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【泰先生メモ33】赤門派閥との対立 [2010年10月13日(Wed)]

明治一の庶民医として官制医療に挑戦し続けた長谷川泰、時にお上に楯突く形になったのは「不可抗力」であったのかどうか。
ともかく、政府との喧嘩が絶えませんでした。

官制医療との決定的な対立は、文学者であり、劇作家であり、軍医総監であり、高級官僚でもあるあの「舞姫」の作者「森鴎外」からの痛烈批判に端を発しました。
ドイツ留学直後の明治21年に発表した「日本医育論」の内容はつまり、私立校は設備も教員も不十分で時代遅れであるから、改善されぬなら法で処断すべし、との主張です。
これは同時に、帝大卒の若きエリート医師たちのプライドから発せられた声でもあったことでしょう。
またそれとは別に、「官尊民卑」の政治風潮は当時の大きな流れでもありました。

--この後、事実として済生学舎の教育は少しづつ時代とずれて行きました。
明治初期に開校した当時の日本は、旧藩学校が点在する程度の教育環境でしかなく、明治26年でも中学校(今の高校)がわずか47校。
ところが、明治33年には218校まで増加して若者の学力が増すと、私学の速成教育では不十分となるのも道理だったのです。

この時の森鴎外の主張に始まり、後年の帝大派閥いわゆる「赤門派閥」の長谷川泰包囲策が具体化すると、それが明治36年(1903)の済生学舎廃校の直接的要因となりました。

〜その赤門派閥に属した長岡出身の「小金井良精」は、少年時代に学問の道を拓いてもらったことから長谷川泰を恩人と慕っていました。
そして小金井良精が叔父に持つのは長岡の小林兄弟、つまり米百俵の虎三郎と、長谷川泰の親友の雄七郎であり、妻は森鴎外の妹という親族の構成です。
主張と人情の板挟みに遭った良精の立場はたいへん辛かったそうです。
〜長谷川泰の書生を経て帝大を出た「川上元治郎」は長岡栃尾の出身です。
彼もまた赤門派閥と主張を一つにしていましたが、済生学舎が廃校になると学生救済のため奔走します。
業界紙・日本医事週報社長だった川上は各所に呼びかけ、長谷川泰と親交の篤かった「山根正次」がその嘆願を受けて「日本医学校」を設立します。
それが現在の「日本医科大学」の基礎となりました。



長谷川泰と済生学舎は時流を逃しました。
しかし一方の事実として、当時の済生学舎から明治時代の医師の過半数が誕生し、帰郷して日本各地で開業医となったこと。
それが無ければ日本の医療は民衆を救うことができなかったはずなのです。
泰先生メモでは、明治30年代から更に長谷川泰の功績を追って行きます。
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