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年の瀬 [2014年12月24日(Wed)]
年の「瀬」の瀬はどんな意味なのか、何となく判りますが、出典などがあるのでしょうか。また、「年の瀬」とは何時から何時までをいうのでしょうか?

「瀬」は、広辞苑では、[湍]とともに、@川などの浅くて徒歩で渡れるところ。A水流の急なところ、B(渡るための狭い所の意から)㋑事に出会うとき。おり。場合。㋺その場所。立場。㋩点。ふし。とあります。広辞林でも同様ですが、なぜ、これが「年の暮れ」を意味するのでしょうか・・・その昔、特に、しっかり支払を済まさねばならない節季(セッキ。季節の終わり、盆と暮れの支払いは特に大事)の辛い時期を示したらしい、ようです。そう申せば、思い出があります。若かりし頃、無理して買いこんだ医学書や購読していた洋雑誌の支払いを溜め込んで、12月のボーナスで支払いました。代わりに、書店のカレンダーや手帳を頂いて今年も終わったなぁ・・・と思いました。私の年の瀬だったのですね。懐かしいです。今は、無理して本を買うという意欲がなくなっているのですが、この「年の瀬」ですが、ぜひ、読みたい数冊があり、早々と買い込みました。

年の瀬の一日、12月23日は天皇誕生日でした。
陛下は、お言葉の中で、「昨日(22日)は冬至でしたが、これから、段々、日が長くなる」と仰せでした。「今年も、さまざまな自然災害が日本をおそい、決して安泰であったとはいえない」とも仰せでしたが、日が長くなる・・・と希望を述べられたことに勇気付けられました。

そして、今年は、太陽歴では、その起点とされる冬至と、欠けていちど姿を消す月が復活する新月が重なる朔旦冬至<サクタントウジ>という稀な現象の年でした。朔旦冬至って、産経新聞のマンガ「ひなちゃんの日常」で、ひなちゃんがたくあんポリポリ・・・と、取り上げられていましたが、難しい言葉です。この現象は、地球が太陽の周りを一巡する1年と、月の満ち欠けの約1カ月の微妙な時間差から、おおよそ19年に一度発生するそうです。ただし、次回は暦上の齟齬から、38年後になるそうです。後期高齢者に足を踏み入れた私には、残念ながら、もう一度、この稀な事象を経験することは無理ですが、そんな風に考えると、日々、折々の暦、自然の移ろいも、二度とめぐりあわない貴重な一瞬と思います。

冬至には、かぼちゃを頂くと、いわゆる中風にならず長生きするとか、小豆粥を食べると病気しないとか、お風呂に柚子を浮かべるとか・・・優雅な習慣を実践しようとすると忙しいですが、関西地方では、ちょっと周りの移り変わりに疎い方に、少々嫌味をこめて、こんな風に申します。「冬至、十日<トオカ>経てば、馬鹿でも(日が長くなったことは)わかる」

さて、太陽が新たに蘇るこの日、月が再び満ちてゆくこの日を期して、新年を待たずに、新たな計画を立てては如何でしょうか?
民主主義 [2014年12月16日(Tue)]
過日の選挙、予測していなかったので体制が整えられず敗北したとの言がありましたが、政治家という仕事は専門職なのでしょうか?専門職なら、どんな事態にも対応すべき・・・では?

わが国では、「憲法」の下、衆議院解散後の総選挙は解散後40日以内に、任期満了による総選挙(今までたった1回しかなかったそうです)は、任期満了日の前30日以内に行うと定められています。そして衆議院議員総選挙は、少なくとも投票日の12日前に公示されます。
もちろん30日とか40日で政治家になれるとか、それで十分とは思いませんが、政治を担当する専門家として、選挙のために必要な準備期間とはどれ位なのでしょうか。もし、2年も4年も必要なら、担うべき責務と準備はどのようにバランスがとられるのでしょうか。など、ちょっと馬鹿げたと申すか、嫌味を申しましたが、「民主主義」という言葉を思いなおすきっかけでした。

1988年という昔、後に政権復帰を目指す選挙中に暗殺されたベナジール・ブット氏がイスラム圏初の女性宰相に選ばれ、パキスタンに「民主主義 democracy」が喧伝された時代、
PPP (Pakistan People’s Party)党首ベナジール人気が最高潮でした。その頃、住んでいた伝統的な街ペシャワールに、ある日、ベナジールが訪れました。大通りは人ひとヒト…しかしその99%は男性、その人ごみが、ベナジールの「デモォゥクラシィ」の発声の度に、どよめきました。
傍の英語を話せるオジサマに訊ねました。「あなたにとってdemocracyとは何?」

「?」 しばし後に、折り目のついたシャルワール・カミーズ姿の男性は申されました。
「ね、ベナジールは、われわれに、沢山パンをもたらしてくれるのだよ!」

当時、初めて紛争地近傍に暮らしたこともあって国際政治というものを少しかじりました。
当時出版された猪口邦子先生の吉野作造賞受賞の「戦争と平和」を手始めに、それまで読んだこともない分野の書籍を手にしました。モチロン!初めはチンプンカンプン。が、アフター5活動がほとんど不可能な生活環境の所為もあって、帰国の度に、買い求めた書籍を、停電しない限り、繰り返し読めた・・それしかすることがなかったこともあって、用語、言葉も、少しずつ、とは申せ、何となくですが、判るような気がしてきたものでした。

