歴史に少し思いを馳せる日[2026年07月03日(Fri)]
私が住む浜松市の旧・市の花は「萩」でした。また古くは「萩町」現在では「萩丘(はぎおか)」という地名があります。何気なく使っているその名前に、1300年前の万葉の情景が隠されていることを知る人は、どれほどいるでしょうか。
かつてこの「萩丘」が位置する三方原台地のあたりは「引馬野(ひくまの)」と呼ばれ、
万葉集巻一にもこの名が詠まれた歌があります。
57 引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
引馬野に色づいている榛の原、さあ、この中にみんな入り乱れて衣を艶やかに染めようではないか、旅の記念(しるし)に。
作者は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、702年の持統太上天皇の三河国行幸に従駕した時の歌とされています。
この歌にある「榛原(はりはら)」という言葉に対し、江戸時代の浜松が生んだ国学者・賀茂真淵は、独自の説を唱えました。「これは榛(はんのき)ではなく、萩(はぎ)の原のことではないか」と。持統天皇が三河の国に行幸した記録は確かに残されているので、現在では「引馬野」は三河説が有力のようですが、しかし歴史的に「引間、あるいは引馬」の名前が複数の文献に残されている、という点で遠江説を支持する声も根強く残っているようです。
真淵は、仮名の発明とともに置き去りにされていた万葉集を単なる古典の書物としてではなく、そこに流れる「古の人の心」を現代に息づかせるものとして読み解き、再び光
を当てました。彼が愛したこの地の萩は、単なる植物の茂みではなく、風に揺れ、秋の気配を告げ、旅人の心を慰める生きた存在だったのでしょう。
万葉集で最も多く詠まれた植物は「梅」でも「桜」でもなく、「萩」でした。なかでも巻十には数多くの萩の歌が収められていますが、それらの歌を改めて読み返してみると、今の曳馬野と呼ばれる台地に吹く風と、万葉の時代の風が地続きであることを感じます。秋にこぼれるように咲き乱れる萩の花、風に揺れる木の葉の音に耳をすませ、その彩りに目を奪われた万葉人の姿が現れてきます。その時、私たちの心は1300年前の誰かと、静かに共鳴しているといっていいのではないでしょうか。
そんなふうに歴史という大きな時間の流れの中に、今の自分の暮らしを置いてみると、ふと肩の力が抜けている自分を感じます。
目の前の現実に少し疲れた時、「昔の人もこの景色を見ていたかも」と思うだけでなんでもない今の景色が少しだけ違って見える気がして、「大丈夫、大丈夫。みんなこうして生きてきた。」と自分に声をかけたくなるのです。(浜松拠点・黒田)
かつてこの「萩丘」が位置する三方原台地のあたりは「引馬野(ひくまの)」と呼ばれ、
57 引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
引馬野に色づいている榛の原、さあ、この中にみんな入り乱れて衣を艶やかに染めようではないか、旅の記念(しるし)に。
作者は長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)、702年の持統太上天皇の三河国行幸に従駕した時の歌とされています。
この歌にある「榛原(はりはら)」という言葉に対し、江戸時代の浜松が生んだ国学者・賀茂真淵は、独自の説を唱えました。「これは榛(はんのき)ではなく、萩(はぎ)の原のことではないか」と。持統天皇が三河の国に行幸した記録は確かに残されているので、現在では「引馬野」は三河説が有力のようですが、しかし歴史的に「引間、あるいは引馬」の名前が複数の文献に残されている、という点で遠江説を支持する声も根強く残っているようです。
真淵は、仮名の発明とともに置き去りにされていた万葉集を単なる古典の書物としてではなく、そこに流れる「古の人の心」を現代に息づかせるものとして読み解き、再び光
万葉集で最も多く詠まれた植物は「梅」でも「桜」でもなく、「萩」でした。なかでも巻十には数多くの萩の歌が収められていますが、それらの歌を改めて読み返してみると、今の曳馬野と呼ばれる台地に吹く風と、万葉の時代の風が地続きであることを感じます。秋にこぼれるように咲き乱れる萩の花、風に揺れる木の葉の音に耳をすませ、その彩りに目を奪われた万葉人の姿が現れてきます。その時、私たちの心は1300年前の誰かと、静かに共鳴しているといっていいのではないでしょうか。
そんなふうに歴史という大きな時間の流れの中に、今の自分の暮らしを置いてみると、ふと肩の力が抜けている自分を感じます。
目の前の現実に少し疲れた時、「昔の人もこの景色を見ていたかも」と思うだけでなんでもない今の景色が少しだけ違って見える気がして、「大丈夫、大丈夫。みんなこうして生きてきた。」と自分に声をかけたくなるのです。(浜松拠点・黒田)



