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同郷人の団結 [2010年10月23日(Sat)]

「同郷人の団結」は、明治27年(1894)1月、済生学舎北越人懇親会に招かれた長谷川泰の演説を記録したものです。
その年長谷川泰は52歳、3期目の衆議院議員を務める年にあたります。



長谷川泰の同郷人に向ける想いが、この時の演説の中に表れています。

演説の中で長谷川泰は、先ず上杉謙信を北越の礎を築いたと褒め、戊辰戦争で西軍に付いた同郷の勤王家の先見を褒め、東軍の長岡藩を指揮した河井継之助を天下の英傑だと褒めます。
そして医学の分野では、池田謙斎、石黒忠悳を褒め、特に小金井良精は立場を利用せず自らの能力で成功した傑物だと賞賛しています。川上元治郎ら若手の台頭も取り上げ、国内の医学は北越が牽引しているとも述べています。

(興味深いのは、大政奉還後の明治元年(慶応4年)北越戦争の直前に、長岡藩の河井継之助と鵜殿団次郎を政府の参与に迎えるべく招状が下されようとしていたと語られていること。)
(後に大阪から上京していた外山修造との会話で、継之助が生きていれば大蔵大臣だと盛り上がったという話も愉快です。)

続けて、本題であるとして語ります。
当時の先端技術であった蒸気機関を喩えに「バッとただバラッと散ってしまったならば、船も車も動かぬのでありますけれども、一点に蒸気力を集めますと、機械を動かしますから、大層な列車を運ぶ、東海道五十三次も一晩だ!〜人間もその通りであります。」と述べます。
そして薩長出身者が思想を一つにし明治維新を起こした事に触れ、新潟県人もそうあるべきではないのかとの結論を述べています。
演説の結びで語るのはこうです。「団結の力をもって進んだならば、我らが北越の医学者たちは上杉謙信の快進撃のような盛り上がりを見せることが出来ると思います。」(会場は喝采)



--戊辰戦争では北越の中でも東西に意見を対立させ争い合った過去があり、長谷川泰は東軍の長岡藩に従軍し戦いました。これは歴史の中の事実です。
東軍は敗戦し、戦火に荒れ果てた故郷福井村へ泰が戻ると屋敷は全焼、しばらくは傷心を抱え呆然と過ごしていたといいます。
泰の気性を考えれば、敵方に対する憎しみも激しかったことでしょう。
また医師として、目前で次々と命が失われることは許し難い経験であったでしょう。
そういった体験があってか、以後の長谷川泰は生涯軍籍に身を置く事がありません。

--長谷川泰の言動を見ると、薩長閥とそれに賛同する同郷人への反骨が強くあったのは間違いがなさそうです。
それでも、同郷人として、殊に同じ医師として認め合う者同士には、恩讐や利害を超えて理解し合うものが根底にあったのではないでしょうか。
悲しい戦争が終わり新しい時代を迎えた時、異なる価値観の対立も、前向きな切磋琢磨であると捉えられるかもしれません。

--藩閥の対立は醜い権力闘争を起こしたが、旧藩体制から引き続いた地方分権と、残った藩風がせめぎあったことで競争が起こり、近代日本の発展につながった。
シリーズ藩物語「長岡藩」(現代書館)の中では、稲川明雄さんがそのような内容で書かれていました。
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