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ミクロネシア連邦チューク州独立に関する住民投票延期(1) [2020年03月04日(Wed)]

Radio New Zealand(2/29付)が報じています。

https://www.rnz.co.nz/international/pacific-news/410655/chuuk-independence-referendum-postponed-until-2022

今月(2020年3月)に予定されていた、チューク州のミクロネシア連邦からの独立の是非を問う住民投票を、2022年まで延期することが決まったそうです(現コンパクトが切れるのが2023年9月)。

国連非自治地域リストに掲載されているニューカレドニアや、パプアニューギニアのブーゲンビル州独立運動の話とは異なる空気感があると思うので、周囲が注目しすぎて煽ることなく、冷静にみてみたいと思います。

なぜ注目されるのかというと、チュークが独立すれば、中国と緊密な関係を構築し、米国自由連合の鉄壁の砦を崩すことになる可能性があると見ているからです。

中国云々に関わらず、冷静に見てみましょう。

戦後、現在のパラオ共和国、ヤップ州、チューク州、ポンペイ州(コスラエ州はポンペイの一部として扱われた)、マーシャル諸島共和国、そして北マリアナ自治連邦区の6地域が国連の下での米国信託統治領となりました。*グアムは1898年の米西戦争の結果、米国領となったため、これらの地域とは立場が異なります。

その後、米国はこれら6地域に主権付与を行わなければならなくなり、当初、6地域を1つの国であるミクロネシア連邦として独立させようとしていたそうです。パラオにあるエピソンミュージアムには、現在の4つ星のミクロネシア連邦の旗が、6つ星になっている旗が展示されています。

ここからは、10年以上前になりますが、ウエキ駐日パラオ大使(当時)、カブア駐日マーシャル大使(当時、現公共事業大臣)、トニー・デブルム外相(当時、故人)から個別に聞いた話が基になります。

1970年代に、米国としては、上記のように1つの国として地域を独立させようとしていたそうですが、各地の住民の考えとしては、それぞれに民族も言葉も違い、潜在的経済力も異なることから、さまざまな動きが出てきました。

まず、北マリアナが米国に留まることを決断し、1975年にコモンウェルス盟約を米国と締結、1978年に米国領の北マリアナ自治連邦区(コモンウェルス)となりました。

次に、マーシャル諸島が特に核実験賠償に係る問題などの要因からミクロネシア連邦の枠組みから離脱を表明、パラオはその地理的利点(アジア諸国に近い)やパラオ人としての誇りがあり離脱、枠組みに残った地域が、コスラエが州としてポンペイから分離され、4州となるミクロネシア連邦が形作られたそうです。

マーシャル諸島は1979年5月1日に自主憲法を施行し自治政府を樹立、1986年に米国と自由連合盟約(コンパクト)を結び、10月21日に独立しました(この過程で日本がマーシャル側の権利を守るために助けたことがあるという話を故デブルム大臣から聞いたことがあります)。

ミクロネシア連邦は1979年に自主憲法を施行し自治政府を樹立、1986年に米国と自由連合盟約を結び11月3日に独立しました。

パラオは、1981年に自主憲法を施行し自治政府を樹立、1982年に米国とコンパクト案に合意したものの、同憲法の非核条項とコンパクトが合致しないために、憲法改正の住民投票が7回にわたり繰り返され、コンパクトについてのみ非核条項を凍結するということが承認され、8回目の住民投票でコンパクト案が承認されたとのことです。そして、コンパクトを締結し、1994年10月1日に自由連合国として独立しました。


ちなみに、太平洋島嶼地域には、PIF(太平洋諸島フォーラム)の枠組みで1985年8月6日に署名され、1986年12月11日に効力が発生したラロトンガ条約(南太平洋非核地帯条約)があります。これは、核兵器(実験、配備)だけでなく、核物質の廃棄、核施設の建設、核物質の利用を認めないとするものです。豪州、NZは署名していますが、当時、まだ独立していないパラオ、独立間もないミクロネシア連邦、マーシャル諸島はPIFに加盟していなかったため、これに署名していません。

長くなったので、一旦切ります。
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