そして一番面白く読めたのはトクヴィル。
この方は、フランス革命でほとんどの一族が処刑された、つまり旧体制派の旧家の出身ですが、そんなことがきっかけで革新的考え…リベラルに関心を持ち、後にアメリカに渡りました。そして新しい19世紀に勃興してきたアメリカという国の民主主義を見聞して書いたのが「アメリカの民主主義」だそうです。生まれたばかりの民主主義の様子が描かれている古典的名著だそうですが、私は、そんな価値は判らず、見聞記のように読みました。ただ、正確ではありませんが、民主主義の先には、混乱があると予測していたと覚えています。

当時、毎夜のように砲声銃声が聞こえる環境では、何よりも平和が欲しい、そしてその平和の中で、人々が安全に安心して暮らして行けるための体制には民主主義が必要だと、ちょっと思いつめた時期でもありました。

民主主義の行き着く先が混乱とは意外な気持ちでしたが、現在の民主制の先進国、就中、ご本尊のアメリカ、そして投票率が52%というわが国の様子、さらに彼我に広がる格差や地方の衰退を思うと、トクヴィルの予想、予言は現実化しているのでしょうか。ただ、トクヴィルは、知識やモラルの重要性も唱えていたように思うのですが、折を見て、読み返さねばなりません。

「戦争と平和」 猪口 邦子著 東大出版 現代政治学叢書17 1989
アメリカの民主政治上・下 講談社学術文庫1987
函館 [2014年12月11日(Thu)]
ただ今、ロンドンですが、今日のブログは、先週の北海道の最後、函館についてです。先に記しましたように、同地の高橋病院の院長高橋肇先生からネット関連講義を受け、同病院のcare関連施設との連携を見学させて頂きました。

社会医療法人高橋病院理事長、社会福祉法人函館元町会理事長、一般社団法人元町会代表理事高橋院長を存じ上げたのは、本年8月上旬、東京で開催された日本病院会の院長幹部セミナーでした。高齢化に伴い、cure(病気を治すこと)とcare(健康状態低下を前提に、クライアントの生活をまるごと支えること)の連携はますます重要、などと云うのは机上の空論です。先生は、政策上導入されたcare施設を開拓するとともに、cureの拠点病院とそれらを有機的に統合する手段にシステムを活用していると仰せでした。目からうろこ、いえ、目がくらみました。先生は、地域ぐるみのネット活用実践で、2008年に「地域連携システム 道南MedIka」というシステムを導入し、この分野(u-Japanベストプラクティス2008優秀表彰)最優秀賞の「u-Japan大賞」をも受賞されているパイオニアなのです。
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/special/it/report/200808/507446.html

ご講演後、進行中の「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業研修生のための見学をお願いして、今回の押しかけが実現しました。4ヵ月の間に、さらに発展させられたお考えとネット網活用の実態を、長時間、面白く、判りやすくお話し下さいました。その後の実践をご指導下さったのは、先生の片腕的存在の滝沢さま、「元」看護師です。医師、それも大きな施設責任者の立場で構築されたネットは、多職間連携とは申せ、看護師が責任を持つ在宅センターのそれとは大いに異なりましょう。しかし、看護師が最大の力を発揮するであろう
careサイドもcureとの連携は必須、時間をかけても、研修生諸氏が良いネットシステムに行き着いて欲しいと思いました。

病院だけでなく、見学させて頂いた関連諸施設のスタッフご一同が、皆、ネット党の様子もむべなるかな、そもそも、循環器内科医であられる院長は、早くも明治27年に、この地に病院開設され、斬新技術活用とともに、社会科学としての医療の実践に邁進されたご先祖さまのDNAをご継承されているのでしょう。病院の理念(写真)も、多くの病院のそれと一味異なりますし、昭和38年の院内保育所開設もかなり早い(私は、昭和40年代の国立病院で、保育所開設交渉に苦労しました)ですが、過去十年余の、老人病棟、老人介護支援センター(函館市より委託)、介護老人保健施設、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、訪問介護ステーション、介護病棟、特殊疾患療養病棟、認知症高齢者グループホーム、小規模多機能施設を次々に開設された上、それらの間の連携がなされています。電子カルテ、クライアントが電子ペンで記載すると、瞬時とは申しませんが、数分後には、関係者にそれが伝わる・・・そんなシステムは、人口減と高齢化を先取りした、保健医療による地域安定化とも申せます。

その高橋病院の歴史からは、函館の歴史とともに、高齢社会日本における保健医療の在り方が判る気がしました。病院開設は西暦1894年、日清戦争の年です。日清戦争では、当時の
「朝鮮国」内で発生した農民暴動/戦争をきっかけに、日本と、当時は「清国」であった中国が、あえて申せば、朝鮮半島の支配をめぐって戦いました。わが国は、この戦争に勝ち、一躍、国際社会に足場を築くと共に、中国大陸の遼東半島などを占領しました。明治維新(1868)以来、西欧列強に追い付き追い越すため、富国強兵政策をとってきた東洋の小国日本の政策が成果を上げた・・・と同時に、以後、わが国の侵略姿勢が強まるきっかけにもなったと、私は思います。そしてその頃、北海道では、室蘭や小樽、そして函館港が栄えました。

