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3月11日 [2018年03月11日(Sun)]

日立の実家にちょっと戻りました。
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昨晩、両親と兄といろいろ昔話をして、7年前の話に。やっと客観的に話せるようになったのかもしれません。

当時、自分は東京の財団の会議室で専門家の先生方と会議中でした。情報が徐々に明らかになるにつれて、深刻さが増していました。

その後、4日ほど日立の実家に電話が繋がらず、ニュースは東北ばかりで、震度6以上が何度もあった日立の情報はぽっかりと抜けていました。電話はなっているはずなのに誰もとれないということは、おそらく家が潰れて家族は駄目だったのだろうと覚悟していたのを思い出します。財団でも誰に話せるわけでもなく、直属の上司は仕事というし、メンタルが辛い時期でした。

15日頃に兄に連絡が取れ、家の周りのブロックが崩れたり、家の壁にヒビが入ったり、瓦が落ちたり、基礎にも亀裂が入っていることがだいぶ後にわかったそうですが、行政からのアナウンスは何もなく、電気ガス水が止まっている中、自力でなんとかやりくりしてる状況だと。

日立の港も高速も、一般道も、断裂していたため、物流が滞り、日が経つにつれ物が不足し始めていました。高速バスが走れるようになってから、米とか食料を買い込んで、何度も実家に戻ったことを思い出します。

親父はまだ体も元気で、元自衛官でもあったので、落ち着いてやりくりはしていたようでしたが。

あとは、都内にいると情報がリアルタイムで入るのに、現地では全く届いていないことが驚きでした。ちょうど原発が水素爆発を起こし、特に小さい子供は外出すべきでないというとき、現地には情報がなく、こちらから兄に連絡していました。

震災後初めてお互いに話したのは、少し大きくなった甥っ子と姪っ子に覚えてもらおうというのもあったのかも。
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