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太平洋島嶼国の仲間 [2020年09月19日(Sat)]

先週、パラオの仕事仲間とスカイプで話しました。
友達という感じでもなく、人と人というか、親戚というか、余計な気遣いも必要なく、全てを言わなくても察してくれるし、何かこう心が通じる安心感がありました。

決してみんながみんなそういうわけではないのですが、別のパラオの仲間の何人かとも時々連絡し合うけれども、彼らと話すとやっぱりこう分かり合える安心感があります。

フィジーにもバヌアツにもナウルにもキリバスにも、ああサモアにもトンガにもマーシャルにも、そっかツバルにもミクロネシア連邦にもいましたね。

共通しているのは、全てを言わなくても、お互いに察することが出来ること。例えば、どちらかが「ちょっと大変でさあ」というと、お互いに細かく追求することはなく、その表情とか口調とか空気感で、たいていイメージを共有できているものと思います。または相手が話し出すのをただただ待っていたり。

反対に、具体的に細かなことを言ったり、聞いたりするのは野暮というか、かえってビジネスライクな空気になってしまう。

彼らは、脆弱ではなく、島の厳しい環境を生き抜いてきた人々の子孫であり、土地に根が生えているというか、海洋を含めた島嶼環境・生態系の一部というか。

例えば、島嶼生態系が一本の木だとすれば、彼らはその木を歩く別の生物ではなく、枝葉なのか、花なのか、果実なのかわかりませんが、木の一部のような感じです。

また現地ではキリスト教の人が多いですが、日本で言えば日常生活に染み込んでいる道徳観とか神道とか仏教とかになるのでしょうが、日常生活に聖書があり、苦しい時も幸せな時も、聖書の一節を引用したりします。食事の時に「お祈りして」と頼むと高校生でも大抵、神に食べ物と機会と出会いなど感謝してくれる。(もっとも、日本の「いただきます」の意味を伝えると、いただきますの方が簡潔で良いと言われることもありますが)

何かこう、小さい島、小さな国、ではあるのですが、生態系の一部なのか、祖先からひく血なのか、キリスト教なのか、彼らの背後には、本当に大きな何かがあるというか。誰もがそうというわけではないですが、達観している。

日本に来ると電車に乗ったり、町を歩いて、「日本人は何に怯えているんだ?心配しすぎじゃないか」などと言われることも何度かありました。

一言で言えば、達観していて察することができる人たち、ってこと。故に、日本人にはなじみやすかったり、田舎の親戚に会うような安心感があるのかもしれません。
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