そう申せば、函館は、戊辰戦争最後の函館戦争(1868-69)の地、明治政府軍が最後の幕府側勢力を制圧し、日本の中世の幕を引いたところでもありました。現在の函館市立病院は、1860(万延元)年、北海道初の西洋式病院ですが、函館戦争当時の院長は、敵味方なく戦傷者を治療し、日本の赤十字活動の魁ともされる高松凌雲(夜明けの雷鳴)、そして高橋病院開設者高橋米冶先生も、その卒業生です。

先日、有名な函館の夜景も人口減のために、灯りのない黒いスポットができているとの新聞記事がありました。でも、マイナス1,2℃の函館山から拝見した景観は冷気の中で輝いていましたし、イルミネーションが見事な函館港は多数の観光客で賑わっていました。

大いに見聞を開かせて頂いた高橋病院への再見学をかねて、また、行ってみたいところが増えました。

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高橋病院理念


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函館の夜景


注:
戊辰戦争<ボシンせんそう>:1868(明冶元年) -69(明2)、薩摩、長州藩らによる明治新政府と、旧幕府側および奥羽越列藩同盟<陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)諸藩が新政府に抵抗して結成した同盟>が戦った、わが国近代化前の内戦。明治政府の勝利で、国内対抗勢力は消滅し、新政府が国際的に認められるように。
函館戦争:1868-69。府の海軍の指導者榎本武揚らが、幕府の艦船で江戸脱出し、北海道に向い、函館五稜郭を占領、北方防衛開拓を申し出たが、新政府に認可されず、戦争となった。新政府軍と旧幕府の対立の最後。

「夜明けの雷鳴―医師高松凌雲」 吉村 昭 文芸春秋 2000
北海道 [2014年12月04日(Thu)]
6月に始まった新事業「日本財団在宅看護センター」起業家研修も追い込みに入っています。後期講義と開業計画に追われている研修生一同と、病院でのcureと在宅でのcareの連携を見事に実践されている(と私は思っているのですが)函館市の高橋病院の見学を企画し、北海道に参りました。

先行した私は、同郷兵庫県出身で救急災害医学のバリバリ研究者だったものの、ご趣味の写真を理由に、北海道単身赴任6年目の村山良雄先生(清水赤十字)のガイドで、帯広、芽室、清水、夕張と4自治体の地域医療/在宅看護について見聞させて頂きました。

帯広への機上からの北海道は、しぶい緑、茶色、まっ黒と三色の区画が果てしなく広がり、その間を縫う道筋の所々に家々が見えます。昨今、限界集落を超え、消滅地域などという言葉もありますが、人口密度は東京(6,113人/Km2)に比し1/100の北海道(61.2人/Km2 2014年)は、そもそも過疎状態が当たり前だったのですね。今後の人口減時代の地域をどうするかは、北海道に学ぶところがあるはず・・・そんなことも思いました。ちなみに、日本国の人口密度は337人/Km2、世界最高は、都市ではマカオ(20,562)、国ではモナコ(24,728)、少ない方はオーストラリア(1.2)、カナダ(1.5)、モンゴル(1.7)です。(United Nations World Population Prospects)

どの国どの地域の文化も、長い間の生活、習慣、歴史と関連していますし、それぞれの暮らしつまり文化はその地の産業とも関係しています。今回、2日間で走り抜けた200Km強は、わが国有数の農業牧畜地帯 十勝平野ですが、ジャガイモ、長芋、そば、大豆、甜菜など、北海道ならではの作物ほか、ありとあらゆる野菜がとれるところ…と申しても、残念ながら、この時期は収穫後の広大な畑の広がり、機上から見たしぶい緑は短い草、茶色は大地、黒は肥料をまかれた土地と判りました。そしてその間の所々に、何々牧場と書かれた門標が現れます。何頭かの乳牛の姿が眺められました。

荒れ模様の天気予報でしたが、晴れオトコのドクター村山のお蔭で、ホンの少しの吹雪、時雨はありましたが、国道38号線や道東自動車道を帯広から札幌まで、傘をさすことはなかったのですが、車外温度は−1〜2℃を行き来し、瞬時に天候が変わる雪国の様子は感じられました。交通量は少なく、対向する車もわずかでしたが、真夏には渋滞もあるとか、それはそれで結構なことだと思いました。街に差し掛かると、病院や診療所がありますが、郊外の高齢者は、殊に雪の季節はどうなのか…そんことも思いましたが、2,30km毎に町はある・・・ちょっとホッとします。

本来の目的の地域医療/在宅看護の様子は報告書にゆだねるとして、ここでは、今回訪問させて頂いた中から、2007(平19)年、財政再建団体(のちに財政再生団体)に陥り、市のホームページに、誠にユニークな借金時計がある夕張市の印象を記します。

