【峠】河井継之助記念館友の会会報 [2013年12月06日(Fri)]
長岡市河井継之助記念館の会報『峠』に、長谷川泰の内容が書かれました。
館長の稲川明雄さんによる連載の中でのことです。 幼き日の長谷川泰と、同年生まれで泰の盟友の外山脩造は、耳取の私塾「青鬣館(せいりょうかん)」で、井上五蔵に学びました。井上五蔵は庄屋の跡継ぎの農民でありながら、藩学のひとつであった「徂徠学(そらいがく)」を城下の藩校で学ぶと、農村の子らに教えた人です。 長谷川泰(現新組地区)も、外山脩造(現栃尾地区)も、農村の生まれ育ちです。それがやがては共に河井継之助の影響を受けながら成長し、その精神を受け継いだ者とされています。 その学びの根底には井上五蔵の教えがあったのではないかと、稲川明雄さんは書かれています。 長岡の城下町には、江戸時代より官民協働の藩風があったと言われます。 戊辰戦争後の「ランプ会」では、士族の三島億二郎と町人の岸宇吉などが中心となり、身分を越えた街の再建が語られました。それには「町人の米百俵」という喩えもされます。 さて、それでは、肝心の「米」を生産し、国力を支えた農民たちの活躍はどうだったのだろう? そう考える時、井上五蔵と二人の教え子たち、農村の偉人の姿が浮かび上がって来たのでした。 農民の中にも志があったこと。河井継之助は農民と交流し新しい社会作りを考えたこと。 そして継之助の理想を、二人の若者が明治時代に表したこと。 井上家の文書は現在見附市図書館に寄贈されており、研究が待たれます。 ※当ブログ関連記事 【多一と寅太】 さて、記事には長谷川泰と河井継之助の出会いのエピソードが紹介されています。 〜以下に引用 『伝説によれば、晩秋の時雨どきに村の道で出会ったという。当時、長谷川泰は家業の村医者をしており、それなりのプライドがあった。平素、侍に出会えば平民は土下座をしなければならなかった。土の上に直接、据われば大切な着物が汚れる。そこで、若い泰はそのまま立ちつくしていたというのだ。そこへ、つかつかと継之助が近寄り〜略』 いかにも、長谷川泰らしい振る舞いですね! 二人の出会いは外山脩造が仲介したと泰自身が語った説もあり、御当地伝記マンガ「長谷川泰ものがたり」では、その場面を描かせていただきました。 この記事の伝説と前後で合わせて描ければ、もっとドラマチックになりましたね。 |