決めざるをえませんでした。
(この時、後藤、伊藤より貴族院入りの口約束があったともされます。泰には政治家として衛生・医療の発展に更なる野心があったでしょうか。)
泰に相談を受けた石黒忠悳はこの就任劇について「まことに困難であり、親友として気の毒で・・・誰が行なっても好くは言われぬ役目だ。」と溜め息をつきます。

後藤新平は8ヶ条の引継書を残しました。
『1.医師会法案 2.薬剤師の養成 3.河川汚濁予防法 4.飲食品の検査 5.薬用阿片 6.汽車・汽船に関する衛生制度 7.工業衛生 8.清潔法』
長谷川泰は、5年の任期中にこの引継書の内容を含む101もの法案を立法化しました。

しかし、特に重大な問題であった1.医師会法案 2.薬剤師の養成に関する事項を忠実に推し進めることで、長谷川泰は東大赤門派閥との間に決定的な対立を招きます。
石黒忠悳の予言は当たり、内務省衛生局長の任務は苦闘の連続となりました。
結局、明治36年(1903)の「済生学舎廃校」の要因を作ってしまうのですが、引き続きの【泰先生メモ】では「3.河川汚濁予防法」に関わる長谷川泰の業績「下水道法」成立について書きます。
【泰先生メモ33】赤門派閥との対立 [2010年10月13日(Wed)]

明治一の庶民医として官制医療に挑戦し続けた長谷川泰、時にお上に楯突く形になったのは「不可抗力」であったのかどうか。
ともかく、政府との喧嘩が絶えませんでした。

官制医療との決定的な対立は、文学者であり、劇作家であり、軍医総監であり、高級官僚でもあるあの「舞姫」の作者「森鴎外」からの痛烈批判に端を発しました。
ドイツ留学直後の明治21年に発表した「日本医育論」の内容はつまり、私立校は設備も教員も不十分で時代遅れであるから、改善されぬなら法で処断すべし、との主張です。
これは同時に、帝大卒の若きエリート医師たちのプライドから発せられた声でもあったことでしょう。
またそれとは別に、「官尊民卑」の政治風潮は当時の大きな流れでもありました。

--この後、事実として済生学舎の教育は少しづつ時代とずれて行きました。
明治初期に開校した当時の日本は、旧藩学校が点在する程度の教育環境でしかなく、明治26年でも中学校(今の高校)がわずか47校。
ところが、明治33年には218校まで増加して若者の学力が増すと、私学の速成教育では不十分となるのも道理だったのです。

この時の森鴎外の主張に始まり、後年の帝大派閥いわゆる「赤門派閥」の長谷川泰包囲策が具体化すると、それが明治36年(1903)の済生学舎廃校の直接的要因となりました。

〜その赤門派閥に属した長岡出身の「小金井良精」は、少年時代に学問の道を拓いてもらったことから長谷川泰を恩人と慕っていました。
そして小金井良精が叔父に持つのは長岡の小林兄弟、つまり米百俵の虎三郎と、長谷川泰の親友の雄七郎であり、妻は森鴎外の妹という親族の構成です。
主張と人情の板挟みに遭った良精の立場はたいへん辛かったそうです。
〜長谷川泰の書生を経て帝大を出た「川上元治郎」は長岡栃尾の出身です。
彼もまた赤門派閥と主張を一つにしていましたが、済生学舎が廃校になると学生救済のため奔走します。
業界紙・日本医事週報社長だった川上は各所に呼びかけ、長谷川泰と親交の篤かった「山根正次」がその嘆願を受けて「日本医学校」を設立します。
それが現在の「日本医科大学」の基礎となりました。



長谷川泰と済生学舎は時流を逃しました。
しかし一方の事実として、当時の済生学舎から明治時代の医師の過半数が誕生し、帰郷して日本各地で開業医となったこと。
それが無ければ日本の医療は民衆を救うことができなかったはずなのです。
泰先生メモでは、明治30年代から更に長谷川泰の功績を追って行きます。
【泰先生メモ32】済生学舎の野口英世 [2010年10月09日(Sat)]

