講演会「長谷川泰と日本医科大学」にお越しいただきありがとうございました。
遅くなりましたが、その報告です。以下にブログ管理人の感想をまとめさせていただきます。
講師は東京から、日本医科大学医史学研究会の殿崎正明先生です。
同会の唐沢信安先生と、「長谷川泰ものがたり」の取材から今まで多大な御助力をいただいて来ました。
長谷川泰と山縣有朋の確執、長谷川泰の精神を体現した野口英世。ふるさとの偉人が日本史と連結する、ダイナミックな講座でもありました。
良寛〜河井継之助〜長谷川泰〜野口英世、彼らが同一の地平に語られる、これはなかなか他では聴けないことです。
山縣有朋との確執。
〜というよりも長谷川泰は、戊辰戦争からの対立には案外無頓着で、純粋に医の信念から明治政府を相手に暴れ回っていたような印象も受けました。
その山縣が糸を引く「専門学校令」による済生学舎潰しの裏で何が起こっていたのか、長谷川泰は気付いていなかったのではないかとの話がありました。「藩閥」に無頓着ゆえに、それが物を云うエリート社会で浮き上がっていたような気もします。
伝記マンガでも描いた様に、人や物事の好き嫌いは強くても出身や身分による差別が無い済生学舎。しかし校長の長谷川泰には越後人贔屓のエピソードが遺されてもいます。
この度の講演では、同郷の(つまりこの越後の)後輩医学者たちが山縣有朋に加担せざるをえず、長谷川泰を弾圧した事もじっくりと炙り出されました。地元の郷土史としては辛い視点ですが、大事な事実でもあります。東京の研究者である殿崎先生でなければ、なかなかお話頂けないことです。
そうして長谷川泰は孤独と失意のうちに没したと言われますが、山縣の死後になると済生学舎の再建に乗り出す同郷の後輩たち。〜涙します。
「廃校」した済生学舎の再建に尽力した山根正次は萩の出身、山縣有朋と同郷です。藩閥との折衝のためには、この人が立ったとの説があるそうです。
山根は廃校する長崎医学校から長谷川泰が見出だし、帝大に編入させ育てた医師でしたので。これも大変にいい話です。
さて、済生学舎OBで最大の名声を誇るのは野口英世。
アメリカから一時帰国して、その時に飲んだくれた相手は済生学舎の同窓生たちだったそうです。それもいい話に違いありません。
現在、野口の研究は科学的には評価が下に見直されています。そればかりか人格まで否定される事も・・・。
では何故彼の人気は根強いのか?それは『医療に命を捧げた医学者』など、世界を探してもそう居ないからだとのお話でした。
野口英世のその生きざまこそ、すなわち長谷川泰の「済生救民」の思想だと、殿崎先生は話されていました。その源流には、良寛(長善館)から得た『慈愛の心』があり、河井継之助から得た『経世済民』があるのだと、越後の郷土史に繋げられています。
長谷川泰の済生学舎を源流とする日本医科大学の建学の精神は、済生救民と克己殉行。〜世の為に生き民を救うことです。
日本医科大学OBの肥沼信次は、世界大戦中ドイツのリーツェンで医に殉じ、現地で英雄として奉られました。
日本では野口英世と同様、絵本になり、漫画になり、今も語り継がれています。
戊辰戦争で敗戦した長岡の外れ、貧しい農村から立ち上がった長谷川泰は古里のプライド。まさに後輩たちの生き様に重なるようです。
「子どもの時に長谷川泰を知ってれば、俺たちはもっと勉強したのに」という大人たちの言葉が顕彰する価値を物語っています。
新事実で驚いたことがあります。
詩人・中原中也の父は長谷川泰の済生学舎出身の医師だというのです!
(偶然の符号とは思いますが、中也の恋人、長谷川泰子を思い出さずにはいられません。)
中也の故郷は山口。つまり済生学舎因縁の山縣有朋と同郷なんですね。
〜歴史で因縁話を始めたらキリがありませんが、そういった中に発見があったりします。
医学史、長岡郷土史について大変に専門的で濃いお話をいただき、地元のお医者様にもお越し願いたい内容ながら、長岡医師会の会合の日に合わせてしまったのは、当会痛恨の手落ちでしたが、様々な方面からたくさんのご来場をいただきました。
講師の殿崎正明先生、ありがとうございました。