夕張メロン、そして映画祭、財政破綻、日本一高齢化の街の日本一若い市長そして、借金時計と話題豊富なこの街ですが、市のホームページによると、明治時代、石炭の大露頭が発見され、わが国有数の炭鉱の街として繁栄し、最大人口は11万人もあったそうです。かつて住んだ九州でも、日本の近代化をけん引した石炭の街々が、その枯渇、事故、そしてエネルギー源が石油にとってかわったことによって衰退しました。ここでも、同じ経過があったのです。後から、よそ者が批判すべきではありませんが、石炭産業の衰退を見越した新たな街興しの規模が本来の街の機能に比し、無謀であったのでしょう。人々も、町の為政者も、当然、今の状態は想定しなかった、できなかったのですが・・・・市長がおっしゃる「課題先進地域夕張」の経過を学ぶことは日本の将来に有用・・・ムーディーズがランクを下げた日本の国債・・・そんなことがないことを切望します。・

現在の1/10の人口は、いわゆる限界集落現象とは異なり、町の財政破綻という、いわば人工の事象で街を去った人が多いこともあるようです。しかし、東京都から派遣された後、この街に戻り、よそ者ながら見事に市長選を勝ち抜き、復興を先導されている若き鈴木直道市長、この街の人間ですからと、高齢者ばかり…の街のケアを支えておられる横田看護師ら、市の破たん前から「がんばって」おられる市診療所長兼理事長の歯科医八田先生、市長イニシアティブで生まれた街の一角にある新しい「歩」、「萌」団地などなど、誰にも優しい新たな夕張の復興も感じました。皆様のご健勝とご活躍を祈るとともに、次回、名物メロンの時期(6〜8月上旬)に再訪したいものです。

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鈴木直道夕張市長と村山ドクター


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夕張医療センター

 
参考
夕張再生市長 夕張市長 鈴木直道 講談社
やらなきゃゼロ!! 鈴木直道  岩波ジュニア新書
インド大陸列車の旅 [2014年11月25日(Tue)]
インドのウエストベンガル州といってもピンとこない方も多いでしょうか。ベンガル湾に面した古い都市コルカタ(かつてのカルカッタ)が州都です。ここから、列車でプルリアまで約6時間の旅を致しました。目的地は、さらに、そこから車で一時間約50Kmのマニプールでしたが、行は鉄道、帰りは車8時間でした。

インドの列車に乗るのは、2回目、最初は5,6年も前ですが、前職看護大学の国際看護フィールドスタディでインドを訪問した際、同じくコルカタからバラナシまでの夜行列車を使いました。バナラシは、よく知られたヒンズーの聖都、夜明けのガンジス河(現地ではガンガスとおっしゃいます)で沐浴する人々や、河岸の荼毘に付される遺体、その遺灰(正確には焼け残った遺体の一部)を聖なる河に流す光景を見ました。あまりきれいではない河・・ですが、信じることは何物をも凌駕することは実感できました。
さて、今回は、弊財団が所在する日本財団ビルなどを管理する株式会社東京BMCさまのご寄付を活用した、ハンセン病患者や回復者の子どもたちのためのホステル-訓練所を兼ねた寄宿舎の竣工式に参加するための事務局長との二人旅です。

コルカタの壮大な鉄道の駅はガンジスに面しています。たくさんのバスやタクシー、そして人々が群れる駅前から構内に入りますと、以前と同じように、天井に巣くっている鳥の鳴き声が騒がしく耳を圧します。区画された待合ベンチでは、これも以前同様、ちょっと気だるげな乗客が並んでいました。夕方4時45分発の列車ですが、3時半過ぎには人々が乗り込みます。長い列車の一両だけのエアコン車両は現地でないと手配できないとか、地元のハンセン関係のNGOの方にお願いしました。発車時には、一車両80席は満席、携帯の話声、ミネラルウォーター、チャイ(甘いミルク紅茶)、よく判らない駄菓子、オモチャ売りがひっきりなしに声を張り上げて通路を行き交うほか、難病の子ども支援の寄付を募る女性もいました。

携帯、アイパッド、イアホーンで何かを聴く人、サリー姿の女性、宗教的な、行者のような姿の男性、額にビンディのある女性、ジーパン、スーツ、いやはや、きょろきょろするに事欠かない光景の中、定刻、音もなく列車は動きました。が、かなり左右に揺れます。1時間くらいは、窓の外の明かりは途切れませんでしたが、やがてほとんど真っ暗、時折、鈍い灯りがひとつ、二つ、また、稀には街灯らしきものが続いているところもありますが、大体は暗黒の中を列車が驀進している…という風でした。

所々の駅に停まりますが、放送があるわけではなく、注意していないと乗り越しそうですが、周囲の乗客は悠然とされています。たまたま、座席が駅舎側ではなかったのですが、19時10分頃に停まったところにはMidonapoleとありました。人気<ヒトケ>のないプラットフォーム、線路を大きくまたぐ架橋、まるで日本の田舎の駅のようでした。

時折、小さな紙カップにティーバッグでつくるチャイ、よく判らないポップコーン様のお菓子を売りに参ります。ちなみにチャイは、2ルピー約4円、それにしては美味しく頂けました。また、時折、突然の携帯、怒鳴るような話し声が響きます。

