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【泰先生メモ37】長谷川泰の晩年 [2010年10月31日(Sun)]

「専門学校令」の発布の後、長谷川泰は親友の石黒忠悳を3度訪ねて済生学舎の存続を相談しています。
開校の相談役でもあった石黒を相手に、大学としての存続を強く望む泰でしたが、しかし石黒の考えは廃校でした。
つまりは“済生学舎開校の明治初期は少ない西洋医の育成は急務であった、しかし今、西洋医は増え、官立医学校も整備された”ということです。
そして「君も済生学舎創立の初志を達したのだから、ここいらでひと休みしなさい。」と語りかけました。

--明治36年(1903)8月30日、東京日日新聞などの広告欄には、済生学舎廃校を告げる長文が掲載されていました。

繰り返し書きますが、長谷川泰と済生学舎は時流を逃しました。
しかし一方の事実として、当時の済生学舎から明治時代の医師の過半数が誕生し、帰郷して日本各地で開業医となったこと。
それが無ければ日本の医療は、多くの民衆を救うことができなかったはずなのです。
長谷川泰が良寛と河井継之助と佐藤尚中から受け継いだ、『済生救民』(広く民衆を救う)の大志は、確かにそこに結実していました。



済生学舎廃校を告げる新聞が発行されたその当日。
長谷川泰の姿は、故郷福井村に在りました。
愛する済生学舎の、その在校生700余命を路頭に迷わせてまで突然姿を消した長谷川泰校長の傷心は、はたしてどれほどのものだったでしょう。
東京では石黒忠悳や川上元治郎と、教師仲間たちが学生の救済に駆け回っています。
越後の泰は、長谷川家菩提寺の智徳寺で祖霊に帰郷を告げるとそこに滞在し、しばらくを故郷で過ごしました。

その晩年、禅と書に親しみ相変わらず多種多様大量の読書に耽る長谷川泰翁。
東京府本郷の自宅には、済生学舎が隆盛を見せたあの時とは変わり訪ねてくる人影もまばらでした。
そうした日々を重ねるうちに、老いと死の孤独を感じる長谷川泰でしたが、そこにひとつの救済が現れたのでした。
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