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“話のタネ”14/盲目者への労り [2011年01月17日(Mon)]

 越後を流れる信濃川はたびたび氾濫を起こし、水が抜け切らずに「腐り水」となると、そこが伝染病(感染症)の温床になったという話は以前の記事に書きました。
 明治の行幸の際には、目を患った人のあまりの多さに驚かれた明治天皇陛下が、見舞金を御下賜されています。(長善館門下生の竹山屯が御下賜金を賜りました。)

※当ブログ関連記事
「腐り水との戦い」

 広大な八丁沖の沼地と、複数の河川に囲まれた長岡領北組福井村も例外ではなく。
 そこの医家で育った長谷川泰は、父の患者の中に幾人ともなく盲目の人を見てきたでしょう。

 明治44年(1911)、盲目の方が多く従事した「あんま」の営業に対して厳しい取り締まりを行なうという動きがありました。
 さらに、失明していては到底合格できそうもない難解な試験を課すというのです。
 当事者たちの嘆願は聞き入れられず、そこで長谷川泰先生の元に相談があったのでした。
 伝染病と戦い、下水道法を可決させた時と同じく、泰先生の心中にはやはり「腐り水」のことがよぎったでしょう。
 先生は当局との交渉を快諾。関係者の間を奔走し、常識的な試験のみを定めることにさせました。
 
 先生が70歳で亡くなったのはその翌年ですが、雨の中湯島天神の坂を下る葬列には、手を引かれ杖を突き歩く数十人の姿が目を引き、それを見る人は故人の義侠に心を打たれたそうです。
“話のタネ”13/役人嫌い [2011年01月16日(Sun)]

 心の師であったと思われる河井継之助同様、長谷川泰先生も強い者が大嫌いという性分がありました。
 どうしても弱い者に味方したくなる人なのです。
 反体制の気質から、政府から贈られる医学博士号を固辞したというのも有名ですが、この時にはまだ3歳の息子・保定を指差して「博士号はこの子にでもやってください」と言っています。
 というのも、その医学博士号は難物の長谷川泰に対する懐柔策であったとも考えられるからだそうです。

 今回は、そんな泰先生の議員活動のエピソードを。

 初期の帝国議会には、吏党(官吏寄りの政党の意味、本来は温和派と呼ばれました。)と、それに対する民党がありました。
 長谷川泰代議士は、もちろん民党所属であり、活発に政府攻撃を繰り返していました。
 近年にもそういう議員は居りますが、内務省内で椅子を振り回す大立ち回りを演じたこともあったそうです。

 国会の壇上に在っては「天下に三賊あり、華族に、官吏に、銀行の頭取」とやってのけ、こういった活躍ぶりが「ドクトル・ベランメー」の称号の由来になりました。
 とはいえ、皇族・華族・天皇陛下勅任の議員のみで構成される貴族院入りを目論んでいた長谷川議員でした。(権力内部からドラスティックに政治を動かそうとしたと推察)しかしそれに失敗すると、貴族院に毒舌を飛ばすのも忘れませんでした。
 
長谷川泰の毒舌というのは、いつも知的でユーモアがあります。名物議員として親しまれた所以でしょう。
 長谷川議員の発言の後には、議長が「笑い声で発言が聞き取れませんでした」と言う場面もありました。

 「薩長閥の闇将軍!」と、野次られたのは北越戦争での因縁も深い、彼の山縣有朋でした。
“話のタネ”12/訪問客の試練 [2011年01月15日(Sat)]

 明治時代の風刺漫画「名流漫画」に「長谷川泰氏の撃退振り」と題して描かれるほど、先生の来客あしらいは有名だったようです。


「名流漫画」より


 長谷川泰は、人を訪問するには夜討ち朝駆けを得意とし、門が閉じていれば玄関先で仏典を読みながら開く迄じっと待つ。親友の石黒忠悳などは、その好いターゲットだったようです。
 そんな長谷川泰先生宅の玄関には、常に「長谷川泰不在」の木札が掛けられていたそうです。そうして居留守を使いながら、奥では読書に没頭するなり、時には大声で話している声が聞こえるのですが、訪問者が声を上げれば「居ない者は居らん!」と怒鳴り返す始末。

