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【泰先生メモ28】済生学舎と女学生 [2010年09月29日(Wed)]

新校舎へ移転し、学生の数も膨れ上がった済生学舎は、明治17年(1884)3月に「東京医学専門学校・済生学舎」と改称を行ないました。
開校当時バラック以下のボロボロな私塾だった学び舎は、専門学校として威風堂々の再スタートを切ったのです。

当時の学生数は500人弱、教員は16名。
開校当時は外国語の原書だった教科書は、22種類の翻訳書が用意されるまでになりました。
当時は希少であった顕微鏡も、大小各3台を購入。(明治24年には管制学校並みの50台を揃える)
済生学舎では日本初の「幻灯」(今で言うプロジェクターですね)を使った授業が行なわれていました。
--後の明治28年(1895)、レントゲン博士による「X線」発見の翌年には、「丸茂文良」が済生学舎講堂で世界医学界初のX線実験を成功させるなど、時代の先端を行く医学校となっていました。

こうして一躍有名校となった済生学舎の存在は、医療の道を志す女性の向学心にも火を点しました。
明治17年7月、専門学校へ改称を行なった直後に済生学舎の門を叩く女性が居ました。
女性は当時31歳の「高橋瑞子」。日本で3人目の女医となった彼女は、難物の長谷川泰校長を三日三晩かけて説得し、男子校であった済生学舎の門を見事こじ開けます。
翌明治18年に女学生の入学を正式に許可。こうして済生学舎は「男女共学」「女子教育」についても先端を行ったのでした。
以来、その当時の女医志願者のほとんどが済生学舎に入学し、そこから59名の女医を誕生。国内のみらなず海外で活躍する女医も現れました。

済生学舎の卒業生で忘れてはならない「吉岡彌生」(当時の姓は鷲山)は、明治22年(1889)に入学し、明治25年には医術開業試験に合格し卒業しています。
前期と後期に分かれていた試験の、当時の合格率は前期が30%、後期が20%と言われる程の狭き門でした。
入学が許されたとはいえ、社会的な女性差別意識の強い当時のこと、粗野な者も多い男子学生の中で学問を続けることは容易ではありませんでしたが、勝ち気な彌生は頑張り抜きました。
彌生は、女学生にちょっかいを出す者に対して「女医学生懇談会」を組織して活動するリーダー的存在でもありました。

--明治36年(1903)、突然の「専門学校令」発布。
済生学舎を個別に攻撃するかのような内容だともされるこの法令の準備が水面下で進む中でした。
明治34年(1901)長谷川泰校長は“全ての女学生に退学を命じて”しまいます。
「専門学校令」がもたらす影響からどのような理由でそうせねばならなかったのか?当ブログでは調査中ですが、表向きには男女共学の風紀上の理由とされています。
いずれにせよ女学生たちを守りきれなかった長谷川泰校長の対応を、吉岡彌生は痛烈に批判していますが、すぐさま「東京女医学校」(現在の東京女子医科大学)を設立し、済生学舎の女学生を済ったのも彌生でした。



※当ブログ関連記事
「キャラクター案 吉岡彌生」

(共学が全て悪かったかというとしかし、中には校内で恋に落ちて結婚するカップルもあったということを付け加えておきます。)
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