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【泰先生メモ26】済生学舎の火災 [2010年09月27日(Mon)]

済生学舎では、朝の5時から晩の8時まで引っ切りなしの講義が開かれていました。
越後に比べて温暖な東京とはいえ、冬などは朝晩の冷えが厳しかったようです。
バラック以下と言われた開校当初の建物は、窓は割れ隙間風は酷く、ことさらに寒かったことでしょう。
あんまり寒いので、股の間に火鉢を置いての講義。しかし火鉢が与えられるのは先生方のみであって、生徒たちはどてらを羽織って授業でした。

後の新校舎になってからではありますが、済生学舎の講師を手伝っていた入沢達吉が、冬の早朝の授業など寝間着に外套を羽織り「股火鉢」で講義を行なったと言っています。

新校舎への大移転(明治15年)までの間に、済生学舎では火災がありました。
明治12年(1879)、やはり寒さの厳しい年の瀬の夜に、済生学舎の宿舎から火の手が上がりました。
その時、道を挟んで向かいの自宅で読書をしていた泰ですが、延焼は無いと判断すると再び黙々と読書を続けたそうで、後に駆けつけた見舞客を呆れさせました。
この失火により、宿舎の建物は全焼してしまいますが、長谷川泰校長はすぐさま自宅隣の住宅を購入し、そこを「外塾」(そとじゅく)と名付けて講義を再開したのでした。

この年は6月に東京でコレラが大流行し、全国で死亡者数が105, 786人に上った大変な年です。
(細菌学の北里柴三郎・野口英世が世に出るのも、長谷川泰の下水道法成立もまだ先の事、世の中には伝染病を防ぐ予防医学がありませんでした。)
火災や疫病の流行など、度々の事件に見舞われながらも、明治初期の済生学舎は発展の一途を辿って行くのでした。


追記

「外塾」には、長谷川泰の同郷人で、栃尾の庄屋の息子の川上元治郎も住みました。
少年時代の川上元治郎は長谷川家の書生としてそこで暮らし、帝大医学部(現東大医学部)へ別科生(医師の促成コースでしょうか?)として通っていたのでした。
川上元治郎は成人して同じく同郷の入沢達吉らと「東大赤門派閥」に属すると、長谷川泰とは対立してしまいますが、恩人に対してかなり辛い立場にあったと思われます。
しかし川上は、明治36年(1903)済生学舎廃校の際に友人の山根正次に懇願して、残された学生の救済を依頼します。
--その時に開校された「私立日本医学校」の現在の姿が「日本医科大学」です。
近年になり、同校出身の唐沢信安先生を中心とした日本医科大学医史学研究会による熱心な研究の成果により、日本医科大学は長谷川泰の「済生学舎」を源流とすることが正式な校史となりました。
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