言わずと知られる野口英世。
各国の有名大学で博士の称号を次々と獲得した細菌学の権威。今でも日本医学会きっての英雄として知られます。
野口がその生涯を捧げた細菌学。その出発点が「済生学舎」にありました。

<唐沢信安先生の著書「済生学舎と長谷川泰」を元に書かせて頂きます。〜今日まで済生学舎時代の野口像は想像で書かれる事が殆どだったそうですが、現在、唐沢先生はじめ日本医史学会による研究にが進められています。唐沢先生は、残りの生涯を野口英世研究に使いたいと情熱的にお話されています。>


猪苗代の貧しい農家に生まれた野口清作(幼名)には、官立の医学校で学ぶ事はできませんでした。
そこでまず、当時の「医術開業試験」に合格し医師になることを目指します。
その為のチャンスがあったのが、当時すでに全国に名を知らしめていた私立の医師育成予備校「済生学舎」でした。
時代は日清戦争終結の翌年。この時、清作19歳。
貧しさを支えた母親・シカさんへの愛情の深いことは有名ですが、辛い別れとなったことでしょう。

既に故郷福島の会津若松の渡部鼎(かなえ)医師に医学の基礎を学んでいた清作は、前もって開業試験の前期試験に合格した後、済生学舎に編入。前期分の基礎講習は省き、実習を学びました。
支持者の血脇守之助からの仕送りに頼っていましたが、必要な教科書を購入すると生活費は殆ど残らないような、切り詰めた生活を送っていたようです。

そして済生学舎で清作の熱意に火を点したのが「顕微鏡科実地演習」「黴菌学」など、細菌学に関わる講義だったわけです。
当時の担当講師は、ドイツミュンヘン大学への留学帰りの「坪井次郎」でした。
--長谷川泰校長は、かつて坪井の父に蘭学を学んだことから、特に親しい仲だったそうです。
--坪井次郎は長谷川泰が開校の議案を衆議院で提出した「京都帝国大学医科大学」の、初代学長になった人です。
清作が習った講師は他に、内科/長谷川順次郎(泰の弟)外科/田代義徳(明治外科学の泰斗)、丸茂文良(済生学舎で世界初のレントゲン医療実験)等々です。
同時期には青山胤通、入沢達吉ら、帝大出身の若きエリート講師の姿もありました。
後に野口英世は当時の講義の思い出を、臨床講義は愉しく、目に焼き付いて忘れられないと語っています。

さて、野口清作の名は済生学舎の卒業生に向けた定期試験のリストにありません。
これは清作が「短期間で独自の勉強法を駆使した」とされています。
講義で会得した知識を独自に組み立てて、後期試験にスピード合格したわけです。まさに天才野口英世ならではのエピソードではないでしょうか。

卒業の後、野口は順天堂に勤務して済生学舎出身の「菅野徹三」の指導を受けています。
更に細菌学の研究を進める中、「日本細菌学の父・北里柴三郎」に憧れを抱いた野口は、菅野徹三、血脇守之助、川上元治郎(当時日本医事週報社社主/長谷川泰の元書生)らの後押しを受けて伝染病研究所の助手に転職しました。
菅野徹三はその時発行された順天堂の会誌で、野口へ向けてあたたかい祝福の言葉を述べています。
伝染病研究所では、これも済生学舎出身の「浅川範考」の指導の元で働いています。
こうして見ると、青年野口清作は、実に多くの支持者に囲まれていることが分かります。
努力と、そして人間的魅力の成せるものであったと思われます。

