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【泰先生メモ36】済生学舎の窮地 [2010年10月31日(Sun)]

明治23年(1890)森鴎外の私立医学校撲滅を訴える「日本医育論」に端を発した帝大エリートとの対立。
それは、長谷川泰の内務省衛生局長時代に激化しました。

1.明治31年(1898)、帝大出身のエリート以外の医師の権利も守るべく医師会を設立しようという「医師会法案」への抵抗運動と議会否決。赤門派閥の医師会法案反対同盟には、かつての同志が複数引き込まれており、泰を苦悩させました。

2.明治34年(1901)、医薬分業(現代まで争点となっている)を求める「薬律改正」、その議会での可決に長谷川泰は抵抗します。前任の後藤新平からの“薬剤師の養成に努める必要はあるが医薬分業は急いではならない”という指示もあっての行動でしたが、多数を敵に回す結果になり辞任に追い込まれます。
総務長官・山縣有朋は長谷川泰を呼びつけ、その日の内に辞表を出せと迫りました。

3.そして畳み掛けるように、明治36年(1903)突如として発布された「専門学校令」。
それは私立校に官立校並の設備環境の整備をわずか1年という火急さをもって迫り、それをクリアすれば専門学校として認可。駄目ならば廃校という厳しい内容であり、事実上は済生学舎など私立校への攻撃を意図したものでした・・・。
その時、長谷川泰校長は多忙の極地にあり、衛生局長として101法案を立法化する活躍を見せるものの、それと引き換えに我が子とばかりに愛した済生学舎の整備には手が回らない状態なのでした。
そこへ来て、局長辞任僅か5ヶ月後「突然の専門学校令発布」は、結果、済生学舎にとって致命傷となってしまったのです。

もとより長谷川泰校長には、済生学舎を「大学に昇格させたい」という目標があり、それに向けて必死の融資願いを続け、政治的に対立していた文部省にまでも懇願する姿勢を見せます、しかし残念ながらそれは実りませんでした。
長谷川泰が委員を務めた医術開業試験の管轄も、内務省から文部省へ移されてしまいます。

次回【泰先生メモ】は長谷川泰の晩年です。
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