さて、インドの鉄道は大英帝国によって、1853年、現在のムンバイ(当時のボンベイ)とその郊外のタネー間に敷かれたそうです。日本は嘉永6年、ペリー来航の年です。日本の汽笛一声新橋を列車が動き出したのは1872年ですから20年先輩です。現在、62,000Kmの長さを誇る世界第五位の大鉄道網です。当初は、大英帝国が、植民地化したインド内で安く手に入れた綿花や石炭そして紅茶などを集積するためでした。大英帝国だけではありませんが、かつて世界を睥睨したヨーロッパ諸国は、その植民地を経営するに、株式会社形式をとっています。曰く、オランダ東インド会社、イギリス東インド会社・・・制度としては効率的であったのでしょうが、その組織の下で暮らし続けて行かねばならなかった現地の人々はどんな思いだったのか…ゴトゴト揺れる列車の中で、そんなことを思いました。

東北インドでは、紅茶の名産地ダージリンやアッサム行の、世界遺産に登録されているダージリン・ヒマラヤ鉄道(1999登録)があり、特殊な登山列車風だとか、一度乗ってみたいとも思いました。
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コルカタ駅


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車内の様子
人生の完結時を看取る 緩和ケアを支える医師たち [2014年11月17日(Mon)]
弊財団は、2001年、「ホスピス緩和ケアドクター研修」支援を始め、2005年からは、研修を終えた医師のネットワーク活動支援もはじめています。たった、年1度ですが、各地各施設で緩和ケアに従事されている医師たちが一堂に集まり、ご希望の講師の講演と、情報交換をされる場を提供させて頂いています。2014年11月現在、この研修を終えた「ホスピスドクター」は80名、本年の研修者は5名です。

さて、世界の高齢社会の最先端にあるわが国では、これまでの医療施設で病気を治す治療
cure的医療サービスと、地域や住み慣れた自宅で衰えつつある健康と折り合いをつけながら生をまっとうする療養care的保健サービスのバランスがきわめて重要になっています。国が進める地域包括医療はそのための施策であり、私どもが支援させて頂いてきたホスピス緩和ケアに関する人材育成や在宅看護センター起業看護師育成は、それを先取りしたものと申せます。

先週末、本年の「ホスピスドクター研修ネットワーク」の情報交換会が開かれました。
ちょうど10年目のため、修了年度の異なる5名の医師たちが、色々なご意見を発表下さいました。半世紀も前に医学部で学んだ私には、どなたのお話も、ある意味斬新である一方、技術的には果てしなく進んでいる医学の中で、この分野におられる若き俊英たちが、あくまで医の原点から一歩も動かないお覚悟であられることをヒシヒシと感じ、ちょっと胸があつく、また、痛くなる想いを致しました。実際には、かなりご経験のある、つまりそれなりにお年を召したドクターもおいででしたが、後期高齢者の私には、どなたもピカピカに若く、そして美しく見えるとともに、当分野がドンドン、マスマス発展しているのだろうと、ちょっと誤解してしまいました。

時代は、地域、在宅医療ブームです。ここで使うには不謹慎な言葉ですが、最近の医療ニュースでは、ネコも杓子も地域包括医療、在宅医療、家庭での看取りです。高齢者だけでなく、各種の病苦の最後、つまり人生の最後は住み慣れた自宅で、家族に見守られて・・と思われる人々が増えており、そのためには何処であれ、緩和ケア、ホスピスケアの経験をもった医療スタッフが必要、私どもの支援はその一環に過ぎない・・・微々たるものとばかり思っていました。
不勉強なことでしたが、意見交換会の後の懇親会の席で教えて頂いたこと、そしてインターネットで確認したことですが、公益財団法人 日本医療機能評価機構によりますと、緩和ケアで認定された卒後臨床研修病院は、全国8,512病院の中でたった32施設(2014年12月20日開始を含む)でした。そして、大学病院は、藤田保健衛生大学七栗サナトリウムだけ、この分野の人材育成は、まだ、この道を切り開かれた先達、第一世代のドクター方を中心とする、いわば手仕事的レベルにあることに、ちょっと愕然としました。
ただ、10回目の意見交換会にご参加下さった先生方は、皆、とてもマイルドなパーソナリティとお見受けしましたが、科学的に病気を視ることは当然としても、その域に留まっておいでの方は絶無、病気を持った人を診ること、そしてその背後にある生活を観て、社会を見ておられるという、医の原点に立たれていることを深い敬意をもって拝見しました。

先生方のご活躍を祈念するとともに、この分野の適切な発展のために、弊財団は何をなすべきか、ご支援させて頂く事項を改めて考え、その意義、意味を思い知った一日でした。

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情報交換会では活発な意見交換が行われた
北京秋天 [2014年11月10日(Mon)]
11月10、11日と北京で、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開催されます。
かつて勤務した中日友好病院開院30周年にお招き頂き、10月下旬にその北京に参りました。

約30年近く昔ですが、10月から11月の彼の地の空は吸い込まれるような青一色でした。古く11世紀に造られ、中国で一番大きな宮廷公園という北海公園<ペーハイコンユァン>の、チベット風仏塔のある小高い丘に上りますと、南東に位置する故宮<グーコン>の瑠璃瓦(釉薬を施した色つきの瓦)が、澄み切った秋空の下、それは、それはきれいに輝いて、紺碧の空に映えていました。「北京秋天」とは、梅原隆三郎画伯の1942年の作品の題名ですが、その言葉どおりでした。

