─もし、自分には理解できないような障害や病気に対して「理解したいと思い読書したりセミナーに参加して少しでも理解できるよう努める人間」と、「理解できないことは理解しないし理解しようと努めることもしない人間」がいたら。どちらのほうが人間味を感じるだろうか。その障害や病気を抱えている人に寄り添う姿勢が伝わるだろうか。
言わずもがな前者であると僕は数年前から考えている。自分が他人からなかなか理解されにくい排尿障害に陥ってから日々苦痛に感じるようになった。
無理解な人間とは、ある対象について理解できないのではなく、少しも理解しようとは努めない人間のことである。
理解しようと努めていても、当人にしか理解できない内面的な障害や病気もあるだろう。だが、ハナから理解しようとせず、自分の価値観のみで、その障害や病気そのものを「否定」する人間はなんと冷血で、愚かであろうか...と、そのように排尿障害を通じて僕は感じるようになった。
人間関係がそれほど濃くない他人、例えば会社の同僚・クラスメイトといったその場所でしか会うことのない人であれば、無理解な人間との生活もその場限りで済むから何とかなるかもしれない。
しかしながら、無理解な人間を家族に抱えることは次元が違う。外泊時以外のほぼ365日、毎日をそうした人間と一緒に生活して過ごすことは非常にストレスが重たい。障害や病気によっては、家族が無理解な言動を繰り返すあまり、精神的または心理的にも状態が悪化して、最悪の場合「自殺」へと追い込まれてゆくこともあり得るため危険である。
例えば、排尿障害にしても「尿意があり膀胱にも尿が溜まっているにも関わらず自分の意思で排尿することができない」という状態を説明して、相手からその苦痛と精神的疲労をねぎらうような温かい言葉や共感を示してもらえた時には、心理的にかなり落ち着く。排尿状態は変わらなくても、心理的に「理解しようとしてくれている優しさ」を感じて落ち着くのだ。
ところが説明に対して「水分をきちんと補給してないのだから出るものも出なくなるのは当たり前!」「尿意があっても出ないのなら膀胱に溜まってると錯覚する膀胱炎だ!尿意は気のせい」などと聞き手が自分の価値観で判断して、勝手な決めつけを行い批難を浴びせるならば、心理的には苦痛がさらに上乗せされ、微塵も理解しようとさえしない相手の姿勢に怒りさえも芽生えてくるのだ。
もし、自分には理解できないような障害や病気に対して「理解したいと思い読書したりセミナーに参加して少しでも理解できるよう努める人間」と、「理解できないことは理解しないし理解しようと努めることもしない人間」がいたら。どちらのほうが人間味を感じるだろうか。その障害や病気を抱えている人に寄り添う姿勢が伝わるだろうか。
読書などの勉強をするまでいかずとも、共感的傾聴をしてくれるだけでも相手に対して心理的な安心感を覚えることができる。今、僕は障害者福祉施設のスタッフになりたいと思って求人を探しているところなのだが、くれぐれも「無理解な人間」側には堕ちたくないと日々思っている。相手の障害や病気のことを相手の心理までも含めて100%理解する!などということはエスパーでもない限り困難である。それでも、一人ひとりの苦しんでいる状態や抱えている困りごとを寄り添いながら理解しようと、僕は努め続けていきたい。
以上
自殺予防団体-SPbyMD-
代表理事 内田貴之
2019年11月10日
無理解な人間とそうでない人間の姿勢的な違いについて
posted by 内田 at 22:46
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