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新組地区の花火師たち [2011年01月22日(Sat)]

「長岡まつり公式サイト・長岡花火の歴史」
http://nagaokamatsuri.com/rekishi.html


上記の長岡花火公式サイトの年表によると、明治12年(1879)千手町八幡の祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい350発の花火を打ち上げたのが起源とされています。
そして市制の施行後、大正6年(1917)に「二尺玉」4発の打ち上げに成功した「田崎藤蔵」という花火師は、なんと新組地区の百束町の人なのです。

百束村の田崎藤蔵は、長岡北部では親分格の花火師でした。
田崎家の「煙火創業略歴」によれば、創業は江戸時代の嘉永4年(1851)で、親子2代70年に渡って活躍しています。
長岡や新潟だけではなく遠くは関西へも遠征し、大阪では花火大会で全国準優勝の実力者でした。
(新組郷土誌より)

長谷川泰が生まれた福井村にも、明治中期に活躍した小林松蔵・松五郎親子が居ました。(田崎の弟子ではないかと考えられています。)
現在、八幡社前に2箇所の煙火小屋跡があります。

筒場(現在の新組町)の恩田與平次は東京の「鍵屋」で修行をした花火師でした。その息子の故・恩田長次さんは、長岡一の三尺玉職人・嘉瀬誠次さんとの思い出を「長岡郷土史33号」で書かれています。

同じく筒場の安藤寅吉もまた田崎の弟子す。
安藤寅吉の子孫である安藤忠雄さんは、現在でも安藤煙火店として新組町で営業を続けられています。
その工房には、小中学生の社会科見学があるそうです。
安藤忠雄さんは長谷川泰を語る会のメンバーでもあり、昨年の長谷川泰翁杯親善少年野球大会ではプレイボールの花火を打ち上げていただきました。

このように、新組地区の花火の歴史はとても長く、ふるさとに残る貴重な歴史文化なのです。
新組地区の花火の歴史については、安藤忠雄さんのお話しをうかがった後に、また記事にしたいと思います。
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