 しかし、年の離れた同郷人の入沢達吉には特別待遇で、菓子まで出して他の者にはなかなか見せない自作の漢詩を詠んで聴かせました。
 済生学舎の教師も務めたこの後輩を、泰先生は随分と可愛がったようですが、後年の入沢は対立派閥の立場から済生学舎を激しく批判。この辺りの微妙な人間関係も、たいへん興味深いところです。

 同郷人の訪問客のエピソードといえば。
 ある時、先生宅の勝手口に「自分の持参した冷飯を炊きたての飯と取替えてくれ」「冷たいのと暖かいのと以外は損得はないでしょう」という図々しい学生が現れました。その頃の済生学舎は朝の5時から授業がありましたから、昼飯の弁当はとっくに冷めているわけです。
 そのような不遜な申し出に、柳子婦人はできないと大声で断じますが、屋敷の奥から「待て!」と泰先生。(やり取りに好奇心が湧いてしまったのでしょう。)
 書斎に通された学生は叱られるものと縮こまりましたが、先生は「君は禅学をやるのか?」「生まれは越後なのか?!」「喧嘩をやるくらいでなければ医者になれん」と、予想外にも会話が弾んだのでした。
 おまけに、先生に何か一筆書いてやると言われ、そこで学生が漢詩を所望すると「生意気に詩をやるのか」とご満悦、晴れて冷飯の交換が許されたということです。

 このように接客エピソード一つ取っても難物の長谷川泰先生ですが、そんな中にも同郷人への愛情が見え隠れします。


 今回の記事は、新潟県水原に開業された家田三郎先生著の「ドクトル・ベランメー」を元に書かせて頂いています。
 長谷川泰の人物像が浮き上がって見えるような、大変に痛快な文章でした。
“話のタネ”11/決闘申込 [2011年01月13日(Thu)]

 嘘か誠か、長谷川泰の逸話と伝説。
 本筋を外れたり、このたびの漫画には納まらない、しかし魅力的なお話などを“話のタネ”では紹介しています。

 自由放任と言われ「大いに遊び大いに学べ」が校風であった、医師育成校の名門「済生学舎」。そこで学生たちに畏れ敬愛された、名物教師の姿です。明治という時代を背景にお読み下さい。

 済生学舎では、解剖などの実習も行なわれていました。
 実習授業の日には熱心な女子学生たちは早々に教室へ入り、手術台の間近に肩掛けなどを敷いて陣取るのですが、それが気に食わない男子学生たちが居りました。男子は怒って長谷川泰校長に訴えかけますが、返答は「そんなことは自分たちの裁量でやれ」です。
 勉強熱心な者がわざわざ早出をして教師の近くに陣取ることに、何の問題があるでしょう?それに男子といっても多くが成人した学生たち、泰先生が自分で解決しろとあしらう気持ちも分かります。

 しかし、男子学生の一人が暴挙に出てしまいます。
 女子が床に敷いた肩掛けなどを、一切ひっぺがしてひとまとめにすると、あろう事かトイレに放り込んでしまったのです。
 しかもしかも、その男子生徒は校長の対応を不服とし、なんと決闘状を差し出して来たのでした。

 この事件への長谷川泰校長の対応が、また劇的です。
 決闘状を痛快と思った泰先生は、その学生が出席する教室に出向きました。手には「太刀」をぶら下げて・・・・。無論ですが鞘には納まっていたでしょう。そして学生たちに向かって「決闘を申し込まれた方は来ておりませんか?」と、丁重に訪ねたのでした。
 当事者もこれには名乗り出られずにいましたが、そんなことが執念深く何日も続と、周囲の友人たちからは校長への謝罪を勧められたそうです。

 もちろん、泰先生に本気で決闘をする意思があったわけはありません。相手の学生は自分同様のきかん坊だと知り、当人の心に響くような手法をもって、きつく戒めてみせたのでしょう。
 名乗り出て謝罪した学生にはその深意を伝え勉強に励むことを諭すと、「それにしても君の決闘状の漢文は立派だ」と大いに褒めました。泰先生自身も幼少のころから漢詩に親しんで来たもので、どこの誰に師事したなどの話題で話が弾んでいます。

