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【泰先生メモ38】長谷川泰の望郷 [2010年11月28日(Sun)]

戊辰戦争の後、長谷川泰が東京に活躍の場を求めると、福井村の長谷川家は親戚に託されていました。
そこに生まれた孫養子で、長谷川家の13代目にあたる「亀之助」を、晩年の長谷川泰はとても可愛がっています。
東京から学資の仕送りを頻繁に行い、その報告の手紙の多くは、幼い亀之助本人に宛てられていました。
そこには「お母さんを大事にしなさい」などと、我が孫に向けたかのような言いつけ書かれています。
明治42年頃の手紙で亀之助から長谷川泰に「春から坂之上小学校へやってもらいます」と伝えていますから、亀之助は済生学舎廃校の直後に生まれたのでしょう。廃校当日の突然の帰郷の際に、産まれたばかりの亀之助をその手に抱いていたでしょうか?
長谷川泰には1男4女が居り、もう孫も産まれていたであろう年齢ですが、生まれ故郷に住む幼子というのはまた別の可愛さがあったのかもしれません。
そうして祖父の想いを受けた亀之助は、成人すると故郷で長岡中央病院の院長を務め、皆から慕われる医師となりました。

ふるさと福井村に得た「後継者」。
我が子のように手塩にかけた済生学舎を失い、同志たちとも距離を置き、孤独の底にあった長谷川泰の心に、亀之助が再び光を差し込みました。

最晩年に、長谷川泰は愛しい福井村を詩に詠んでいます。

縞袂相逢呼是仙 平生水竹有深緑
將疎尚密漸経雨 以暗還明遠在烟
薄瞑山家松樹下 嫩寒江店杏花前
秦人若解当時種 不引漁郎入洞天

〜唐沢信安先生の著書「済生学舎と長谷川泰」のあとがきにある解釈より。
“泰は、郷里長岡市郊外の静かな村、福井の里を「桃源郷」に見立て、仙人の住む所と考え、仙人達に会う為には、今日迄の一切の怨念を忘れ、子供の様な心境で理想郷の福井村に帰りたいと、詩文の中で書き残している。”

ここには清らかな望郷の心が表れています。

「同郷人の団結」と題して北越の済生学舎卒業生を前に語ったように、もとより長谷川泰の郷土への愛情には大変に深いものがありました。
ー長岡領福井村に生まれ、同郷の偉人たちと共に成長した多一少年。
ー故郷を焦土と化した戦争に怒り、瓦礫の中から立ち上がった長谷川泰一郎。
ー共に学んだ仲間たちと創った済生学舎で、民衆の命を救った長谷川泰校長。
今も残るその遺書には、冒頭に良寛の詩が引用され、上杉謙信と、良寛と、河井継之助への尊敬の念が記されているそうです。

明治45年(1912)3月11日、明治時代の終わるその年に、明治医学界の傑物・長谷川泰は70歳で永眠します。
常に長岡人として生き、嵐のごとき激しい人生の内に日本を動かすほどの大仕事を成し遂げると、故郷を想いながらようやく静かな休息を得ました。
葬儀では、故人を慕う済生学舎の卒業生、教師陣ら、千名を超す参列者が湯島天神の坂を谷中霊園へ向けて下って行きました。
それは、静かな雨の日でした。

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