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入沢記念庭園 [2010年07月27日(Tue)]

長岡市中之島西野にある、入沢一族と池田謙斎生誕の地、入沢記念庭園を訪れました。

中之島村の入沢一族は、日本の医学界のために大きな功績を残しています。
入澤恭平は、戊辰戦争では新政府軍の軍医として奥羽まで従軍しています。
池田謙斎(入沢圭助、津和野藩の池田玄仲の養子になる)は、明治天皇の侍医となり、日本初の医学博士となった人です。 
その甥の入沢達吉は、東京帝大(現東京大学)の医学部長となり、大正天皇の待医頭を務めています。
一族で歴代天皇の侍医を務めた医の名門「入沢家」。そのルーツがこの越後の小さな集落にあります。



入沢家の土蔵を改装した資料館と、顕彰碑が並ぶ立派な庭園跡。
ベンチなども設置されて、地域の方の憩いの場となっている様子です。



資料館には入澤恭平、池田謙斎、入沢達吉の年譜が展示されています。

資料館内で購入できる池田謙斎の回顧録には、松本良順の指揮する幕府西洋医学所の後輩として、長谷川泰や石黒忠悳の名前も記されていました。
池田謙斎は長谷川泰の1歳上の同年代であり、明治の衛生に対する取り組みで協調することもありました。
明治21年(1888)池田謙斎が第一号の医学博士の栄誉を授かった際に、候補として名を連ねたのが長谷川泰でもありました。(泰は自ら辞退してしまいました。)

入沢達吉の属した東京帝大「赤門派閥」と長谷川泰とは、明治31年「医師会法案」等を巡り、しばしば政治的に激しく対立をしています。
しかし、長谷川泰は「俺の様な者が詩など作れるか?」と言いながらこっそりと嗜んでいた漢詩を、他の誰にも読ませないというのに、生涯の親友の石黒直悳と、文才のある入沢達吉にだけは読ませたというようなエピソードも残っています。
また、入沢逹吉は一時期済生学舎の講師を務めました。その頃の泰の自宅訪問客には、入沢だけに特別待遇でお菓子が出されたと言います、相当な可愛がり様だったのではないでしょうか?
その入沢が長谷川泰について語る時には「初めは褒めても、終いには必ず悪口になる」という、二人の微妙な間柄を示すとても面白い言葉を残しています。
泰の没後、全国の関係者から募った銅像建造金の寄付はを入沢だけが頑として拒んだそうです・・・実に興味深い関係です。
(泰生涯の同志、石黒宇宙治が銅像建造について「泰翁の性格なら本来望まないでしょう」との内容を述べていますが、入沢も同じ想いだったというのは空想的過ぎるでしょうか。)
入沢の長谷川泰(済生学舎)批判の動機には、当時の権力者山縣有朋を中心とする藩閥政治の影響も大きいと考えられます。

いずれにせよ、奇人の名声を鳴らした長谷川泰と肩を並べて付き合った人物たちは、皆大物であったのではないかと思われます。

入沢逹吉によれば、隣村の名医である長谷川宗済(泰の父)の名声は良く耳に入っていたそうです。


入沢記念庭園(長岡市観光課)
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/kouen/irisawakinen.html




オマケです。



入沢記念庭園前に設置された西野地区の案内図は、なんだか楽し気です。
てっぽう町、やっちぇ町、のんべえ町?
昔からの地名なのでしょうか。
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