このような経緯を経て青年野口清作は、皆さんご存知の世界の野口英世へ成長を遂げるのでした。

<こぼれ話>
野口清作は済生学舎在学中に、同郷の女学生に初恋をしていました。
清作はラブレターを届けましたが、彼女の熱意は恋愛よりも医業に向いており失恋。
〜夏の夜に 飛び去る流星 誰か之を追ふものぞ 君よ快活に 世を送り給え
これは、清作が「僕はもう追いかけません、どうぞお元気でという」失恋の哀しみを詠んだ歌です。
男女共学の済生学舎ならではの、甘酸っぱいエピソードでした。
【泰先生メモ31】北里柴三郎を支援<後編> [2010年10月08日(Fri)]

北里柴三郎を支援<前編>からの続き

公衆衛生・予防医学について、自身と志を一つにする北里柴三郎。
その冷遇が長谷川泰には許せませんでした。
明治25年(1892)中央衛生会の席上でドクトル・ベランメーが吠えます。
「世界的な大学者北里柴三郎を迎えて、研究所ひとつ用意出来んとは何事か!」
この時結局、国庫からの財政支援は得られませんでしたが、「内務省衛生局長・長与専斎(日本の衛生の先駆者)」の依頼のもと「福沢諭吉」が土地代と建築費の全額に私費を投じ、設備には財界の「森村市左衛門」の支援を受け、「私立伝染病研究所」が芝公園に設立されました。
北里へ向ける大きな期待が伺い知られます。

折りに合わせたかのように、政府内の官制医学派閥からは、北里の活動に対抗するかのような「文部省主導の国立」伝染病研究所及び付属病院設立案が衆議院に提出されました。
それを受けて長谷川泰議員が立ち上がり、カウンターパンチの演説を打ちました。
まず、帝国大学医科大には既に衛生学の研究室があることを強調。次に、ドイツコッホ研究所で多大な実績を収めた北里柴三郎の意見書を詳細に説明しています。

--ここで一旦長谷川泰の交遊の記録を眺めてみると、泰自身によく似た性格の激しさを持った人物には、河井継之助、相良知安、そして後に「雷親父」と呼ばれた北里柴三郎が挙げられると思われます。
北里もまた強気だなと思われるのは、長谷川泰が衆議院での訴えの中で読み上げた、以下のような内容の手紙からです。

『私は文部省所轄の伝染病研究所で働くことなど到底出来ません。いまさらあれこれと言いませんが、いかなる方策を採られようとも、文部省管轄の伝染病研究所で研究することは断じてお断り致します。』
『文部省に関連の無い独立の研究所にて、他人に嘴を容れられず思う様に研究を行なうことだけが、私のわずかばかりの望みであると察していただければ幸福の至りです。』

手紙の内容もさることながら、読み上げる者も強気・・・・しかしとにかく、二人の熱意は伝わり「私立伝染病研究所」は国費で補助を受けることで満場一致となったのでした。

波乱は続きます、明治26年(1893)当時の芝区愛宕に移転拡張が決まった「私立伝染病研究所」ですが、伝研は毒をまき散らすと誤解した住民の猛烈な反対運動が起こったのです。
これを受けた東京府知事は、私立伝染病研究所を運営する「大日本私立衛生会副会頭」であり内務省衛生局長の長与専斎に建設取り消しの意向を伝えました。
〜ここでまた、例の如く長谷川泰が立ち上がります。
「伝染病研究所を市内に置くも妨げ無し」との4時間に渡る大演説。
会場内は殺気立った聴衆の怒号が響く異様な空気、その中で武装した済生学舎の学生に守られての決死の訴えでした。
長谷川泰は、ロンドンやパリ、ベルリンの事例を取り上げて、伝染病研究所設立に害が無いことを懇切丁寧に解説しています。
この伝説的な4時間の演説を境に反対運動は鎮静し、愛宕町には無事、私立伝染病研究所が立ち上がりました。

北里柴三郎は後にも再三に渡る抵抗を受けますが、確実に実績を積み上げてながら、世界の予防医学の発展に寄与し続けました。
長谷川泰は同志として、常にその活動を支持し続けました。

l※当ブログ関連記事
「北里柴三郎記念館」

| 次へ
Google

Web全体
このブログの中
http://www.pecope.com

ジオターゲティング