無役の自分[2009年11月10日(Tue)]
真っ平らな関係という言葉を最近聞き、感心しました。
カフェのオーナーが
「肩書きなど必要としない、真っ平らな関係ができる空間を作りたい」と
おっしゃっていました。
社会的なつながりの中で形成された自らの像と離れた自分を楽しむ、
という意味でなるほどその通りだなと思ったわけです。
同時に
「人は何かの役をいつも演じている、だから本当の自分なんて
いないんだ」という言葉も思い出しました。
役、それは父親だったり、会社の上司だったり、PTA役員だったり。
人は皆、そのときそのときでいくつもの役を演じ分けているのだそうです。
でも「本当の自分」がいないのかどうか私にはわかりません。
だって同じ「父親」を演じていても、父親像は人それぞれで、
やっぱり個性が出てくるわけですから。
「この役はぜひともあの俳優さんにやってもらいたい」と脚本家が
思うのも無理ありません。
同じ台本で同じ役を演じることになっても、演じるひとによって
雰囲気は大きくかわるでしょう。
だからどこかに本当の自分がいるような気がしています。
では「真っ平らな関係」を演じるとは、どういうことでしょうか。
「演じる」という言葉にこだわるとすれば、それは
「無役の自分を演じる」
ということになります。父でも上司でもPTA役員でもない自分、
社会的な肩書きを持たない自分を演じること。
先のカフェオーナーが理想とする空間では、そのオーナーが
無役の自分を引き出してくれることになります。
もしかしたら自分でさえ見たことのない自分を知ることになるかもしれません。
だとしたら、ちょっと怖い空間ですね。
でも老若男女を問わず人はそんな空間を求めているのではないかと思います。
怖いもの見たさで。
カフェのオーナーが
「肩書きなど必要としない、真っ平らな関係ができる空間を作りたい」と
おっしゃっていました。
社会的なつながりの中で形成された自らの像と離れた自分を楽しむ、
という意味でなるほどその通りだなと思ったわけです。
同時に
「人は何かの役をいつも演じている、だから本当の自分なんて
いないんだ」という言葉も思い出しました。
役、それは父親だったり、会社の上司だったり、PTA役員だったり。
人は皆、そのときそのときでいくつもの役を演じ分けているのだそうです。
でも「本当の自分」がいないのかどうか私にはわかりません。
だって同じ「父親」を演じていても、父親像は人それぞれで、
やっぱり個性が出てくるわけですから。
「この役はぜひともあの俳優さんにやってもらいたい」と脚本家が
思うのも無理ありません。
同じ台本で同じ役を演じることになっても、演じるひとによって
雰囲気は大きくかわるでしょう。
だからどこかに本当の自分がいるような気がしています。
では「真っ平らな関係」を演じるとは、どういうことでしょうか。
「演じる」という言葉にこだわるとすれば、それは
「無役の自分を演じる」
ということになります。父でも上司でもPTA役員でもない自分、
社会的な肩書きを持たない自分を演じること。
先のカフェオーナーが理想とする空間では、そのオーナーが
無役の自分を引き出してくれることになります。
もしかしたら自分でさえ見たことのない自分を知ることになるかもしれません。
だとしたら、ちょっと怖い空間ですね。
でも老若男女を問わず人はそんな空間を求めているのではないかと思います。
怖いもの見たさで。
Posted by ANDO at 20:28 | 日々のあれこれ | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)