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【泰先生メモ27】済生学舎の発展 [2010年09月28日(Tue)]

済生学舎の長谷川泰校長は、学舎の外においても数々の官職に就いて、超過密スケジュールで公私にわたる社会貢献を行ないました。

開校当時の代表的なものは「東京府病院長」への就任です。
「東京府病院」は、長谷川泰にとって順天堂時代からの師である佐藤尚中が大学東校校長時代に声を上げたことから始まります。それは、官立の東校病院が民衆に対して開かれていないことを問題視し、新たな病院の開設を宮内省に提案するものでした。
長谷川泰はその東京府病院の3代目校長として「区医師制度」(区ごとに医師を置き細やかに対応)を開始し、さらに貧しい人たちには無料の治療も行ないました。
(その時の無料診察券の図案は、なんと泰自らのデザインです!)
この医療による「貧困者救済」は、病に倒れていた佐藤尚中との師弟にとっての念願だったのです。
この時、泰が医師たちに呼びかけた「済恤(さいじゅつ)の心」とは、あわれみの心。ここにもまさに良寛の思想が表れています。

開国と西南戦争に起因する明治12年の全国的なコレラの大流行が起こり、死を怖れた民衆に呪術祈祷が蔓延する社会不安の時代には、「避病院長」(「ひびょういん」とは伝染病専門の臨時対策病院です)として奮闘。
明治天皇が脚気に悩んだ際には「脚気病院事務長」として活躍しています。

校外での活動が多忙な中、しかし長谷川泰校長が何よりも情熱を傾けていたのが、他でもない愛する済生学舎での医学教育であり、自ら受け持つ講義を休むことは無かったそうです。
そして長谷川泰が活躍の場を大きく広げると共に、その評判を受けて済生学舎も増々人気を集めて行きました。

明治15年(1882)1月、済生学舎は本郷から湯島へ移転、約1千坪の土地で施設を大幅に拡張しています。
長谷川夫妻もその敷地内に住居を構え、明治18年には待望の一子「保定」を授かると、そこで家族の生活が始まります。
済生学舎の付属病院として「蘇門病院」も新設され、山崎元脩と弟・長谷川順次郎が院長を務めました。
(この病院名は、越後山脈を代表する山「守門岳」から名付けられたものです。会津と長岡の狭間にそびえる山頂からは、かつて河井継之助が追っ手を逃れた八十里越を見下ろすことができます。「蘇門」とは長谷川泰が用いた号の一つでもあります。)

済生学舎発展の最中のことです。
移転の同年7月、長谷川泰の最大の師である佐藤尚中が、病からの復帰ならず55歳で亡くなりました。
自らも掲げた「済生」の志を受け継ぐ愛弟子と、次々と世に西洋医を生み出す済生学舎とを、頼もしく見守りながらの最期だったのではないでしょうか。


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