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【泰先生メモ31】北里柴三郎を支援<後編> [2010年10月08日(Fri)]

北里柴三郎を支援<前編>からの続き

公衆衛生・予防医学について、自身と志を一つにする北里柴三郎。
その冷遇が長谷川泰には許せませんでした。
明治25年(1892)中央衛生会の席上でドクトル・ベランメーが吠えます。
「世界的な大学者北里柴三郎を迎えて、研究所ひとつ用意出来んとは何事か!」
この時結局、国庫からの財政支援は得られませんでしたが、「内務省衛生局長・長与専斎(日本の衛生の先駆者)」の依頼のもと「福沢諭吉」が土地代と建築費の全額に私費を投じ、設備には財界の「森村市左衛門」の支援を受け、「私立伝染病研究所」が芝公園に設立されました。
北里へ向ける大きな期待が伺い知られます。

折りに合わせたかのように、政府内の官制医学派閥からは、北里の活動に対抗するかのような「文部省主導の国立」伝染病研究所及び付属病院設立案が衆議院に提出されました。
それを受けて長谷川泰議員が立ち上がり、カウンターパンチの演説を打ちました。
まず、帝国大学医科大には既に衛生学の研究室があることを強調。次に、ドイツコッホ研究所で多大な実績を収めた北里柴三郎の意見書を詳細に説明しています。

--ここで一旦長谷川泰の交遊の記録を眺めてみると、泰自身によく似た性格の激しさを持った人物には、河井継之助、相良知安、そして後に「雷親父」と呼ばれた北里柴三郎が挙げられると思われます。
北里もまた強気だなと思われるのは、長谷川泰が衆議院での訴えの中で読み上げた、以下のような内容の手紙からです。

『私は文部省所轄の伝染病研究所で働くことなど到底出来ません。いまさらあれこれと言いませんが、いかなる方策を採られようとも、文部省管轄の伝染病研究所で研究することは断じてお断り致します。』
『文部省に関連の無い独立の研究所にて、他人に嘴を容れられず思う様に研究を行なうことだけが、私のわずかばかりの望みであると察していただければ幸福の至りです。』

手紙の内容もさることながら、読み上げる者も強気・・・・しかしとにかく、二人の熱意は伝わり「私立伝染病研究所」は国費で補助を受けることで満場一致となったのでした。

波乱は続きます、明治26年(1893)当時の芝区愛宕に移転拡張が決まった「私立伝染病研究所」ですが、伝研は毒をまき散らすと誤解した住民の猛烈な反対運動が起こったのです。
これを受けた東京府知事は、私立伝染病研究所を運営する「大日本私立衛生会副会頭」であり内務省衛生局長の長与専斎に建設取り消しの意向を伝えました。
〜ここでまた、例の如く長谷川泰が立ち上がります。
「伝染病研究所を市内に置くも妨げ無し」との4時間に渡る大演説。
会場内は殺気立った聴衆の怒号が響く異様な空気、その中で武装した済生学舎の学生に守られての決死の訴えでした。
長谷川泰は、ロンドンやパリ、ベルリンの事例を取り上げて、伝染病研究所設立に害が無いことを懇切丁寧に解説しています。
この伝説的な4時間の演説を境に反対運動は鎮静し、愛宕町には無事、私立伝染病研究所が立ち上がりました。

北里柴三郎は後にも再三に渡る抵抗を受けますが、確実に実績を積み上げてながら、世界の予防医学の発展に寄与し続けました。
長谷川泰は同志として、常にその活動を支持し続けました。

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「北里柴三郎記念館」

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