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【泰先生メモ35】下水道法成立 [2010年10月30日(Sat)]

私たちのふるさと長岡に、上下水道整備の先進をもたらした長谷川泰の活躍。
長谷川泰の公衆衛生に向けたその執念は、多一と呼ばれた少年時代にさかのぼります。

「水腐組」と呼ばれた故郷福井村周辺では、洪水で溜まった汚れた水「腐り水」が疫病の温床となり、自身も4歳の頃の赤痢で死の恐怖を体験しました。
※当ブログ関連記事「腐り水との戦い」

15歳で学んだ長善館でも、かつて良寛が憎んだ「腐り水」の害を目の当たりにしました。
<長善館門下生たちは「大河津分水」建設による治水の確立に活躍しています。>
※当ブログ関連記事「信濃川の試練が育てた偉人たち」

26歳、北越戦争では負傷兵の多くが不衛生が元で傷からの病に倒れます。西洋の最先端の外科医術を持ちながら、恩人・河井継之助が死しても成す術を持たなかった自分に怒りました。
※当ブログ関連記事「北越戦争に従軍」

37歳、東京府病院長時代には、開国と西南戦争が招いたコレラの危機に立ち向かい、臨時の対策病院の院長も務めました。幼少期の故郷の光景がよぎったのではないでしょうか。
※当ブログ関連記事「済生学舎の発展」

46歳、大日本私立衛生会の席上で上下水道の整備を熱弁。同年、後藤新平との対談では政府の不見識への怒りをぶつけています。

50〜51歳、伝染病研究の世界的権威・北里柴三郎を助けるために各所で熱弁。後藤新平とも同調し、福沢諭吉らと共に北里柴三郎の恩人と称されました。
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<前編>」
※当ブログ関連記事「北里柴三郎を支援<後編>」

52歳、明治27年(1894)からの日清戦争にあたっては、親友・石黒忠悳、後藤新平と共に検疫の整備に力を尽くします。

等々・・・長谷川泰は生涯を通して伝染病と公衆衛生に向かい合って来ました。

そして明治30年、長谷川泰55歳、再び大日本私立衛生会の席上にて。
「公衆衛生の価値について」と題した1時間に渡る演説では、病人が減れば労働力が増し結果として社会に公益をもたらすと語ります。
この時長谷川泰が叫んだ『町の中の金山を掘れ』という強烈なキャッチフレーズは、後藤新平の脳裏に焼き付き、翌年の内務省衛生局長「勧誘」では殺し文句として表れたのではないでしょうか。
すなわち、「長谷川君、我が国の下水道は君が造れ!」と。

明治33年(1900)、内務省衛生局長・長谷川泰により日本初の下水道法が成立。
路上に排泄物を捨てるといった江戸時代から続く悪習が絶えない東京の街に、公衆衛生の光が差し込むことになりました。

--明治35年に下水道推進の第一人者であった長与専斎(初代衛生局長)が他界し、同年に長谷川泰が政治闘争から衛生局長を辞任すると、明治政府は下水道整備の指導者を失います。
そして明治27年の日露戦争が近づくと、軍事色を増した政府から公益事業は放棄され、上下水道整備は中断します。

東京の上下水道整備の完成は没後後世に託しますが、長谷川泰が生涯に渡り日本の公衆衛生に残した功績は大きく、忘れられないものです。
そして私たちのふるさと長岡へ与えた大きな影響は以前に書いた通りです。

※当ブログ関連記事
「長岡の下水道への影響(前) 」
「長岡の下水道への影響(後) 」


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