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第41回 全国福祉施設士セミナー参加報告 [2019年07月08日(Mon)]
日本福祉施設士会 創立40周年 令和元年度
第41回 全国福祉施設士セミナー参加報告(令和元年7月4〜5日開催)

http://www.dswi-sisetusi.gr.jp/annai/pdf/k_semi_2019_02.pdf

◎7/4午後の全国セミナーに先立って
○当法人(県北報公会)から4名の参加
→大館能代空港より10:55発、羽田空港経由で福岡空港着15:20分。しかし、羽田空港の乗り継ぎまでは一緒であったが、飛行機の予約が各人であったために、羽田空港第1や第2ターミナルに乗り継ぎが別れてしまい、福岡空港ではそれぞれになってしまった。しょうがなく一人行動をとってしまう。

○大宰府を訪ねて→当日の天候が気になり半分あきらめてかけていた(九州地方特に南部の記録的な大雨による影響)が、福岡空港到着時には幸いにも雨がやんでいたので予定通り決行することにした。身軽な一人旅とは実にいいものだ。決断したとおりに行動できる。地下鉄空港線・福岡空港→天神駅、西鉄線で特急(大牟田行き)で「二日市」へ→乗り換え太宰府(16:20)へ。すぐに「駅前の案内のおじさん」がバスよりもタクシーを進めてくれたおかげで時間を意識でき、有意義な時間にしようと心に決めた。

○新元号「令和」ゆかりの神社「坂本八幡宮」へhttps://yaokami.jp/1401938/→タクシーで神社前に到着(所要時間10分、980円、16:45分頃)。丁度大型バスの団体が見学を終えていたので、つかの間の閑寂があった。参拝後に、ふと気が付くと「石塔」にろうそくをともす「おばあちゃん」がいたのでその訳を訪ねてみた。地区の班ごとに当番で順に管理しているという。ジーと見ていたらお賽銭後にお参りしていたので、当番になった人は、きっとそうするに違いないと思ったら、今後も地域で護持されていくことに感無量になる。

・氏子の「田中さん」との出会い→新元号「令和」は万葉集に収録された梅花の歌の「序」から引用、大伴旅人が「梅花の宴」を開いた邸宅跡とされるのが坂本八幡宮で令和のゆかりの地だそうだ。氏子らしくいろいろな裏の話も教えてくれた。例えば「令和」の年号は5月1日からスタートしているが、昨年の12月14日にすでに「菅官房長官」が訪ずれていることを聞くと、すでに新元号は、決まっていたということがわかる。名もない神社が、今では、有名になり参拝するのも混雑しているときにはずらりと観光客が並び2時間も長い列になるという。帰りに、田中さんとその道を下ってバス停に歩いたが、「7世紀後半から奈良・平安時代、九州の外交・軍事の拠点だった役所跡・大宰府政庁跡」が整備されていて広々とした景観に触れて感無量となる。まだまだ発掘される場所を説明されたが、「太宰府天満宮」にも回りたかったので、丁寧にお辞儀をして別れた。これに関する資料館もあったが、時間が遅かったのですでに閉館。心残りであったが、潔く割り切ってバス停に向かった。二度訪れるかどうかはわからない。

・瀬口さんのご厚意に感謝して(この感激が一番といってよい)→路地から出てきた一台のワゴン車にバス停の方向を聞いたのが始まり。バス停の時間を見たらもう20分を待たねばならなかったので、次の停留所まで歩いて景色を楽しもうと思い、歩いていたら間もなくバスが来たのだ。そこで運転手さんに手を振ったが止めてくれず、定期バスかどうかも疑った。とにかく歩いていたら(キャリーバッグをゴロゴロ鳴らして)、先程のワゴン車らしきものが止まっていた。「駅まで30分以上かかりますよ、丁度方向が同じなので乗りませんか?」。一瞬戸惑ったものの、どのようにとらえていいのかわからずに、お願いします、といってしまった。先程のタクシーと違い、クネクネ曲がりながらあっという間に大宰府到着となった。車の中で聞いて合点がした。自分が立ち上げた「内装業」で忙しいが、常にお客様の目線が気になるという。40代半のようで、会話の掘り下げから推察すると考えのしっかりした青年のようだ。思いがけない人間の「親切さ」に触れ、今後の日本の若者の姿に触れ、改めて若者たちを応援していかねばと、感激のあまりにそう思ったものだ。

○太宰府天満宮へ(https://www.dazaifutenmangu.or.jp/about)→菅原道真(菅公)の墓所の上に建てられた神社で、学問の神、至誠の神として崇敬されている。

○太宰府天満宮略記(直会所提供から)→菅原家の祖は天穂日命(あめのほひのみこと)、その14世孫野見宿襺(のみのすくね)公の後裔で、桓武天皇御代に菅原の姓を許された。母は大伴氏の出で845年6/25に京都の菅原院にて生誕。幼少の頃より学問を好み詩歌にも優れ5歳の時に庭前の梅花を見て和歌を詠まれ、11歳でも「月夜見 梅花」の詩を作られ33歳で「文章博士」、42歳で讃岐守(さぬきのかみ)として4年間赴任生活、各国司として領民に慕われた。宇多天皇の理想政治のもとで信任を受け蔵人頭に抜擢され、55歳で右大臣にまで昇進。更に57歳、正月7日従二位に叙されたが、時の左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん:事実を偽り他人を悪く言うこと)により、大宰府に左遷された。

・「飛梅」とは→その際に紅梅殿の梅に別れを惜しんで和歌を詠じたが、その梅が菅公を慕って飛来したのが「飛梅」と伝えられている。
・学問の神・至誠の神になる→瀬戸内海の海路を使って九州にわたり、3月上旬に大宰府についた。政務の実権はなく配所の榎寺を一歩も門外に出ようとせず、ただひたすらに謹慎の生活を送っている。そのような苦しい蟄居においても「天を恨まず、人を憎まず、ただひたすら国家の繁栄と皇室の御安寧を祈られた」ことは、その和歌で広く知られるところ。いつの日か無実の罪が晴れることを願っておられたが、903年2/25日再び京の地を踏むことなく59歳で薨去された。

・菅公の御事績→我が国の文化興隆の上に大きなるものがあり、菅公の建議によって遣唐使が廃止され、以後わが国独自の文化が隆々として興ったことはよく知られている。「至誠の神」とは知らなかった。新しい認識が付け加えられたことに感謝です。

○以上、訪れた歴史の知識として上記パンフレットを改めて見直してみました。ホテルに着いたのは夜の8:30分ごろですが、とても満足感がありました。。
・老い先短いものにとっては、二度と返らない人生、「今が大事」になりますので、思い切った行動がさらなる知識拡大に広がるように祈るばかりです。

次回は、いよいよ「第41回 全国福祉施設士セミナー報告」からです。

◆羽田空港乗り継ぎ場所で
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◆「令和」ゆかりの神社「坂本八幡宮」   坂本地区当番「おばあちゃん」
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◆氏子会の田中さん 説明ありがとう
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◆親切な瀬口さん ありがとう(太宰府駅まで)
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◆飛梅  太宰府天満宮に向かって右側
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◆参道からの天満宮
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