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【泰先生メモ17】教師として再起 [2010年07月28日(Wed)]

戊辰戦争は終結し明治維新が達成されたものの、世の中は未だ平静に戻るには至りませんでした。
明治2年(1887)戦火で荒れ果てた長岡。
敗戦の傷心を抱えながら、再起の機会を待っていた泰一郎の元に、遂に一通の手紙が届きました。
(泰一郎は、片貝の石黒忠悳の元に両親と共に身を寄せていたか、それとも福井村の復興に当たっていたでしょうか。)

手紙は、佐倉順天堂で友人だった相良元貞からでした。
その手紙の内容は、相良元貞の兄の相良知安(佐賀藩出身)が新政府の元で立ち上げた「大学東校」(東大の基礎)で、泰一郎にも教師に着任をすることを奨めるものでした。

こうして再びチャンスを得た泰一郎は、「長谷川泰」と名を改め、東京で教育者として新たなスタートを切ります。27歳でした。

この時の大学東校の教師には、親友の石黒忠悳(恒太郎)の姿もあります。自書の出版の為の上京から、そのままの大学東校着任となりました。
「賊軍」と蔑まれた敗戦者が中央で活躍するには、薩長との交流の深い石黒の力添えもあったかもしれません。
また、明治政府の方針「文明開化」に必要となる人材は旧幕府の出身者に多く存在しました。その中での経験が、長谷川泰を立場を超えて新政府に必要とされる人材に育てたのでしょう。
こうして長谷川泰の少年時代からの勤勉とその成果が、いつの日か彼の周囲に、立場の壁を超えた多くの同士を生んでいたのでした。

<こぼれ話>
大学東校校長・相良知安は気性の激しさでも知られ、学内の英学派閥と独学派閥の対立では、ドイツ人教師の採用を推して強行に戦っていました。
その先兵を務めたのが長谷川・石黒のコンビであり、イギリス人教師の追い出しを図り授業を妨害するなどの「活躍」を見せています。これが英学を推す土佐藩出身者の面子を潰す事になってしまいました・・・。
二人とも未だ血気盛んな20代でした。
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