開発に伴う工業化が進むと、どの国、どの地方でも環境汚染が始まります。
18世紀の産業革命で、世界初の工業化国となったイギリスでは、石炭使用が増えた世紀末には酸性雨がはじまりました。環境汚染の最初です。近代では、煙突からの排気もあったのですが、1950年代には、多数死者が出るほどの大規模環境汚染がロンドンで発生しました。わが国では、先進工業化を進めた結果、1950代から60年代にかけて、各地で環境問題が生じたことは、まだ、記憶に新しいところです。80年代には東欧諸国での河川汚染が広がり、現在は、中国やインドで環境汚染が深刻化しているのです。

10月19日の北京マラソンでは、マスクやタオルで口や鼻を覆った大勢のランナーの写真が報じられていましたが、体調不良での脱落も多かったとか。私は、その直後に訪問したのですが、確かに、かつての青空の片りんもなく、曇天の所為もあったかと思いますが、大通りの向こう側のビルの上部がかすんでいました。当然、かつて天安門への大通りを埋めていた自転車に代わり、車、車、車・・・

現地では1週間前から、APEC首脳会議にむけて大気汚染対策が始まったそうです。以前からも云われていましたが、北京市内では、車のナンバープレートの偶数奇数で、市内中心部乗り入れが制限されたり、近郊の工場の操業停止や、地域によっては暖房も制限されたりしていますし、老朽化した自動車の強制廃車も行われたとか。

「政府の面子で生活を犠牲にする」との不満の声もあるそうですが、考えようによっては、制限すれば空気がきれいになる・・・のなら、制限は有効で、必要ではないでしょうか。通常、人は外国に行く場合、国境を超えるには、パスポートを提示しますが、空気中の汚染物質は黙って、遠慮なく、押し寄せます。しかし、私たちの健康を脅かす物質は、当然、その原産地の人々の健康をも侵しているはずです。

長らく膠着状態にある隣国との関係は、どちらの国の住民の健康にとっても、良いものではありません。政府の強硬な手段のお蔭で、束の間でも、北京秋天が回復しているとの報道、それが永からんこととともに、一衣帯水の関係回復を切望します。
歴史の重み [2014年11月06日(Thu)]
笹川記念保健協力財団は、先の40周年記念講演会(2014年10月17日)でも申しましたが、世界のハンセン病制圧という壮大な目標のもとに設立されました。1985年から始まった統計データによると、当時、世界では毎年数百万を超える患者が報告されていました。

繰り返します。ハンセン病は、らい菌による感染症です。しかしこの菌は、感染しても病原性(感染した人が症状を示す力)がきわめて弱くめったに発病しません。ただ、潜伏期(菌が体内に入ってから症状を示すまでの期間)は最低数年と著しく長く、何時どこで感染したのか判りません。その点、現在、西アフリカで猖獗を極めているエボラウイルス病(出血熱)は、潜伏期間は2〜3週間、感染するとほぼ発症し、治療しなければ旬日で死に至るという急激さとはまるで正反対、また、ウイルスを原因とするエボラは有効な治療薬がないのに対し、ハンセン病は3種の薬剤を組み合わせ服用すれば完璧に治ることも違います。

らい菌は皮膚や、皮膚に分布する末梢神経を侵します。初期には、皮膚に斑紋が生じ、その部の知覚がなくなります。痛くない・・・というのは、良いようでとても困った症状です。痛みが強ければ、誰でも医療を求めますが、痛くないと放ったらかし、怪我しても痛くない・・・ために傷が化膿したり、手遅れになり、神経のマヒとあいまって障害をのこします。外見が侵され、手足が変形し、機能喪失が生じて始めて病気と気づく・・・弱い病原性のために、遺伝と間違われたり、長い期間をかけて生じた見掛けの問題がこの病気を社会から遠ざけたりしました。
実際、骨の化石から、有史以前にも、この病気の存在が判っていたのに、1940代まで治療法がなく、さらに感染症だと判ったことが理由で、厳しい隔離政策がとられました。

この病気、等しく世界のどこにでも発生し、どの国でも、似たり寄ったりの経過をたどっていますが・・・・わが国の厳しい隔離政策の基であった「らい予防法」はやっと1996年に廃止され、それを受けて1998年に熊本地裁に提訴された「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟が2001年に原告側の勝訴、同年6月の衆参両院で、「ハンセン病問題に関する決議」が採択されました。遅きに失したとも申せます。が、国は回復者となっているかつての患者さんたちに謝罪しました。

笹川記念保健協力財団は、元々、海外活動が主でしたが、今までの歴史をきちんと検証する必要性を認識し、2004年から歴史保存のための活動を先導し、また支援しています。

一昨年の第1回歴史保存のためのワークショップに続き、2014年10月31日、11月1日、タイ、コロンビア、マレーシア、ネパール、フィリピンの関係者をお招きしての第2回ワークショップを国立ハンセン病資料館で開催、2日には、草津温泉の近く栗生楽生園を訪問、そして4日には、日本財団ビルで第5回世界ハンセン病セミナーを開催しました。今回は、かつて世界的な「隔離の島/市」であった、フィリピンのクリオン療養所と、南米コロンビアのアグア・デ・ディオス(神の水)の歴史を語って頂きました。

