【泰先生メモ34】内務省衛生局長就任劇 [2010年10月29日(Fri)]
明治31年(1898)3月、長谷川泰57歳。
そもそも役人務めを好まない長谷川泰でしたが、なんと「内務省衛生局長」の重任を引き受けることになりました。 前任の後藤新平は台湾総督・児玉源太郎の依頼を受けて、急遽台湾民政局長に就任することとなり、後任として長谷川泰に熱烈(無理矢理)なアプローチを掛けたのでした。 渋る長谷川泰でしたが、内閣総理大臣・伊藤博文までが懇願してきては遂に覚悟を決めざるをえませんでした。 (この時、後藤、伊藤より貴族院入りの口約束があったともされます。泰には政治家として衛生・医療の発展に更なる野心があったでしょうか。) 泰に相談を受けた石黒忠悳はこの就任劇について「まことに困難であり、親友として気の毒で・・・誰が行なっても好くは言われぬ役目だ。」と溜め息をつきます。 後藤新平は8ヶ条の引継書を残しました。 『1.医師会法案 2.薬剤師の養成 3.河川汚濁予防法 4.飲食品の検査 5.薬用阿片 6.汽車・汽船に関する衛生制度 7.工業衛生 8.清潔法』 長谷川泰は、5年の任期中にこの引継書の内容を含む101もの法案を立法化しました。 しかし、特に重大な問題であった1.医師会法案 2.薬剤師の養成に関する事項を忠実に推し進めることで、長谷川泰は東大赤門派閥との間に決定的な対立を招きます。 石黒忠悳の予言は当たり、内務省衛生局長の任務は苦闘の連続となりました。 結局、明治36年(1903)の「済生学舎廃校」の要因を作ってしまうのですが、引き続きの【泰先生メモ】では「3.河川汚濁予防法」に関わる長谷川泰の業績「下水道法」成立について書きます。 |