 とにかくマスコミには自由放任を批判された済生学舎ですが、それに反して長谷川泰校長が教育熱心であったことを伝える逸話でした。
“話のタネ”10/祝勝運動会中止 [2011年01月12日(Wed)]

 明治28年(1895)春、済生学舎では上野公園で開催される毎年恒例の校内運動会の準備が進められていました。
 ちょうどその時、日清戦争での戦勝気分に街は沸き返っていましたから、今年の運動会はひとつ「祝勝運動会」と銘打って大々的にやろうとの声が上がったのでした。

 しかし、そこへ長谷川泰校長の雷が落ちます。
 --そもそも国際舞台で新進気鋭の日本が、旧態依然の清国(浅田次郎の「蒼穹の昴」の頃です)に勝つのは当然である。
 --そして屈辱なのは、フランス・ドイツ・ロシアから三国干渉を受け同胞の命と引き換えに得た遼東半島を失ってしまった、それの何が祝勝か!
 --今は臥薪嘗胆の中に国力を蓄える時だろう!
 ということなのです。

 随分と血気盛んなようですが、言葉には政府への批判が込められているようにも思えます。



 写真は明治25年の運動会での記念撮影です。
 田代義徳、山田良叔ら教師と学生たちが、今の小学生のように紅白帽を被っている姿には愛嬌がありますね。
 中央には長谷川泰校長と、息子の保定の姿もあります。
 写真には残されていませんが、頭蓋骨を図案にした校旗も掲げられていたそうです。頭蓋骨とは、解剖学の権威である泰校長らしいですね。
“話のタネ”09/済生学舎の人びと [2011年01月12日(Wed)]

 学生の出自にこだわらず広く門戸を開き、ドイツ式の自由学校教育を行なった「済生学舎」。
 そのためかどうなのか、学生も教師陣も個性派が揃い大変賑やかでした。史料から、その書き出しです。

 ・すでに開業している漢方医も入学させたので、老学生も多かった。
 ・現役帝大生の教師などは、学生よりも若いものだから随分とヤジられた。
 ・卒業に期限がないので、親がいつまでも開業試験に合格できず、親子2代で通う者もいた。
 ・力のある者は開業医の代診のバイトをやりながら学んだ。多くの貧しい学生との経済格差は大きかった。
 ・変わった生徒には、巡査を本業にしている者がいた。
 ・男女共学であるために、校内に「恋の病」が蔓延した。(野口英世も失恋を経験しています。)
 ・痴話のいざこざや男子学生から女子へのからかいは、風紀問題に発展するほどだった。
 ・男子学生相手に長谷川校長が脱線して話す「吉原論」などは、吉岡彌生の批判の的だった。
 ・しかし中には恋愛が成就し、晴れて結婚する者もいた。(済生学舎で「レントゲン」の技術を用いた世界初の医療実験を成功させた丸茂文良は、教え子と結婚しました。)
 ・軍医の先生などは、朝の乗馬訓練の帰りにブーツ(軍靴?)でやってきた。(三条出身の石黒宇宙治あたりでしょうか?)
 ・早朝の授業に、ビロウドの襟に黄色の縞模様の寝間着で教壇に立ったのは田代義徳(後に整形外科の権威)だった。
 ・入沢達吉(見附市今町出身)は、早朝の授業の寒さに「股火鉢」で授業を行なった。
 ・教師が教室に入る時には拍手と足踏みで歓迎し、授業が終わるとまた拍手で送るのが慣例だった。
“話のタネ”08/蒼龍窟の足跡 [2011年01月11日(Tue)]

 ドイツ医学派vsイギリス医学派?
 順天堂派閥vs適塾派閥?
 相良知安一派vs文部省?
 東軍vs西軍(薩長閥)?

