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2026年01月22日

「人間は生まれながらにして皆んな平等?」という違和感について

栄誉創立者の尾垣です。本日Twitterのタイムラインで、とあるデモ活動の写真が流れてきました。そこにはプラカードで大きく、「人間は生まれながらに皆んなが平等です」というフレーズが掲げられていました。一見すると、とても「いい言葉」に見えますし、気持ちとしては理解できる部分もあります。しかし、私はどこか引っかかりを覚えました。「それは真理として言い切っていいのだろうか?」という違和感です。

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私が違和感を覚える理由は、人間がこの世に生まれてくる目的を「魂修行」として捉えているからです。私たちは、この人生一回きりの存在ではなく、何度も生まれ変わりを繰り返しながら、魂のレベルアップ・向上を目指している。そういう前提で世界を見ています。

この視点に立つと、「人間は生まれながらにして皆んな平等」という言葉は、少なくとも魂の段階においては そのまま当てはまらない ことが分かります。なぜなら、生まれてくる時点での魂の成熟度や、これまでに積んできた経験値は、まさに十人十色だからです。学びの途中にいる魂もあれば、かなり高度な段階にいる魂もある。それをすべて「スタート時点から平等」とは、なかなか言い切れません。

ここで関わってくるのが「三世因果論」という考え方です。三世とは、過去世・今世・来世 のことを指します。例えば、こんなケースを想像してみてください。

「無自覚で人の助けになる素晴らしい行いを日常的にしている、とても優しい若者がいた。しかしある日、交通事故の被害に遭い、若くして命を落としてしまった。」

今世の姿だけを見ると、「なんて理不尽なんだ」と感じます。「こんな優しい人こそ長生きしてほしいのに」「なぜ、よりによってあの人が」と、親切にしてもらった側の人は誰もが思うでしょう。

ここで三世因果論の出番です。今世の姿だけを見ると「善人」に見える人であっても、過去世ではまったく違う生き方をしていたかもしれないという視点です。もしかすると、過去世では無秩序な悪い行いを重ね、多くの人を傷つけてきたかもしれません。その過去世で積み残した因果が、今世で「応報」として返ってきている。その一部が、若くしての事故死という形で現れている可能性もあります。

もちろん、これはあくまで「可能性」の話であり、他人の因果を断定することはできません。

しかし、今世だけを切り取って「この不幸は不公平だ」と決めつけるのは難しいということを、三世因果論は教えてくれます。では、今世での優しい行いは無駄になるのか?というと、そうではありません。今世で積み上げた徳のある行いは、来世で必ず良い結果として返ってくるという「三世を貫く因果」の流れがあるからこそ、「人間は生まれながらにして皆んな平等」という一言では捉えきれない世界の深さがある、と感じるのです。

ここで一つ、大事なことをはっきりさせておきたいと思います。

私は、「魂のレベルが違うから、人間は平等ではない」「だから劣っている人は切り捨ててよい」といった考えを肯定したいわけではありません。それはむしろ、三世因果の考え方を最も乱暴に誤用している形です。

法律や社会制度の上では「生まれながらにして皆平等」という考えはとても大切です。生命の価値、基本的人権、尊厳──これらは魂のレベルに関係なく、すべての人に保障されるべきものです。

私が違和感を覚えるのは、「みんな同じスタートラインに立っている」「条件も成熟度も全て同じ」という意味で「平等」と語られてしまうと、そこに「三世をまたぐ長い魂の物語」が、すべて無かったことにされてしまうように感じるからです。

一方で、デモの場で掲げられた「人間は生まれながら皆んな平等」というフレーズには、スローガンとしての役割があります。
・障害があっても
・貧困に生まれても
・マイノリティとして生きていても
・外国人であっても

「人間としての価値は同じだ」「生きる権利は変わらない」というメッセージを短く伝えるには、ああした言葉が必要な場面もあるのだろうと、頭では理解できます。魂の視点から見れば「平等」とは言い切れない。けれど、現実の社会や人権の話としては「平等である」と言い続けなければならない。このギャップや矛盾感覚そのものが、今の時代を生きる私たちに課されたテーマなのかもしれません。

自殺予防活動において三世因果論や魂修行の話を持ち出すと、ときどき危険な方向に話が流れることがあります。例えば「あの人が死にたいほど苦しんでいるのは、過去世で悪いことをしたからに決まっている」「だから自己責任なんだよね?」「それなら放っておいていい」というような、冷たくて乱暴な論理です。

しかし本来、三世因果を知ることは「他人を裁くため」ではなく「自分を謙虚にするため」の知恵であるべきだと、私は思っています。
・自分が今恵まれている部分は、過去世からの積み重ねがあるのかもしれない
・だからこそ、その恵みを誰かのために使いたい
・逆に、今苦しんでいる人には、私には見えない深い背景があるのかもしれない
・だからこそ、安易に「努力不足」などと決めつけないようにしたい

そういう「心の姿勢」を持つためにこそ、三世因果の視点が活きるのだと思います。

「人間は生まれながらにして皆んな平等」というフレーズに、私が違和感を覚えた背景には、魂修行や三世因果論というスピリチュアリズムと仏教の世界観があります。魂の段階や過去世・来世まで含めた長い時間軸で見れば、人は決して「全く同じ条件」で生まれてきているわけではありません。

それでもなお、私たちは現実の社会の中で「人としての価値」「生きる権利」は平等である!と言い続けなければならない…。この二つの間にある矛盾や揺らぎこそ、もしかすると今世の私に与えられている、一つの魂修行なのかもしれません。

以上
自殺予防団体-SPbyMD-
栄誉創立者 尾垣洋輔
posted by 内田 at 17:00 | TrackBack(0) | コラム
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