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【講演】北越戊辰戦争と八十里越 [2011年11月06日(Sun)]

 10月30日、三条市の諸橋轍次記念館で開催された、長岡河井継之助記念館館長・稲川明雄さんの講演「北越戊辰戦争と八十里越」に参加しました。八十里越の入口にほど近い下田という事もあり、今回のテーマに関心の深い方も多かったことと思われました、来場なんと100人の大盛況です。



 稲川明雄さんは、ご自身の足で2度八十里越の難路を歩かれ、詳しい取材を行なわれています。講演では、北越戦争終結後(長岡城落城後)の同盟軍と長岡藩軍の、八十里越での動向が解説されました。
 戦禍に巻かれて我が子を殺める母、略奪行為を恥じ自害する武士・・・当地の記録に残る戦争の悲劇は、普段の長岡郷土史の中ではなかなか触れられるものではありません。明治維新とは必ずしも正義の改革と言えたのか?その悲劇は、歴史を見直す糧とすべきと稲川さんは語られました。
 また、八十里越に比べればマシと、三島億二郎ら長岡藩士は復興までの苦難に耐える事ができたとも考えられています。

 長岡出身の人類学者・小金井良精の妻である小金井喜美子(森鴎外の妹)の書いた「戊辰戦争むかしがたり」によれば、9歳の良精も八十里を越えているそうです。(稲川さんの説によれば、軍医長谷川泰は八十里に同行してはいません。)

 長岡軍軍事総督であった河井継之助は、致命の重症を負いながら八十里(実際は八里ほどだがあまりに険しいため十倍に表現された)の峠を越えました。その道中で死を覚悟した継之助は、有名な「八十里 腰抜け武士の 越す峠」の自嘲の句を詠みました。
 それに対して稲川さんは、只見に抜ける道中の継之助は再び生きる気を起こしたのだと想像されました。担架に横になりながら見上げた空を自由に流れる雲が、継之助を生きる気にさせたと表現されています。
 しかし間もなく只見の地で継之助は力尽きますが、「商人になれ」と外山脩造の未来を示した最後の薫陶などは、前向きな精神あってこそのものだと確かに思えます。

 講演後の質疑応答では、来場者の質問に答えた稲川明雄さんが河井継之助を「現実的、真面目、優しい人」などなどと褒めちぎる場面がありました。同時に、山田方谷に民衆主義を学びながら民を守るために戦争回避に踏み切る事のなかった事を、今も継之助に問い続けているのだとも話されてもいます。その様子を傍聴しながら、これは本物の愛情だと感動いたしました。

 越後郷土史における戊辰戦争の検証は、その後の政治などマクロに捉えるばかりでなく、地域ごとにミクロに深く探っていくべきだと締められました。その一つ一つの集合が歴史の本当の姿を形作るのでしょう。
 稲川明雄さんの講演は、その時々のテーマに限らず常に「越後人気質」「長岡藩風」探るものであり、郷土史の基本を押さえるのに最適なお話だと思っています。この度も、大変に勉強になる講演でした。



 幼い日に西遊記などの中国の物語に出会ったことが切っ掛けとなり、生涯を通じて漢学と儒学の研究に情熱を傾けた諸橋轍次は、下田村の生まれです。「大漢和辞典」の編纂は歴史的な偉業となりました。
 諸橋轍次は少年時代の長谷川泰も学んだ漢学塾・長善館を「越北の鴻都」と呼び讃えています。(中国が漢の時代、優秀な人材を集めた鴻都門という学問の一派がありました。)

 諸橋轍次記念館(三条市公式サイト)
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