今日、空港に向かう途中、タクシードライバーが、最初の国家元首の村だといい、1つの墓を教えてくれました。
Malietoa Moliとあります。英語版ウィキペディアを読んで見ると、1790年生まれ、1860年没、WSamoan KingWとあります。
よく分からなくなってきたので、英語版ウィキペディアですが、ザッと見てみたところ、自分が誤っていた部分があるので、この機会に簡単にポイントを挙げて見ます。
サモアのマタイ制度(fa'amatai)についてですが、マタイは基本的に家族の長。2011年の国勢調査で、人口の8.9%に当たる16,788人がマタイのタイトルを有しています。そのうち男性が15,021(89.5%)、女性が1,766(10.5%)。
大きな役割は、家族の土地の権利を守ること。さらに伝統社会、習慣、家族の幸福を守ることと考えられます。
ちなみに土地の所有権は、81%が私有地でこれら家族が有し(所有の仕方が家族の代表によるものなのか、フィジーのように家族で共同所有なのかは調べていないので分かりません)、15%が国有地、4%が国有で売買可能な土地だそうです。
81%と言ってもサモアは平地が山より少ないので、平地だけを取り上げてこの割合を見てみたいものです。
村が360程度あり、各村に複数のマタイがおり、マタイの間で代表のマタイが選ばれるとのこと。タクシードライバーは複数の村からなるディストリクトの代表もあると言っていましたが確認していません。ディストリクトの数もウポルとサバイで25程度とのことでしたが、行政区としては11ですね。間違っていました。
現代社会と伝統社会の繋がりですが、国会議員選挙に立候補できるのはマタイのタイトルを持つものだけなので、立法府は半民主的に伝統的権威によるものに見えます。米国が統治していたミクロネシア3国では伝統的権威と民主社会が線引きされているので、大きな違いと言えるでしょう。
次に王様?についてですが、これは西洋社会との関係が強そうです。ハイチーフのことを英語でキングということもあります。(反対に、例えばマーシャルでは男の酋長をイロージと言いますが、キリスト教でイエスもマーシャル語ではイロージ、キングもイロージと言います)
1800年代後半以降の動きは次のようになります。1880年代に2つの内戦を挟みながら、アメリカ、イギリス、ドイツで植民地利権の奪い合いあり、1899年に独領サモア(現在のサモア)と米領サモアに分けられました。1914年、第1次世界大戦勃発によりNZが独領サモアに侵入し、1920年にベルサイユ条約により国際連盟の下で、NZが委任統治することになりました。その後、第2次世界大戦を経て1945年に国際連合の下でNZ信託統治領、1962年に西サモアとして独立、1997年にサモア独立国に変更したという歴史があります。
このような列強に翻弄された歴史を持ちますが、1800年代後半からサモア人による独立運動が度々あり、太平洋島嶼国で最も早く独立を勝ち取ったのがサモア。現在の国名にある「独立国」という言葉に強い誇りが感じられます。
国王はいませんが、1962年に施行された憲法にO le Ao o le Maloという象徴としての国家元首のタイトルが設置されました。
この国家元首は4大パラマウント・チーフ(大酋長で、1つは現在空席)から、議会が議員による選挙で選出するそうです(議会が罷免もできる)。国家元首の役割は議会が決めた法律を承認する(この承認がないと効力を持たない)など象徴的な立場になります。
最初の写真に戻りますが、村の名前はMalie村、Malietoaとはトンガ語で「勇敢な戦士」を意味するそうで、その背景も興味深いものですが、初代国家元首はMalietoa Tanuafili IIということがわかりました。
タクシーの運ちゃんはこのことを言っていたんですね。
しかし、選挙を経るとはいえ、マタイが議員になり、法律を決め、投票で大酋長から国家元首を決めるというシステムは、何民主主義というのでしょうか?
フィジーもバイニマラマ首相の多民族民主主義国家への改革以前は、現代社会に伝統的権威が重しのようになっていましたが、反対に言えば、サモアから見るとバイニマラマ首相は伝統社会の破壊者に見えるのかもしれません。
バイニマラマ首相は、このままでは世界の変化に対応できなくなり、いつまでも外部からの援助に頼る国になるとして、無血クーデタを経て上記の改革を進めたのであり、バイニマラマ首相から見れば、サモアは固い社会だと感じているかもしれません。
サモアからの感情的とも言えるバイニマラマ首相に対する態度(特に2015年までが激しかった)がなぜなのか?という話があり、日本国内である専門家はフィジーの酋長系の人物がサモア首相に近いからだと分析していましたが、自分としては国の根幹に関わる「伝統社会」と国の統治を分離する動き、「伝統社会の破壊者」が大きな要因だったのではないかと思います。(地域秩序の変化、将来の自国への影響まで考えたのかもしれません)