 大学東校開校から様々な色合いを見せながら激化した学内派閥の対立の中、長谷川泰は長崎医学校に「栄転」となりましたが、泰の失脚が対立の決着の要因となったことは、泰先生メモにも書きました。

※当ブログ関連記事
「長崎栄転」

 その長崎でもひと暴れして見せた泰先生ですが、この地には一つの縁がありました。
 人生の師(と言って良いでしょう)河井継之助が山田方谷に師事した西国遊学の折り、足を伸ばして滞在したのが長崎です。継之助は長崎の光景に感動し、長く滞在できないことを惜しんでいます。
 長崎医学校長赴任の時、長谷川泰は32歳・・・奇しくも在りし日の継之助と同年齢での長崎入りだったのです。(満年齢による)
 継之助が西国遊学から帰藩した直後、長谷川多一が18歳の時に初めて二人は顔を合わせています。きっと土産話を聴かされたことでしょう。

 長崎当時の長谷川泰が、河井継之助の旅日記「塵壺」まで読んでいたとまでは考えられませんが、その異国情緒の街並に、かつての師の姿を重ねていたことでしょう。
“話のタネ”07/試験をしてやろう [2011年01月09日(Sun)]

 時代が明治に入って間もなく、泰先生が石黒忠悳と共に、大学東校の教師を務めていた時のお話。
 学校に新たなドイツ人教師を採用するというので、例によって結託した長谷川・石黒は「どれ、試験をしてやろう」と、築地の住処に出掛けました。
 新人教師だというのに、なんとも自信家です。

 そして住処に着いたがしかし、ドイツ人医師は生憎の留守で、しばらく待つが戻らない。
 (この時ドイツ人医師は、2人の同僚の教師で佐渡出身・順天堂門下の司馬凌海と晩餐に出掛けていました。)

 そうこうしている内に事件が起こります。
 泰が突然けいれんを起こし、倒れてしまったのです!
 石黒忠悳にはその症状に心当たりがありました。

 この前日の授業でのこと、泰が受け持った学生が解剖の実習を真面目にやらない。
 解剖に用いた屍体は、泰が手を尽くして手に入れたもの・・・人の苦労を知らない奴らだと大癇癪を起こして学生を怒鳴りつけ、その時地団駄を踏んだところが、床を踏み抜いて膝に怪我をしていたのです。
 石黒は、これはその傷から入った破傷風かと慌てて、泰を籠(明治時代にもまだ籠が残っていたのですね)で宿舎へ帰しました。
 泰の容態は重いものでしたが、幸い破傷風ではなく、数日寝込むと元気になりましたが、ドイツ人教師の採用はお流れになってしまいました。
“話のタネ”06/顔相を診てやろう [2011年01月08日(Sat)]

 再び、泰先生の困った酒癖について・・・

 ある時、好い気分で神田の土手を歩くと道端に占い師が居りました。
 そこで泰先生が戯れに相を診てもらえば、剣難ありと断じられます。
 すると泰先生、逆に占い師の顔相を見る真似をし、「あんたには水難が出ているから注意しろ」と。
 占い師がそれに異を唱えたところ、では証明してやろうと、占い師を担ぎ上げてなんと神田川に投げ入れようとしたのでした・・・・(幸い、同伴した書生に仲裁されます。)


その頃の泰先生の風貌。芥川龍之介ではありません。

 明治人の酔漢というのは、皆こういうものだったのではないかとフォローしておきたいと思います。

 実は、自身も晩年まで暦や顔相の占いを研究していた泰先生でした。
“話のタネ”05/出入禁止 [2010年12月27日(Mon)]

 長谷川泰先生が大学東校の教師時代のお話。

 美濃出身の土岐頼徳という人物がおりました。後に陸軍軍医総監になる方です。
 泰先生のひとつ歳下で、松本良順の幕府西洋医学所の同門であり、大学東校でも寄宿舎を共にしている仲間でした。
 この頃の土岐頼徳は実に酒癖が悪く、それと並び立つのが長谷川泰先生だったそうなのです。

 時に料理屋で暴れ、遂には行きつけの店を出入り禁止になってしまったのです・・・
 そこで一策を講じた悪友連。
 兼ねてから紳士的で素行が好く、裕福で評判の良い石黒忠悳を先兵としました。
 まず石黒が飲み屋の一室に上がり、その石黒に泰先生たちが面会を求めるという体をとったのでした。
 これには店主も降参したそうです。

 まだ、皆が20代半ばの頃のお話でした。
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