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さよならブルースさん [2019年05月20日(Mon)]

先日、マーシャルのブルース・キチナー外貿次官が亡くなりました。
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キチナー駐日大使のご子息、ハイネ大統領の義弟で、個人的には、優れた実務者だったという印象が残っています。

2006年〜09年、当時、自分は本官が臨時代理大使と会計領事担当官の2人しかいないマーシャルの日本大使館で、専門調査員として勤務していました。

2004年〜2007年ごろのマーシャル諸島は、対外的意思が不明確で、日本との関係、特に開発援助関連では、政府高官、閣僚、大統領それぞれが異なる話をすることで、日本側が少々距離を置き、相手の様子を見る状況となっていました。

特に、2007年半ば頃から、週に何度も、大統領補佐官、外務次官、官房長官に会いに行き、雑談やら日本側の考え方や動向やら、世界情勢のような話やらをして、横のつながりが欠けていた3者に同じ情報を共有し、相手の話をそれぞれに共有することで、マーシャル側の意思の統一を促しました。

その過程で、政変が起こり、事務方も徐々に代わりました。

故トニー・デブルムさんが外務大臣になった2008年、ブルース・キチナーさんが、外務次官補になりました。

実務的なやりとりは次官補と行っていましたが、ブルースさんが就任してから、のれんに腕押しのような状況から、打てば響く状況に変化していきました。

何でもYESというのではなく(そのYESのいくつかはNOを意味する)、しっかりと意見や要求が伝えられるようになり、何度も議論をして押したり引いたり、時に、写真の建物(当時外務省が3階にあった)のテラスで、一緒にタバコを吸ったり(当時は自分もタバコを吸っていた)して、それぞれの立場を理解しながら、最適解を探し、いくつかうまく行ったものもあったと思います。

ある時、大使館から書簡(本省からのものだったと思う)を届けに行ったとき、議員か大臣の名前に「Honourable 〜」というのを見て、「The Honourable 〜」だと教えてくれたのは、ブルースさんでした。

当時の日本大使館には対外的なカードが臨時代理大使だけだったため、事務方とのさまざまなことを自分が担い、締めのところや大臣以上の公式の話を臨時代理大使が担っていましたが、当時の自分のボスは、ブルースさんの仕事ぶりに対して、「キチキチキチナー」と称賛していました。

とにかくそれまでのマーシャル政府とは異なり、ブルースさんは、しっかりと交渉も仕事もし、書簡や資料を隅々まで読み、攻めどころをすぐに見つけ、時に手強い政府となりました。


2009年8月に笹川平和財団に自分が移ってから、最後に仕事のやりとりをしたのは2010年だったでしょうか。

その後、確か昨年、パラオのロイヤルリゾートのロビー近くを歩いていたときに、反対側から歩いてきたハイネ大統領一行とすれ違いざま、ブルースさんに声をかけられ、挨拶を交わし、「また議論しような!」と言われたのが最後になりました。

ブルースさん自身は、目立とうとせず、地道に大統領や大臣を実務面で、裏方として支えていました。この10年のマーシャルの発言力拡大の裏には、ブルースさんの貢献があったと思います。また、次の世代に、仕事の姿勢を示してきました。

マーシャル諸島にとって、大きな損失だと思います。

ブルースさん、安らかに。
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