ワークショップは、タイ、コロンビア、マレーシア、ネパールで歴史保存に取り組む関係者のためのものでしたが、セミナーには、沢山の参加者が、時間後も、コロンビアとフィリピンの発表者を取り囲んでいました。

フランスの文筆家ゴンクール兄弟の言葉に「小説は過去にあったかもしれない歴史であり、歴史は過去にあった小説である」という言葉があります。私が回復者の方々とお話する機会は、まだ、きわめて限られたものですが、皆様のお話は、どんな歴史よりも、そして小説よりも劇的です。
国の歴史、地域や組織の歴史・・・・それはその構成単位である個々の人々の歴史の集約であることを強く想い、個々人を大事にする社会の重要さを改め痛感しました。

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学芸員の方の説明を聞きながらハンセン病資料館を見学する各国の参加者たち

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財団内で行われたセミナーでのコロンビアからの参加者のプレゼンの様子

過日設立40周年を期しての催しをさせて頂きましたが、この3連休は、続けて、歴史の重みを考える機会となりました。
お国柄の食べ物 イギリスと中国 [2014年10月27日(Mon)]
10月の3週間ほどの間に、1泊だけもありましたが、イギリス(ロンドン)、スイス(ジュネーブ)、インド(ニューデリー)と中国(北京)に参りました。それぞれの地での仕事はさておいて、お国柄の食べ物…今回はロンドンと北京での感想です。

ロンドンは、とにかく物価が高く、あまりウロウロする気にもなりません。が、この時期、並木が色づいて、かつてのスモッグはなくなり、なかなかに趣ある秋の風情でした。あいにく、午後、遅く着いて、一晩だけ、そしてディナーはおひとり様で。

ロンドンの人口の半分は、国外で生まれた人々だそうです。メニューを持ってきて下さったのは、口のまわりのお髭がよく似合う中東風の青年。まず、「飲み物は?」と。
周囲も、ほぼ、おひとり様、ノートパソコンかアイパッドとにらめっこしながらの仕事人間風の方々でしたが、ワインあり、ビールあり・・・・スッコッチあり。
「ウーン、何にしましょうかね。イギリス風で・・・」と、老眼鏡をかけて、飲み物リストを眺めながら、「お腹はそれほどへっていない・・・のだけどぉ・・」などと申しましたら、「じゃぁ、美味しいローストビーフサラダは如何?」そして、「ギネス!」と勧めて下さいました。

フランス料理、中国料理、インド料理、日本料理といった風にイギリス料理とは、あまり、申しません。この国は、先般、スコットランドが独立するかどうかの住民投票がありましたが、そもそも、イングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズ地方が合体し、正式国名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)で、通称がイギリスです。それぞれに異なるお料理があると聞いていますが、牛肉の塊を蒸し焼きにしたローストビーフは、確かにイギリス料理であり、また、ギネスは、アイルランドのタブリン生まれの、もとは地ビールですから、それをお願い致しました。

私は下戸ですが、美味しいお料理の際、一口アルコールがあるのは歓迎です。ところが、Mr.口髭氏がお持ち下さったのは、形はグラスですが、日本式には中ジョッキ以上の容量でした。サラダの野菜はやや硬めながら、ローストビーフは確かに良いお味、そして程よく揚げられたフライドポテトが少々。

その昔、the Great Hungerとして知られる1845〜49年のアイルランドの大飢饉は、イングランドとアイルランドの連合後も経済発展が進まなかったアイルランドで、主食のジャガイモの根腐り病が発生したことによります。ギネスビールは18世紀半ばに生まれていますから、大飢饉以前の人々も、ギネスとポテトを楽しんだのかな、などと思いながら、大コップに挑戦しましたが、飲めども、飲めども減らない・・・のでありました。
「エッ!もう、飲まないの?」と仰せの口髭氏には、ほとんど飲んだとは見えないほど・・申し訳ないことでした。

それから、2週間後の北京も一泊でした。
こちらでは当然中国料理ですが、こちらも北京料理、上海料理、そしてとびきり辛い四川料理などなど、各地各様、そしてどちらも美味しいです。

こちらでは、飲めないくせに、と云われそうですが、「お飲み物は?」と聞かれるや否や、「青島啤酒<チンタオピーチュウ>!!」と、はしたなくも叫びます。なぜか、このビールとは相性がよく、飲みやすく、他のビールよりは、少したくさん頂けるような気がしています。

そして、当然、北京は北京烤鴨<ベイチンカオヤー>ですね。
その昔、北京勤務の折、北京市内の有名カオヤー店を食べ歩いたことがあります。その時、楓<カエデ>で焼いたものが一番美味しいと聞きましたが、なかなか厨房は見せて頂けませんでした。一軒だけ、窯の中の写真を撮らせて頂きましたが、燃えていた木は何か、判りませんでした。現在は電気窯でしょうか。でも、昔ながらに、薄い皮(薄餅<バオビン>)に、パリッと焼けたダックの皮を置き、細切りおネギと胡瓜を乗せ、ドロッとした甘味のあるソース(甜麺醤<ティンメンジャン>)を塗って頂くと、ちょっと幸せな感じがしました。

ロンドンの悪名高いスモッグが消えた一方、北京のそれは聞きしに勝る状態、天候も少し悪かったのですが、大通りの向いの高層ビルの上部がかすんで見えないのを実感するにつけ、二十数年前、秋の晴れた日のこの地は、本当に北京秋天という言葉がぴったり、故宮の瑠璃瓦が多彩に輝いて見えたことを思いだしました。

ロンドンが改善し、わが国の環境汚染も克服できました。わが国は長くこの国の環境にかかわってはいますが、急激な工業化、都市化に追い付いていないのでしょうか。進行中の高齢化とともに、わが国が協力できる分野がまだまだある・・・と、久しぶりの中国で思いました。

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財団40年周年 歴史の重みと未来への想い [2014年10月21日(Tue)]
先週末、私ども笹川記念保健協力財団は設立40周年記念の催しをもちました。
これまでお世話になった方々をお招きしてささやかにとの当初の意図は、過日の新聞広報をご覧になってのお申込みもあって、沢山の皆さまにおいで頂きました。
改めて、これまでのご支援下さった皆様、そして当日ご来駕下さいました方々に、こころからお礼申し上げます。

財団が生まれた1974年は昭和49年でした。私は、小児科医として働いた国立大阪病院(当時)から、母校に戻り、臨床検査医学という新しい分野で、臨床・教育・研究を始めたばかりでした。この年、何があったか・・・近頃はネットで調べることは簡単ですが、思い出すことがふたつあります。ひとつは、アメリカではニクソン大統領、日本では田中角栄首相がともに失脚したことでした。それに先立つ数年、日本では、赤軍派事件があって、何とはなく、世の中が騒然とした感とともに、為政者が正義にもとる手段を講じたことで職を追われたことに、釈然としないショックを受けました。チョット青臭いことでしたが・・・

もうひとつは、郷里宝塚での思い出です。当時、大学病院勤務とは申せ、検査医学に属したこともあり、受け持ち患者を持たないコンサルタント的立場でしたが、ある日、後輩の受け持つ血液疾患患者の症状が急変し、その対応を済ませ、車で1時間半ほどの宝塚に戻ったのは深更でした。後の阪神淡路大震災で損壊しましたが、当時住んでいた築200年の古屋敷は、宝塚歌劇場や今は閉鎖された動物園、遊園地から徒歩10分ほどの地でした。その劇場近くで、長い、長い行列を見かけたのですが、こんな時間に何?と思ったまま、忘れていました。それは、その後、宝塚歌劇団の代表的かつ古典的になった「ベルサイユのバラ」と関係していたようでしたが、確認はしていません。ただ、それをきっかけに、全10巻の「ベルバラ」原著を入手し、熱読しましたが、ついに宝塚を鑑賞することはなく、40年・・・です。Nativeヅカ人としては遺憾なことですが・・・

さて、その頃、ハンセン病は世界で蔓延している感染症のひとつでした。1974年5月に開催された世界保健機関(WHO)第27回総会の決議では、前年1973年のWHO事務局長の年次報告を引用しつつ、「・・・ハンセン病は広く蔓延している深刻な疾患であることを鑑み、新たな疫学的方法を開発し、また、新しい微生物学的技術、特に動物予防接種や免疫学的手法を用いれば、この疾患対策を促進し効果を示せるだろう・・・(Recalling that leprosy is still a widespread and serious disease; and Considering that the new microbiological techniques, particularly animal inoculation, and immunological methods as well as the development of new epidemiological approaches seem likely to speed up leprosy control and make it more effective,・・・)」とあります。当時の年間新規感染者数は、恐らく5、6百万人規模だったでしょうか。

ハンセン病は、現在、西アフリカで猖獗を極めているエボラウイルス病の対極ともいえる超慢性の感染症です、弱い感染性と弱い病原性、滅多なことで発病は致しません。しかし、毎年毎年、数百万の患者が現れれば、当然、感染の機会は増え続けます。

しかし、当時、世界の保健情勢・・・それに関心をもつ人は、私の周囲には皆無、後に国際保健に転進した私自身も、自分の研究テーマ以外に海外の情報には眼が向いていませんでした。唯一の途上国との接点は、しかしJICA(現国際協力機構)の依頼によるパラグアイからの見学者を受け入れ、そのために同国の保健情勢を調べたことでした。

そのような時代に、笹川良一、石舘守三という財団創設者は、世界のハンセン病を制圧しようとの壮大な計画を立てられたのですね。本当に、我彼の差を恥じるばかりです。

それから40年、発病者が人口1万人あたりに1人以下というWHOの云う公衆衛生学的制圧目標は、ブラジルを除いて、達成されています。そして現在の世界の新規発病者数は20万人強にまで減っています。しかしこの段階に到ってから、ほとんど改善は見られません。

加えて、この病気に対する偏見や差別は、多くの国で未解決なのです。私どもは、WHOの健康の定義にある「身体的、精神的そして社会的にwell-being」であることのため、ハンセン病をめぐるさまざまな問題に取り組みつつ、次なる40年のスタート切りました。引き続き、末永いご支援ご指導をお願い申し上げます。
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日本財団 笹川会長の記念講演

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当財団名誉会長日野原先生もご一緒に、財団のバースデーケーキのろうそくを吹き消して頂きました